第七章-1 甘い余韻
アルシオとアエラが会場へ戻ると、一瞬だけ周囲に驚きが走った。けれど、広間はすぐに平常を取り戻す。音楽は続き、踊る者たちの足取りも止まらない。ランスとマリエラが場を整えてくれていたのだと、アルシオはすぐに察した。
その時、背後から低い声がかかった。
「ったく、生徒会長と副会長が、揃って抜け出してんじゃねーよ」
振り向くと、レックスが腕を組んで立っていた。呆れた顔をしている。
「レックス。ごめんなさい」
アエラが素直にそう言うと、レックスはわずかに目を逸らした。
「……まぁ、俺に謝ることじゃねーけどな」
それから、アルシオへ視線を移す。
「で? ちゃんと言えたみたいだな」
アルシオは静かに頷いた。少し離れたところで、レックスはずっと見守ってくれていたのだと分かった。
「心配かけたね。もう大丈夫だよ」
「本当だよ」
レックスは短く返す。けれど、その口元には、安堵したような笑みが浮かんでいた。
その後、舞踏会が終わるまで、二人はもう誰とも踊らなかった。生徒会長と副会長として場に立ち、必要な挨拶を交わし、時折視線を合わせる。ただそれだけなのに、二人の間にある空気は、先ほどまでとは少しだけ違っていた。それに気づかないほど、周囲も鈍くはなかった。
やがて最後の曲が終わり、広間に拍手が広がる。楽師たちが演奏を止め、生徒たちもそれぞれ帰路につき始めた。中央棟の外はすっかり夜も更け、窓の向こうには静かな冬空が広がっている。
「会長、お疲れさまでした」
「アルシオ殿下も、お疲れさまですわ」
最後の挨拶を終え、マリエラとランスもそれぞれ寮へ戻っていく。レックスも少し離れた位置から、アルシオたちへ視線を向けていた。
「じゃあ、俺らも行こうか」
「そうだね。送るよ、リーナ」
アルシオとアエラは、女子寮へ続く渡り廊下を並んで歩く。レックスは二人と少し離れた位置から付いてくる。舞踏会の熱気が消えた廊下には、静かな冬の空気が流れ込んでいた。
「……さすがに少し冷えるわね」
アエラが小さく肩を竦める。今夜のドレスは肩の出た意匠だ。広間の中では気にならなかったが、夜風の通る廊下では、露わになった肩へ冷気が触れる。
その瞬間、ふわりと肩へ温かな重みが落ちる。
「え?」
振り向くと、アルシオが自分のマントを外していた。
「肩が冷えるから」
アルシオはそれだけ言って、当たり前みたいにアエラの肩へ掛け直した。まだ彼の体温が残っており、ふわりと、アルシオの香りがした。庭園で抱きしめられた時と同じ匂いがして、アエラの胸がドクンと鳴る。体は冷えているのに、頬だけが熱い。
「あ、ありがとう」
アエラは俯いたまま、ぎゅっとマントの端を掴む。
(何よ……!いつにも増してずるいわよ!)
アルシオは不思議そうに見下ろす。
「リーナ。どうかした?」
「何でもない!」
「そう?」
「……そうよ」
その反応があまりにも分かりやすくて、アルシオは思わず小さく笑いそうになった。露出した肩が寒そうだと思ったのは確かだが、頬を赤らめたアエラに胸の奥が熱くなる。――ああ、意識してくれているんだ。自分の言葉ひとつ、仕草ひとつに、こんなにも動揺してくれる。それが、どうしようもなく嬉しかった。それと同時に、可愛いと思ってしまう。アルシオはそれを口には出さなかった。そんなことを言えば、きっとアエラはますます真っ赤になる。代わりに、肩から落ちかけたマントを、もう一度そっと整える。
「風邪ひかないでね」
静かな声だった。けれどその優しさが、今は前よりずっと近く感じる。アエラはもう、アルシオの顔をまともに見られなかった。
女子寮の入口で、アエラが小さく『また明日』と告げると、アルシオは穏やかに微笑んで頷いた。名残惜しさを隠すように扉の向こうへ消えていく彼女を見送ってから、アルシオはレックスと男子寮へ戻っていった。
部屋に戻っても、アエラは肩に掛かったマントから手が離せなかった。まだアルシオの香りが残っている気がして、そっとマントを抱きしめる。一人になると、庭園でのアルシオの言葉や、仕草が鮮明に思い出された。
『君が好きだ』そう言って、アルシオはアエラの手を握りしめた。『檻なんてぶち壊してあげるわ』アエラがそう宣言したときのアルシオのくしゃくしゃになった泣き顔。そっと触れた唇。どれも鮮明に脳裏に残っている。
「アエラ。遅かったですね」
「きゃあああああ!」
突然すぐ後ろからかけられた声に、アエラは心臓が飛び出そうなほど驚いた。いつの間にかユフィが部屋に訪れていた。
「ユ、ユフィ!来てたの!?」
「気がついてなかったんですか?何度もノックしましたのに」
「ごめんっ」
「……それ、殿下のマントですわね」
「これは、あれよ!寒くないようにって!貸してくれただけよ!」
「何を焦っているんですか。何かあったって聞いて欲しいんですか?」
「違うわよ!」
アエラが即座に否定すると、ユフィーリアはゆっくりと瞬きをした。
「本当に?」
「……」
「聞いてほしくないの?」
「……少しなら」
小さく返すと、ユフィーリアの表情がぱっと明るくなった。
「では、最初からお願いしますね」
「最初からってどこからよ!」
「会場を出て行ったところからです」
「見てたの!?」
「当たり前でしょう。あなたを追いかけて、殿下は走って出ていったんですよ?騒然となりましたわ」
アエラは目を見開いた。すぐに追いついてきたと思ったけど、アルシオの行動に今更ながら驚きを隠せない。
「……まぁ、マリエラ様やランス様が場を納めてくださいましたけど」
ユフィーリアは当然のように言い、机の上に置かれたマントへ視線を向ける。
「それで、殿下が追いかけて来られて、どうなさったの?」
「……」
アエラはマントの端を握ったまま、視線を逸らした。
「気持ちは伝えられましたか?」
「……うん」
「告白はどちらから?」
「え……っと」
アエラは視線を逸らす。
「アエラから?」
泳いだ視線に、それだけで答えを得たと、ユフィーリアは口元へ手を添える。
「まあ。殿下から」
「まだ何も言ってないじゃない!」
「言わなくても、顔に書いてあるじゃないですか」
アエラは思わず頬を押さえた。熱い。自分でも分かるほどに。
「そして、アエラも好きと、伝えたのですね」
頬を押さえたまま、アエラはもう頷くしか出来なかった。
「……ずるいのよ」
「殿下が?」
「うん」
小さく頷く。
「普段はあんなに静かな顔をしているくせに、急にまっすぐ言うの。直球なの。好きだって。離したくないって――」
言ってしまってから、アエラははっと口を押さえた。ユフィーリアは両手を胸元で組み、うっとりと目を細めている。
「まあ……!」
「待って!ちょっと、今のなし!」
「いいじゃないですか。とても大切な証言ですもの」
「証言って何よ!」
アエラは抗議したが、もう遅かった。口にした瞬間、あの庭園の月明かりも、アルシオの震えた声も、抱きしめられた腕の強さも、すべて鮮やかによみがえってしまった。痛いほど甘くて、恥ずかしくて、けれど、忘れられないひと時だった。
「こちらがあてられてしまいますわ。――まさか、口付けを交わしましたの!?」
「!?」
アエラの手は、無意識のうちに唇に伸びていた。その瞬間、しまった、と気づく。ユフィーリアは数秒止まってしまったが、ゆっくりと両手で口元を覆った。
「きゃっ……!!」
「ち、違――」
ユフィーリアの頬が、興奮したように赤くなっていく。
「ついにアエラが、殿下と……!」
「言わないで!」
アエラは真っ赤になって叫び、慌ててクッションを抱き締めた。けれどユフィーリアは止まらない。
「どちらからですか!? 殿下!? アエラ!?」
「もうやめてぇ……!」
ベッドへ突っ伏すアエラを見て、ユフィーリアはとうとう堪えきれずに笑い出した。部屋へ、柔らかな笑い声が広がる。その声を聞きながら、アエラは熱くなった頬を枕へ押し付けた。恥ずかしさでたまらない。なのに、不思議と嫌ではなかった。




