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第六章-4 選んだ手の、その先へ

 

「……リーナ」


「見ないで」


 アエラは反対の手で、顔を隠す。


「見ないで、アルシオ」


 その声は、痛いほど震えていた。強くて、明るくて、誰の前でも怯まないアエラの声ではなかった。


「……無理だよ。君が泣いているのに、放っておけるわけないじゃないか」


「……」


 アエラの涙が溢れ、再び頬を濡らす。


「なんで泣いてるの」


「何でもないわよ」


 声は震えている。


「それは聞き飽きたよ」


 唇を噛み締めて、アエラは必死に声を殺していた。


「リーナ」


「だって……」


 言葉が詰まる。アエラは何度も瞬きをした。けれど涙は止まらなかった。悔しそうに、恥ずかしそうに、彼女は顔を歪める。


「だって、嫌だったの」


 ようやく零れた声は、あまりにも正直だった。アルシオの手に、わずかに力が入る。


「分かってるわよ。舞踏会だもの。あの子がダンスを申し込んだって、あなたがそれを受けたって、何も間違ってないわ。皇子として礼を尽くすのは当然で、わたしだってそれを分かっているから、笑って見送らなきゃいけなかった」


 涙がまたひとつ、頬を落ちる。


「でも、できなかった……」


 アエラは顔を歪めたまま、かすかに笑おうとした。


「嫌だったの。見たくなかったの。あなたの手が、他の子を支えるところなんて」


 アルシオは何も言えなかった。エレオノーラとのダンスが、アエラを苦しめていた。申し訳ない気持ちと同時に、浅ましくも胸の奥に熱が広がる。アエラがエレオノーラに対して嫉妬している。彼女が自分を求めてくれている。その事実が、アルシオはどうしようもなく嬉しかった。


「……リーナ」


 名を呼ぶ声が掠れる。アエラは首を振った。


「わたしは生徒会長なのに。それなのに、ただ、あなたが他の人と踊るのが嫌で、逃げ出したの。こんなの、子どもみたいじゃない」


「そんなこと、ないよ」


 アルシオは、ゆっくりと言った。


「僕も、嫌だったよ」


 アエラが固まる。


「……え?」


「君が、僕の手を離したことが」


 アルシオは、掴んでいた腕をそっと離した。その代わりに、彼女の冷えた指先を取り、自分の手の中へ閉じ込める。


「リーナ」


 呼びかけた声が、冬の夜に白く溶ける。アエラは涙に濡れた目で、アルシオを見上げていた。その瞳を見た瞬間、アルシオの中で、最後に残っていた迷いが静かにほどけた。


「君が好きだ」


 アエラの瞳が、大きく見開かれた。アルシオは、握った手にほんの少し力を込める。


「離したくない」


 その言葉は、ほとんど祈りのように零れた。


「ずっと言えなくて、ごめん。言えば、君を困らせると思っていた。僕は皇国の第一皇子で、君はエストリア首相の娘だ。この気持ちを伝えたら、僕たちはもう、曖昧な関係ではいられなくなる」


 アエラは涙に濡れたまま、アルシオを見ている。


「ずっと、君に惹かれていたんだ」


 もう、止まらなかった。


「君が笑うと、僕も笑ってしまう。君が無理をしていると、放っておけない。君が前を向いて走っていくたび、眩しいと思った。隣に立てることが、嬉しかった」


 声が、少しだけ震えた。


「君が僕の名前を呼ぶたびに、僕はずっと嬉しかったんだ」


 アエラの涙がまたひとつ、頬を伝った。


「……ずるい」


 掠れた声だった。


「本当に、ずるいわ。そんなこと、今言うなんて」


「ごめん」


「……謝らないでよ」


 アエラは首を振った。


「謝られたら、怒れないじゃない」


 そう言いながら、アエラは泣いていた。


「ずっと、苦しかった。あなたの隣にいたいのに、私が一番近いと思ってるのに、その資格は私には無いって。あなたはいずれ、相応しい相手を選ばなければいけないんだって」


 その声は震えていた。


「あなたはいつも落ち着いていて、優しくて、正しくて……いつか国の為に相応しい人を選ぶんだって思ってた」


 アルシオは答えられなかった。相応しい相手を選ばなければならない。それは理解している。でも、自分が望む人はたった一人だ。だが、リーナにそれを望む言葉は、どうしても喉から出て来ない。言わなければ、彼女がどう思っているかも聞けないのに。その時、アエラが口を開いた。


「……」


「……わたしも」


 小さな声だけれど、アルシオにははっきりと聞こえた。


「わたしも、好き」


 アエラは涙を拭うことも忘れて、アルシオを見上げた。


「好きよ、アルシオ。あなたが大好き。ずっと、ずっと好きだった」


 アエラの言葉が終わるより早く、アルシオは強く彼女を抱きしめた。冬の庭園が、静まり返る。遠くの広間から、かすかに音楽が聞こえている。けれど、もうそれは別の世界の音のようだった。ドレス越しに伝わる細い身体は、思っていたよりも冷えていた。アエラは最初こそ驚いたように肩を震わせたが、すぐにアルシオの背へ腕を回した。

 ――皇国へ来てほしい。自分の隣にいてほしい。この先もずっと、手を取っていてほしい。そう願っているけれど、それだけは言えなかった。誰よりも自由で、風のような彼女に、皇国へ来てほしいなどと。自分のためにすべてを変えてほしいなどと。言えるはずがなかった。


「……アルシオ」


 胸元から、アエラの声がした。アルシオはゆっくりと視線を落とす。アエラは、涙の名残を残した瞳で彼を見上げていた。けれどその目は、強くアルシオを見ていた。


「わたし、あなたが他の誰かを選ぶのなんて、耐えられない」


 アエラはアルシオの背中回していた手を、そっとアルシオの胸元へと添える。そして、右手を自身の胸元へと宛がった。


「わたしを選んで」


 その言葉は、冬の夜に静かに落ちた。けれどアルシオには、望んでいても決して口に出せなかった、切望していた言葉だった。


「わたしが皇国へ行くわ。あなたのそばにいたいの」


 その瞬間、アルシオの瞳から涙が落ちた。アエラは思わず息を呑んだ。いつも静かで、穏やかで、どんな場でも正しい言葉を選べる人。皇国の第一皇子として、誰かに弱さを見せることを善しとしない人。苦しさも迷いも、胸の奥にしまい込んで、微笑んでしまえる人。そのアルシオの瞳から落ちた涙が、月明かりを受けて、ひとすじだけ頬を伝う。


「……アルシオ」


 アルシオは苦しそうに笑った。


「……嬉しい。僕も、リーナのそばにいたい。でも、君を皇国に縛り付けることは、苦しくて、怖いんだ」


「何で怖いの?」


「……リーナの羽をもいでしまう。皇国は檻だ」


 アルシオが自分の生まれ育った国を、檻だと言う。セレスティア皇国は歴史ある国だ。長く続く皇族の血筋と歴史を重んじるその国で、皇族らしからぬ色を持って生まれた皇族。そこで育った彼は、どんな視線を、思惑を受けてきたのだろう。皇族らしい色を持った弟とも、比較されてきたんだろう。彼の物静かな性質は、生来のものに加えて環境が培ってきたものなのかもしれない。


「僕は、それが辛い……」


 掠れた声だった。その一言だけで、アエラの胸もまた締めつけられる。


「僕のそばにいてほしいって。君を皇国へ連れていきたいって……ずっと思ってた。でも、言えなかった」


 アエラは黙って聞いていた。


「君の未来を、僕の願いで閉じてしまいたくなかった。君は自由で、この国でまっすぐに立っている人だから」


 アルシオの涙に濡れた茶色の瞳が、真っ直ぐにアエラを見つめた。


「それでも、ずっと願ってた」


 アエラの唇が震えた。


「……馬鹿ね」


 声は優しかった。


「わたしを誰だと思ってるのよ」


「え?」


 アエラは小さく笑った。


「わたしはアエラマリーナよ。わたしはどこでだって飛べるわ。あなたは檻だと言うけど、わたしを閉じ込めることは出来ないわ」


 そう言って、彼女はそっと手を伸ばした。アルシオの頬に触れる。指先で、涙の跡を拭う。


「わたしが望んで、あなたの隣に行くの。檻なんてぶち壊してあげるわ」


 アルシオの瞳からは、涙がとめどなく溢れた。アルシオはくしゃくしゃになった顔で、アエラを強く抱きしめた。アルシオは声を殺して泣いていた。アエラはそんなアルシオの背中に腕を回して、二人はしばらくお互いの熱を感じていた。ようやく、アルシオは腕を離すと、アエラの頬に手を添えた。


「リーナ」


 アルシオは、その瞳を見つめたまま、静かに身を屈める。アエラは逃げなかった。ただ、ほんの少しだけ瞼を伏せる。アルシオは、彼女の唇にそっと口づけた。触れるだけの、短い口づけだったけれど、その一瞬で、言えなかった言葉も、隠してきた想いも、すべてがようやく届いた気がした。

 ゆっくりと顔を離すと、アエラは真っ赤になっていた。


「……ずるい」


「うん」


 泣きながら、アルシオは笑っている。アエラはその顔を見て、胸の奥がどうしようもなく温かくなった。アエラは少しだけ俯き、それから小さく呟いた。


「……でも、もう一回くらいなら、してもいいわ」


 アルシオは一瞬、息を止めた。そして、堪えきれずに笑う。


「リーナ、ありがとう」


 アルシオは、もう一度彼女を抱き寄せた。今度の口づけは、さっきより少しだけ長かった。冬の庭園に、遠い音楽と、二人の浅い息だけが静かに溶けていった。


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