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第二章-1 アルシオの居場所

 歓迎社交会から数日が過ぎ、学園の空気にも、ようやく日々のリズムが根づき始めていた。


 朝の鐘が鳴れば、それぞれの寮から学生たちが一斉に講義棟へ向かう。磨き上げられた回廊には、急ぎ足の靴音と、まだ眠気の抜けきらないあくび混じりの声が交じり合っていた。窓の外には、海からの風に揺れる若葉が見える。見慣れぬはずの景色も、少しずつ「学園の日常」として輪郭を持ち始めていた。


 アルシオは教科書を抱え、レックスと並んで教室へ向かっていた。


「今日の一時限目、ノア先生の政治学だよね」


「アルシオ、もう教材全部目ぇ通してんだろ?」


「読んだけど、講義で聴くのも面白いよね」


「本当に好きだよな」


 呆れ半分の声に、アルシオはわずかに口元を緩めた。レックスのこういう言い方にも、もう慣れている。


 教室へ入ると、すでに半数ほどの生徒が席に着いていた。歓迎社交会を経て、顔ぶれにも少しだけ見覚えができている。以前のように、ただ遠巻きに視線を向けられるだけではない。挨拶を交わす者もいれば、小さく会釈をしてくる者もいた。


「おはようございます、皇子殿下」


「おはよう」


 短いやり取りが、それでも以前よりは自然に感じられる。


 席に着いてほどなく、教室の扉が静かに開いた。片眼鏡をかけた痩身の男――ノア・ヴェルデンが、いつものように書類を抱えて入ってくる。相変わらず少し猫背で、風に吹かれれば頼りなく揺れそうなほど細いのに、教壇に立つと空気がすっと整うのが不思議だった。


「おはようございます、諸君。今朝は眠そうな顔が多いですね。歓迎社交会の余韻は、そろそろ終わらせていただけると助かります」


 穏やかな声に、教室のあちこちで控えめな笑いが漏れる。


「さて。本日は“統治形態の違いが意思決定にもたらす影響”について考えます」


 ノアは黒板へ向き直り、滑らかな筆致でいくつかの語を書きつけた。


 王政。評議制。合議。独断。正統性。


「では、簡単な問いから。王や皇帝のように、最終的な決定権が一人に集まる体制と、複数の者の合議によって動く体制。どちらが優れていると思いますか?」


 静かな問いだった。けれど、生徒たちの間にはすぐにざわめきが走る。正解を求めるというより、考え方を試されているのが分かる問いだった。


 何人かが手を挙げ、無難な答えを返していく。迅速さなら前者、安定性なら後者。間違ってはいないが、どれも教本の延長のような答えだった。


 そのとき、前列の窓際からアエラがすっと手を挙げた。


「優れているかどうかは、何を優先するか次第だと思います」


「どうぞ、アルタイルさん」


「一人が決める方が早いのは当然です。でも、その一人が間違えた時、止められないでしょう? 評議制は遅いけれど、少なくとも一人の気分で全部が決まるわけじゃない」


「なるほど」


 ノアは頷いた。


「では逆に、合議の弱点は何でしょう」


「責任が曖昧になることです」


 今度はアルシオが答えた。教室の何人かが振り向く。


「全員で決める形を取ると、誰もが“自分だけの決定ではない”と思える。だから失敗の責任も薄まりやすい。慎重にはなりますが、決断の重みを引き受ける者が見えにくくなることもあると思います」


 アエラが、少し目を細めてこちらを見た。


 ノアは片眼鏡の奥の目を、静かに二人のあいだへ巡らせる。


「興味深いですね。アルタイルさんは、独断の危うさを。セレスティア殿下は、合議の曖昧さを挙げた。どちらも正しい」


 そこで教壇に指先を軽く置き、続ける。


「制度とは、それ自体が完璧なのではありません。不完全な人間が、不完全なまま運用するものです。ですから重要なのは、優劣そのものより、欠点を知った上でどう補うかでしょう」


 その一言に、教室の空気が少し変わった。単なる知識ではなく、自分たちの立場と結びついた言葉として落ちてきたのだ。


 ノアはなおも穏やかな口調のまま、生徒たちへ次々と問いを投げていった。意見を求められ、考え、答え、また修正する。その繰り返しの中で、講義は静かに深まっていく。


 アルシオは、自然と意識が引き込まれていくのを感じていた。


 ただ知識を与えられるだけではない。考えを問われ、違う立場の意見に触れ、その差を確かめていく。皇国の書庫で本を読むだけでは得られなかった感覚だった。


 そして、少し離れた席から、アエラがこちらを見ている気配もまた感じていた。


 講義の終わりを告げる鐘が鳴ると、教室に張っていた空気がようやくほどけた。


「次回までに、諸君自身の国の意思決定の長所と短所を簡潔にまとめてきてください。長所だけを書くのは簡単ですので、短所のほうを丁寧に。……自国愛の強い方ほど、そこは忘れやすいので」


 ノアがそう言って書類を閉じると、何人かが気まずそうに顔を見合わせる。柔らかな口調のくせに、時折こうして妙に鋭い。


 昼休みの鐘が重なるように鳴り、教室はいっせいにざわめいた。


「やっと終わった……」


「食堂、混む前に行こう」


 あちこちで椅子を引く音が響き、学生たちが立ち上がる。


「アルシオ、昼だぞ」


 レックスが振り返る。けれど、その声より先に、別の声が飛んできた。


「ねえ、皇子殿下。今の、やっぱり面白いわ」


 アエラだった。机の間をすり抜けるようにして、ためらいもなくこちらへ来る。


「何が?」


「“責任が薄まる”ってところ。たしかにそうよね。皆で決めるって聞こえはいいけど、誰かが最後に背負わなきゃいけないもの」


 そこまで言って、アエラは少しだけ首を傾げた。


「でも、あなたの国って王政でしょう? そういう見方をするの、ちょっと意外」


「王政だけど、全てを王が決めているわけじゃないよ。議会にかけることもあるしね」


 アルシオが答えると、アエラはふっと笑い、顔が近づく。


「ふーん。その辺の匙加減もう少し詳しく!」


 レックスがため息混じりに割って入った。


「昼・だ・ぞ?アルシオに昼抜かせる気か」


 その一言に、教室のあちこちでくすりと笑いが漏れる。


 最初は遠巻きに見ているだけだったクラスメイトたちも、最近では、こうしたやり取りを、半ば日常のように眺めるようになっていた。簡単な挨拶なら、もう誰もためらわない。


 それはきっと、アエラたちが何の気負いもなくアルシオたちの輪へ入り込んできたからだろう。


 けれど、アルシオ自身はまだ、その変化に少しだけ追いつけていなかった。話しかけられれば応じる。問われれば答える。だが、自分から誰かの輪の中心へ入っていくことはない。


 そんなアルシオを見て、アエラは時折、どこか面白くなさそうに唇を尖らせるのだった。



 *



 放課後になると、アルシオの足は自然とある場所へ向かっていた。


 学園の図書館である。そこに収められた蔵書は、皇国の書庫とは比べものにならないほど多く、しかも分野も多岐にわたっていた。各国の歴史書や地誌、政治論、商業書、伝記、古い神話集まで揃っている。さすがは国際学園といったところだろう。初めて足を踏み入れたときなど、胸の高鳴りを抑えるのに苦労したほどだった。


 図書館の奥まった窓際のテーブルは、いつしかアルシオの定位置になっていた。今日もそこへ腰を下ろし、読みかけの書物を開く。レックスも向かいで何かしら本を手に取ってはいる。けれど、もともとじっと活字を追うのは性に合わないのだろう。ほどなくして外へ視線をやったり、頬杖をついたままうとうとしたりしていた。


 毎日のように図書館へ付き合わせるのは、レックスに少し申し訳なくもあった。けれど、この場所はアルシオにとって、時間を忘れて本の世界に没頭できる、かけがえのない空間だった。

 窓の外では、やわらかな午後の陽射しが中庭の木々を照らしている。頁をめくる音と、遠くで本を閉じる微かな音だけが、静かな空間に溶けていた。


 その静けさを破ったのは、聞き慣れた声だった。


「……やっぱりここにいたのね」


 顔を上げると、アエラたち三人が窓際の席までやって来ていた。アエラは呆れたように腰へ手を当て、ユフィーリアは苦笑し、ゲイルは相変わらず少し不機嫌そうな顔をしている。


「……また来たのか」


 向かいに座っていたレックスが、苦虫を噛み潰したような顔で呟く。アエラは気にした様子もなく、アルシオを見た。


「やあ。アエラたちも調べ物?」


「そう。今日の先生の課題。自分の国の意思決定の長所と短所についてまとめるのでしょう?」


 そう言いながら、アエラは手にしたノートをひらひらと揺らす。


「短所はいくつか浮かぶんだけど、逆に長所がうまくまとまらなくて」


 アルシオは手元の本をそっと閉じた。


「それは、エストリアだから?」


 その問いに、アエラは少しむっとしたように眉を寄せる。


「そうよ。欠点ならいくらでも見えるわ。話が長い、回りくどい、責任の所在が曖昧になりやすい。誰か一人がさっさと決めた方が早いことだってたくさんあるもの」


「でも、それがそのまま長所にもなるんじゃないかな」


 アエラの緑の瞳が、すっとアルシオへ向く。


「どういうこと?」


 身を乗り出すようにして尋ねられ、アルシオは少しだけ考えてから答えた。


「一人で決めないってことは、一人の思い込みで全部が動きにくいってことだよ。時間はかかるけど、そのぶん、いろんな立場や利害を拾える。結論を急げないのは欠点だけど、誰か一人の気分や都合だけで国が傾きにくいのは、評議制の強みでもあると思う」


 アエラは一瞬黙り込んだ。その横でユフィーリアが、小さく頷く。


「たしかに……。決まるまでに時間がかかるのは歯がゆいですけれど、その分、偏りにくいのは長所ですね」


「でも、実際には力のある都市の意見が強く出るだろ」


 ぼそりとゲイルが口を挟んだ。


「綺麗ごとだけじゃ済まない」


「それもそうだね」


 アルシオは素直に頷く。


「制度の長所が、そのまま運用の理想とは限らないから。評議制が優れていても、使う人間に偏りがあれば意味は薄れる。……でも、欠点があるからこそ、そこを補おうとする意識も生まれるんじゃないかな」


 ゲイルは少しだけ目を細めたが、それ以上は言わなかった。アエラはまだ考え込んでいた。やがて、ふっと顔を上げる。


「なるほどね。皆で決めるからこそ遅い、じゃなくて、皆で決めるからこそ拾えるものがある、ってことか」


「うん。たぶん」


「……やっぱり、ただの優等生じゃないのね」


「まだ言うんだ、それ」


「だって本当だもの」


 アエラがアルシオの顔を覗き込む。そのときだった。


「おい、そんなに近づくな」


 すぐ横から、レックスの低い声が飛ぶ。


「何よ。話してるだけでしょう?」


「嘘つけ。近すぎるし、無礼だ」


「ずいぶん嫌われたものね」


「嫌ってるんじゃない。警戒してるんだ」


 アエラが肩をすくめると、後ろで見ていたゲイルが半ば呆れたように口を挟んだ。


「そういうレックスは、過保護だよな」


「何だと」


「図書館までぴったり張りついて、よく飽きないな」


「お前には関係ないだろ」


「無いけど、見てるこっちが息苦しい」


「ふざけるな」


「はいはい、そこまで」


 ユフィーリアが慣れたように間へ割って入る。


「ここは図書館です。静かにしてくださいね」


 その言葉に、三人ははっとして周囲を見た。たしかに、少し離れた書架の陰から司書がちらりとこちらを見ている。アエラは小さく舌を出し、声を潜めた。


「……ごめんなさい」


 そう言っておきながら、またアルシオへ顔を寄せる。


「でも、助かったわ。私、一人だとエストリアの悪いところばっかり先に思い浮かんで、腹が立ってきちゃうのよね」


「それだけ真面目に考えてるってことじゃない?」


 アルシオがそう返すと、アエラは少しだけきょとんとした顔をした。


「……慰めてる?」


「そう聞こえたなら、違うよ」


「何それ」


 小声で笑うアエラの横で、レックスはあからさまに眉を寄せる。


「用が済んだなら帰れ。アルシオは読書中だ」


「またそうやって閉じこもらせる」


 アエラの声が少しだけ尖る。


「アルシオの自由だろ」


「ずっと本ばっかり読んでたら息が詰まるわ」


「お前はそうだろうな」


 今にもまた言い合いになりそうな空気に、アルシオは小さく息をついた。


「……二人とも、ここで続ける話じゃないよ」


 その一言に、アエラは唇を尖らせ、レックスは不満そうに黙る。少しの沈黙のあと、アエラが言った。


「じゃあ、少しだけ外に出ない? 中庭、今日は風が気持ちいいわよ」


「僕はもう少しここにいたいんだけど」


「少しだけよ」


「良いところなんだ」


 そう言って手元の本に視線を落とすと、アエラはあからさまに不満そうな顔をした。


「本当に、あなたってそういうところ頑固よね」


「そうだね。それは認める」


 その返答に、ユフィーリアがくすりと笑う。


 アエラはむっとしたまましばらくアルシオを見ていたが、やがて諦めたように肩を落とした。


「……分かったわよ。今日は許してあげる。その代わり、明日の昼休みは付き合ってもらうから」


「もう決まってるんだ」


「決めたの」


 きっぱり言い切ると、アエラはくるりと踵を返した。


「行きましょ、ユフィ、ゲイル」


「ええ」


「最初からそうしてくれ」


 ゲイルはぼそりと呟き、ユフィーリアはアルシオへ軽く会釈する。


「お邪魔しました、皇子殿下」


「ううん。話せてよかったよ」


 その言葉に、アエラがぴたりと足を止めた。振り返りはしない。けれど、耳だけはこちらを向いているようだった。


 ほんの一拍置いてから、また歩き出す。


 三人の姿が書架の向こうへ消えると、ようやく図書館に元の静けさが戻った。


 レックスが、呆れたようにため息をつく。


「……毎回、嵐みたいだな」


「そうだね」


「よく平気で相手してるよ」


 その声音には呆れもあるが、どこか感心のようなものも混じっていた。


 アルシオは答えず、ふたたび本を開いた。けれど、さっきまで読んでいたはずの頁に、すぐには意識が戻らない。

 エストリアの長所を言葉にできず、少し悔しそうにしていたアエラの顔。そこへ光が差したように目を見開いた瞬間。自分の知らない世界を当たり前のように見て、疑って、ぶつかってくるそのまっすぐさ。

 静かな図書館のはずなのに、胸の奥だけが少し落ち着かなかった。向かいでは、レックスがまた適当な本を開きながら、すでに半分ほど窓の外へ意識を飛ばしている。


 アルシオは小さく息をつき、頁をめくった。それでも耳の奥には、さっきの声がまだ残っている気がした。

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