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第二章-2 静かな熱

 数日後のホームルームで、ノアはいつものように出席簿を閉じると、教壇の上で片眼鏡を指先で押し上げた。


「さて、諸君。そろそろ初夏の親睦競技会について説明しておきましょう」


 その一言で、教室の空気がわずかに浮き立つ。ざわ、と小さなざわめきが広がり、眠たげだった生徒たちの表情にも少しずつ色が差した。


「親睦競技会では、馬術、模擬剣、弓術、戦略遊戯の各種目に分かれて競ってもらいます。名の通り親睦を目的とした行事ですが、無論、手を抜いてよいという意味ではありません」


 穏やかな口調のまま、ノアは黒板へ競技名を書きつけていく。


「出場は任意ですが、少なくとも一種目には参加していただきます。複数への参加も可能です。詳細は後日配布しますが、まずは各自、何に出るか考えておいてください」


 そこで一拍置き、教室を見渡した。


「なお、熱くなりすぎて本来の“親睦”を忘れた方には、それなりの対応をいたしますので悪しからず」


 その柔らかな牽制に、教室のあちこちで控えめな笑いが起こる。だが同時に、生徒たちの間には確かな高揚も生まれていた。すでに隣同士で顔を見合わせ、何に出るかを囁き合う声もある。


 アルシオは黒板に並んだ競技名を眺めながら、小さく息をついた。馬術も弓術も、皇子教育の中で一通り学んではいる。けれど、好んで前に出たいと思うほどではない。


 その横で、レックスは早くも目を輝かせていた。


 昼休みになるなり、その話題は案の定すぐに持ち上がった。


「ねえ、皇子殿下は何に出るつもり?」


 真っ先に聞いてきたのは、やはりアエラだった。


 机へ身を乗り出す勢いの彼女に、レックスが即座に眉を寄せる。


「近い」


「はいはい」


 流すように返しながらも、アエラの緑の瞳は興味津々にアルシオを見ている。


「馬術? それとも剣? まさか戦略遊戯だけ、なんて言わないでしょ?」


 アエラの言葉に、アルシオは苦笑した。


「まだ決めきってはいないけど……模擬剣かな」


「一つだけ?」


「十分だと思ってるよ」


 あっさりと返されて、アエラは少しだけ目を丸くする。


「もっと色々出るのかと思った」


「一通りはやってるけど、好んで前に出たいわけじゃないしね」


「ふうん」


 納得したような、していないような顔でアエラは頷いた。その横で、レックスが当然のように口を開く。


「俺は模擬剣と馬術だな」


「でしょうね」


 アエラが即答すると、レックスは眉をひそめた。


「何だ、その分かりきってたみたいな言い方」


「だって、いかにもって感じだもの」


「悪かったな」


「別に悪いなんて言ってないわ。むしろ似合ってるってこと」


 さらりと言われて、レックスは微妙な顔になる。褒められているのかどうかも分からない。


「アエラは?」


 アルシオが尋ねると、アエラは少し胸を張った。


「私は馬術」


「やっぱり」


 思わず漏れたアルシオの言葉に、アエラが目を細める。


「何よ、その“やっぱり”って」


「いや、君は馬と気が合いそうだから」


 一瞬きょとんとしたあと、アエラはふっと笑った。


「冗談のつもり?」


「本心だよ」


 その横で、レックスが堪えきれず吹き出した。


「……っ、文字通り、馬が合うってか」


 一人で妙にツボに入ったらしく、口元を押さえて窓の方へ顔を背けている。アエラはじとっとした目を向けた。


「ちょっと……」


「いや、悪い。上手いと思って」


「ひどいわね」


「……すまない」


 申し訳なさそうに言いながらも、レックスの肩は震えていた。アルシオも少しだけ口元を緩めた。その横で、ゲイルが口を挟んだ。


「俺は模擬剣と弓術だ」


 いかにも当然と言いたげな口調だった。アエラはちらりと視線を向ける。


「馬術は出ないの?」


「二つも三つも手を広げるより、勝てるところで勝つ方がいい」


「ずいぶん堅実なのね」


「お前に言われたくない。出るからにはちゃんとやりたい」


 ぴしゃりと言い返されても、アエラは特に気にした様子もない。


「で、ユフィは?」


 話を振られたユフィーリアは、クスリと微笑みながら答えた。


「わたくしは、戦略遊戯に出ようかと思っています」


 一瞬、周囲が静かになる。アルシオは驚きを隠せなかった。


「えっ、ユフィーリアが?」


「あら、意外でしたか?」


「弓術とか、そういうのかと思ってた」


 ユフィーリアは小さく微笑んだ。


「身体を動かすのが苦手というわけではありませんけれど、盤の上で考える方が性に合っているんです。勝てるかどうかは別として」


「ユフィは強いわよ」


 アエラが妙に真顔で言うと、ユフィーリアは、少し嬉しそうに微笑んでいる。そのやり取りを見ながら、アルシオは自然と口元を緩めた。こうして他愛のない話題で言葉を交わすのも、少し前なら考えられなかったことだ。

 教室のあちこちでも、すでに競技会の話で持ちきりになっている。誰が何に出るのか、どの競技が有利か、噂好きな者たちはもう勝手に予想まで始めていた。そのざわめきの中、不意に後ろの方から別の声が聞こえた。


「模擬剣、弓術、馬術――そのあたりは、どうせガルデのあいつが持っていくんじゃないか?」


「ああ。ランス・オルトリアンか」


 名前が出た瞬間、教室の空気がわずかに変わった。アエラが眉を上げる。


「ランス?」


「知ってるの?」


 アルシオが尋ねると、アエラは笑って返す。


「有名人よ。入学して早々、実技場で何人も打ち負かしたって噂になってるもの。剣も、弓も、馬もかなりのものらしいわ」


「ガルデの公爵家の次男だったよな」


 ゲイルが補足するように言う。


「やたら目立つ男だ」


 その声音には、少しばかり面白くなさそうな響きがあった。レックスは腕を組み、鼻を鳴らす。


「強いなら別に構わないだろ」


「ふうん?」


 アエラが、どこか面白そうにレックスを見る。


「気にしてるのね」


「別に」


「顔に出てるけど」


「出てない」


 即答するレックスに、アエラはくすくす笑った。アルシオは黒板に残る競技名へ、もう一度目を向けた。


 模擬剣。馬術。弓術。戦略遊戯。


 ただの親睦の場、と片づけるには、少しばかり熱を帯びすぎている気もする。けれど、それでも皆が楽しみにしているのは確かだった。


「……賑やかになりそうだね」


 ぽつりと呟くと、アエラがすぐにこちらを見た。


「もちろんよ。みんな自分の実力を誇示したいもの」


「君も?」


「私は楽しいのが一番!」


 当然といった声で言い返され、アルシオは小さく笑った。親睦競技会まで、あとわずか。学園の日々は、また少しずつ新しい熱を帯び始めていた。



 *



 翌日から、アルシオはレックスとともに実技場の一角を借り、木剣での鍛錬を始めた。親睦競技会が近づいていることもあり、実技場にはすでに多くの生徒たちが集まっていた。模擬剣の打ち合い、弓の試射、馬場の調整。あちこちで真剣な声と足音が交差している。見れば、皆それなりに鍛えられているらしく、単なる遊びの延長では済まない空気があった。

 その中で、レックスは最初から気合十分だった。


「行くぞ、アルシオ」


「うん」


 向かい合い、互いに木剣を構える。最初の打ち込みは、軽い確認のようなものだった。けれど、数合も交えればそれでは済まなくなる。レックスの踏み込みは鋭く、迷いがない。アルシオも受けるだけではなく、その動きを読み、流し、打ち返す。木剣がぶつかる乾いた音が、実技場のざわめきの中でもひときわはっきりと響いた。

 レックスはもともと身体の使い方が素直で力強い。対するアルシオは、相手の癖や重心の揺れを見て、必要なところへだけ鋭く踏み込む。戦い方は違っても、二人の息は合っていた。いつしか周囲の音は遠のき、互いしか見えなくなっていく。

 レックスの木剣を受け流しざま、アルシオは一歩踏み込んだ。鋭く打ち込んだ刃筋を、レックスがぎりぎりで受ける。次の瞬間にはまた打ち返され、アルシオもすぐさま応じた。

 頬はうっすらと上気し、額には汗が滲んでいる。黒髪が揺れるたび、その茶色の瞳は驚くほど真っ直ぐで、静かなのに熱を帯びていた。


 その頃、実技場の入口にアエラが姿を見せていた。本当は、少し冷やかすつもりだった。図書館にでもいるのかと思っていたら、レックスと鍛錬をしていると聞いて、物珍しさ半分で覗きに来ただけだったのだ。けれど、足を踏み入れた途端、その考えは吹き飛んだ。

 声をかけようとして、思わず止まる。レックスが真剣なのは、ある意味で予想通りだった。けれど、その相手をしているアルシオは、アエラの知らない姿だった。本を読んでいるときの穏やかさはそこにはない。いや、まったく別人というわけではないのに、纏う空気が違う。鋭い目、上気した頬、無駄のない踏み込み。打ち返すたび、まるで内側に秘めたものが少しずつ表へ滲み出るようだった。


 ――すごい。


 気づけば、そんな言葉だけが胸の内に落ちていた。


 いつものように「やるじゃない」とも、「そんなに熱くなるなんて意外」と軽口を叩くこともできなかった。

 今ここで声をかけたら、きっといつものように話せない。そう思った瞬間、自分でも理由の分からないまま、アエラはそっと踵を返していた。木剣のぶつかる音は、背を向けてもまだ耳に残っている。胸の鼓動が、少しだけ駆けていた。


 しばらくして、アルシオとレックスは木剣を下ろした。熱を帯びた呼吸がゆっくりと静まっていく。額に滲んだ汗を拭いながら、ふと周囲へ目を向けると、いつの間にか何人もの生徒がこちらを見ていた。

 模擬剣の音が目立っていたのだろう。興味深そうに視線を向ける者、ひそかに何事かを囁き合う者、その反応はさまざまだった。

 その中に、ひときわ目を引く少年がいた。同世代のはずなのに、頭ひとつ分は背は高く、堂々とした体躯と気迫を持っていた。離れた位置に立っているのに、不思議と目が吸い寄せられる。周囲の生徒たちとは纏う空気が違った。

 アルシオと視線が合う。するとその男は、わずかに目を細めたあと、静かに一礼した。無言のまま、礼だけを残し、すぐに別の方へ視線を逸らす。


「……誰だ、あいつ」


 レックスが低く呟いた。アルシオは答えず、その背を目で追った。名を知らずとも、ただ者ではないことだけは分かった。

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