第七章-3 謝罪
翌日の生徒会室では、机の上には報告書や礼状案が積まれ、窓の外には冬の淡い陽射しが差し込んでいる。休暇前とはいえ、生徒会の仕事は山ほどあった。
「エレン、決済報告書できてる?」
アエラが書類をめくりながら声を上げる。
「はい! 殿下の卓の上に出してあります」
エレンが元気よく返した。
「これかな」
アルシオは自分の机の上から書類を取り上げる。
「はい、リーナ」
自然な動作だった。けれど、書類を受け取ろうとした瞬間、指先が触れる。
「っ」
アエラの肩がびくりと揺れた。たったそれだけのことなのに、昨日までなら意識せずにいられたことが、今日は出来なかった。庭園で握られた手の感触も、抱きしめられた熱も、唇へ触れた口づけも、全部思い出してしまう。
「……リーナ?」
アルシオが不思議そうに瞬く。
「な、何でもないわ!」
アエラは慌てて書類を抱え込み、一歩下がった。明らかに挙動不審だった。アルシオは一瞬きょとんとしたあと、ようやく何に反応されたのか気づいたらしい。耳が少しだけ赤くなる。その様子を、向かい側からマリエラが見ていた。
「あらあら」
手で口元を隠しながら、実に温かい目をしている。ランスは何も言わない。ただ静かに書類へ視線を落としていた。ザンザスに至っては、露骨なくらい見ないふりをしている。ペンを走らせながら、
「……次、備品確認っと」
とだけ低く言った。
「もう……!」
アエラは小さく呟きながら席へ戻る。マリエラはとうとう堪えきれず、小さく笑った。
「アエラ、顔に出過ぎですわ!」
「放っておいて!」
「無理ですわ!」
即答だった。ランスがそこで小さく咳払いをする。
「仕事が進まない」
「ごめんなさいね!」
アエラが抗議すると、ランスはわずかに視線を逸らした。ザンザスの肩が、今度ははっきり揺れる。
「笑わないでよ!」
生徒会室へ、小さな笑い声が広がる。アルシオはその光景を見ながら、静かに目を細めた。昨日までと同じ、生徒会室。けれど、ここでは純粋に容認されていることが、嬉しかった。
生徒会室を出たあとも、アルシオの胸には、まだあの穏やかな空気が残っていた。アエラの赤くなった顔。マリエラの温かな微笑み。何も言わずに見守ってくれたランスとザンザス。昨日までは曖昧だったものを、皆が自然に受け止めてくれている。
けれど同時に、向き合わなければならないこともある。アルシオは人気の少ない廊下を歩いていた。窓の外には冬空が広がり、午後の光が白く差し込んでいる。靴音だけが静かな校舎へ響いていた。
待ち合わせ場所は、中央棟の端にある小さな会議室だった。使用申請を出せば誰でも使える部屋だが、この時間はほとんど人が来ない。扉の前で、アルシオは一度だけ小さく息を吐いた。それから、静かに扉を開ける。
「失礼します」
室内には、すでにエレオノーラがいた。窓際へ立ち、冬の光を背にしている。今日は落ち着いた学園の制服姿だった。けれど、その立ち姿はやはりどこか凛として見える。アルシオへ気づくと、エレオノーラは静かに一礼した。
「お呼びいただき、ありがとうございます。アルシオ殿下」
「こちらこそ、時間をもらってごめん」
扉を閉める音が、小さく響く。少しの沈黙が落ちた。エレオノーラは急かさなかった。ただ静かに、アルシオの言葉を待っている。アルシオはまっすぐ彼女を見た。
「昨日の舞踏会のこと、謝らせてほしい」
その声は静かだった。
「曲の途中で席を外した。エレオノーラ嬢に対して、本当に失礼なことをしたと思ってる」
アルシオは深く頭を下げた。
「申し訳なかった」
会議室は静まり返っていた。やがて、エレオノーラの穏やかな声が響く。
「お顔を上げてください、殿下」
アルシオはゆっくり顔を上げる。エレオノーラは責めるような顔をしていなかった。少しだけ寂しそうで、それでも静かに受け止めようとしていた。
「驚きはしました」
エレオノーラは正直に言った。
「でも……殿下が、どなたを追いかけられたのかは、すぐに分かりましたから」
アルシオは言葉を失う。エレオノーラは小さく微笑んだ。
「昨日の殿下、とても必死なお顔をされていました」
「……」
「だから、止めてはいけない気がしたんです」
その声音は穏やかだった。責める色はないけれど、その優しさが余計に胸へ刺さる。
「それでも、僕はエレオノーラ嬢を傷つけた」
アルシオは静かに言った。
「ちゃんと謝りたかった」
エレオノーラは少しだけ目を伏せる。蜂蜜色の髪が、冬の光を柔らかく受けていた。
「……少しだけ、羨ましかったです」
ぽつりと零れた声だった。
「殿下が、あんなふうに感情を表へ出されるのを、初めて見ました」
アルシオは息を呑む。
「アエラ様は、殿下にとってそれほど特別な方なのですね」
その言葉へ、アルシオは迷わなかった。
「そうだよ」
静かだが、明確な返答だった。それだけではっきり伝わる。エレオノーラはその答えを聞いて、ほんの少し寂しそうに笑った。
「……そうですか」
アルシオは改めて頭を下げる。
「本当にごめん」
エレオノーラはゆっくり首を振った。
「謝罪は、十分受け取りました」
そして少しだけ表情を柔らかくする。
「ですから今度は、どうかアエラ様を大切になさってくださいませ」
その言葉に、アルシオの胸が静かに締めつけられる。
「……うん。大切にする」
エレオノーラはその答えを聞いて、ようやく少し安心したように微笑んだ。
*
エレオノーラとの話を終えた数日後。アルシオのもとへ、一通の封書が届いた。差出人を見た瞬間、アルシオは静かに息を止める。
ユリウス・アルタイルからだった。アルシオは自室へ戻ってから、静かに封を切った。便箋には、流れるような端正な筆跡が並んでいる。
『丁寧なお手紙をありがとうございます。大切なお話とのこと、承知いたしました』
そこまで読んだ時点で、胸の奥が少しずつ緊張していく。けれど、続く文はアルシオの予想とは少し違っていた。
『もっとも、わざわざ冬期休暇前に時間を取る必要はないでしょう。君も、リーナも、時間が惜しいはずだ』
まるで、すべて察しているような文面だった。いや、きっと実際に察しているのだろう。ユリウス・アルタイルという人は、そういう人だ。アルシオは続きを読む。
『冬期休暇に合わせ、私もリーナと共に皇国へ伺おうと思います。君のことだから、ご両親にも話は通しているのだろう。先んじて、皇国の訪問の意思をお伝えしておこう。女皇陛下にも、久しくご挨拶しておりませんのでね』
さらりと書かれている。けれど、その意味は軽くない。エストリア首相が、娘を伴って皇国を訪れる。
『その時に、首相としてではなく、リーナの父として、君の言葉を聞かせてください』
読み終えたあともしばらく、アルシオは便箋から目を離せなかった。窓の外では、冬の風が静かに枝を揺らしている。そこへ、レックスが部屋へ戻ってくる。
「……何だ?」
アルシオはゆっくり息を吐いた。
「ユリウス様から返事が来た」
「何て?」
「冬期休暇に、アエラと一緒に皇国へ来られるって」
レックスが固まる。
「は?」
「僕の話を聞くために」
数秒の沈黙。それからレックスは、深く額を押さえた。
「……ユリウス様、行動が早すぎだろ」
アルシオは苦笑した。けれど、ユリウスは拒絶しなかった。曖昧にも、誤魔化しもしなかったことが、不思議と受け入れられる。ならば今度は、自分が応えなければならない。アルシオは静かに便箋を畳んだ。




