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第六章-3 皇子としての綻び

「アルシオ殿下」


 澄んだ声だった。振り向くと、そこに立っていたのはエレオノーラだった。淡い瑠璃色のドレスが、シャンデリアの灯りを受けて静かにきらめいている。蜂蜜色の髪は丁寧にハーフアップに結われ、藍色の瞳は緊張を含みながらも、真っ直ぐにアルシオへ向けられていた。彼女はドレスの裾をそっと持ち、優雅な所作で一礼する。


「もしご迷惑でなければ、次の曲をお相手いただけませんでしょうか」


 その言葉に、アエラの胸が小さく軋んだ。分かっていたはずなのに、実際に目の前でその言葉を聞くと、思っていた以上に息が詰まった。エレオノーラは何も間違っていない。年末舞踏会で、皇国の第一皇子にダンスを申し込むことは、社交として少しも不自然ではなかった。むしろ、皇国の侯爵令嬢である彼女ならば、その機会を求める方が自然なくらいだ。

 だから、アエラには止める理由がない。止める権利もない。アルシオは一瞬だけ、アエラを見た。その視線に気づいて、アエラは先に笑った。笑えた、と思う。


「どうぞ」


 声は、自分でも驚くほどきれいに出た。


「わたしは少し休んでいるわ」


「リーナ」


 アルシオが名を呼ぶ。けれど、アエラは一歩下がった。


「大丈夫よ。生徒会長が、ファーストダンスのあともずっとあなたを独占していたら、示しがつかないでしょう?」


 冗談めかして明るく言ったつもりだっけれど、自分の声が少しだけ遠く聞こえた。アルシオの瞳が揺れる。何か言いたそうにしているのが分かった。けれど、エレオノーラがすぐそばで待っている。この場で戸惑いを長引かせる方が、彼女に対して失礼になる。

 アエラはさらに一歩下がり、アルシオの手から自分の指先をそっと離した。アルシオは、ほんのわずかに唇を結んだ。それから、エレオノーラへ向き直る。


「ええ。喜んで」


 穏やかな声だった。いつものアルシオの声。礼を尽くし、相手を傷つけず、場にふさわしく振る舞う皇子の声だった。エレオノーラの表情が、ぱっと明るくなる。けれど彼女はそれをすぐに抑え、慎ましく微笑んだ。


「ありがとうございます、殿下」


 アルシオが手を差し出す。エレオノーラが、その手に自分の指先を重ねる。彼女を導くために、アルシオが静かに歩き出す。エレオノーラは一歩遅れず、けれど控えめにそれに従った。淡い瑠璃色のドレスと、白い礼装が、広間の灯りの中で並ぶ。自分なんかよりも、よっぽど彼の隣に立つのが似合っている気がして、惨めだった。アエラはその場に立ったまま、二人が広間の中央へ向かうのを見つめていた。

 音楽が変わり、先ほどよりも少し軽やかな旋律が流れ始めた。アルシオがエレオノーラの手を取り、もう片方の手を彼女の背へ添える。先ほど、自分の背を支えていた手だった。エレオノーラは少し緊張した様子だったが、アルシオの導きは変わらず穏やかだった。


 (嫌、だな……)


 アエラはぎゅっと手を握りしめた。爪が手袋越しに掌へ食い込む。笑っていなければ。平気な顔をしていなければ。そう思うのに、視界が少し滲んだ。アエラは誰にも気づかれないようにそっと踵を返した。足早にならないように、背筋を伸ばし、会場を後にした。


 その頃、広間の中央では、アルシオはエレオノーラが、視線を集めていた。皇国第一皇子が、今度は皇国の侯爵令嬢と踊っている。アエラとの後にだ。去年を知るものからすれば、驚きを隠せなかった。しかし、二人は周囲の戸惑いをよそに、優雅にダンスを踊っている。


「殿下、学園でも私の手を取って頂き、本当に夢のようです」


「そんな、大袈裟だよ」


「そんなことありませんわ。だって……」


エレオノーラが、アルシオの顔を見上げる。アルシオの視線は自分には向いていなかった。


「殿下?」


 エレオノーラが小さく声を上げる。


「申し訳ありません」


 アルシオはすぐに体勢を整え、彼女を支え直した。言葉をエレオノーラにむけるが、意識はすでにそこにはなかった。アエラがいない。先ほどまでいたはずの場所に姿がない。視線だけで会場を見渡すと、杏金のドレスが、広間の端へ消えていくのが見えた。背中の高い位置に結ばれた大きなリボン。その黒い縁取りが、扉の向こうへふっと消える。胸が、ぞくりと嫌な音を立てた。


「……エレオノーラ嬢」


 アルシオは、曲の途中で足を止めた。エレオノーラが驚いたように顔を上げる。


「殿下?」


「本当に申し訳ない。この無礼は、後ほど必ずお詫びします」


 アルシオは彼女の手を丁寧に離し、深く頭を下げた。


「少し、失礼します」


 その声音は穏やかだった。けれど、迷いはなかった。エレオノーラは一瞬、何かを言いかけた。けれど、アルシオの視線がどこを追っているのか気づいたのだろう。藍色の瞳が、ほんの少しだけ揺れる。それでも彼女は、静かに指先を引いた。


「……はい」


 小さな返事だった。


「どうぞ、お気になさらず」


 その言葉を最後まで聞くより早く、アルシオは身を翻した。広間のざわめきが、背後で揺れる。

 レックスが壁際から気づいて顔を上げた。


「アルシオ?」


 しかしアルシオは答えなかった。ただ、アエラが消えた扉へ向かって歩き出す。途中から、その歩みはほとんど駆けるようになって、乱雑に扉を開けて広間を出ていってしまった。


 ――少しだけ、時は遡る。アエラが広間を出ていくのを、最初に気づいたのはレックスだった。壁際に控えていたレックスは、杏金のドレスが人波の向こうへ消えていくのを見て、わずかに眉を寄せた。アエラの歩き方は、いつものものではなかった。背筋は伸びているのに、逃げるようだった。

 レックスはすぐに広間の中央へ目を向けた。アルシオはエレオノーラと踊っている。けれど、その視線は、アエラを追っていた。アルシオが足を止め、曲の途中だというのに、丁寧にエレオノーラの手を離し、深く頭を下げる。そのまま身を翻す。その瞬間、広間の空気が揺れた。遠巻きに見ていた生徒たちの間に、戸惑いと囁きが広がりかける。

 レックスは一歩前へ出ようとして、すぐに視線を横へ流した。ランスと目が合う。ランスは一瞬だけ状況を見て、それだけで察したらしい。大きく動揺することもなく、わずかに顎を引いた。


「マリエラ」


 低く呼ぶ声に、隣のマリエラがすでに頷いている。


「分かっていますわ」


 マリエラはすぐにエレオノーラのもとへ向かった。曲の途中で残された彼女は、気丈に立っていたが、頬の色は少し引いている。


「エレオノーラ様」


 マリエラは何事もなかったかのように、やわらかく微笑んだ。


「少し、こちらでお休みになりませんか。殿下もきっと、後ほど正式にお詫びくださいますわ」


「……ええ」


 エレオノーラは小さく頷いた。傷ついていないはずはない。それでも、彼女は場を乱さぬように、静かに笑みを作った。


「ありがとうございます、マリエラ様」


 一方で、ランスは何気ない足取りで広間の中央へ進み出た。近くにいた男子生徒へ声をかけ、次の組を自然に中央へ促す。


「曲はまだ続いている。止まるな。せっかくの舞踏会だろう」


 戸惑っていた生徒たちが、はっとしたように動き出す。誰かが手を差し出し、誰かがそれに応じる。音楽は途切れていない。ならば、踊りも続く。ざわめきはわずかに残ったものの、広間全体を乱すほどには広がらない。レックスはそれを見届けてから、静かに扉へ向かった。


 そして、時間は再び二人のもとへ戻る。 アルシオはアエラの後を追った。アエラの姿は、廊下の先にあった。杏金のドレスが、灯りの薄い場所でやわらかく揺れている。背中の高い位置に結ばれた大きなリボン。その黒い縁取りが、歩くたびに小さく揺れる。


「リーナ」


 呼んでも、彼女は振り向かなかった。聞こえていないはずがない。けれど、アエラは歩みを緩めることもなく、庭園へ続く扉へ向かっていく。アルシオの胸が、ざわりと波立った。先ほどまでのあの笑みは、いつものアエラのものではなかった。庭園へ続く扉が開く。冬の空気が廊下に流れ込み、アルシオの頬を冷やした。アエラはそのまま外へ出ていく。庭園は、月明かりに沈んでいた。昼間は整えられた花壇や噴水が華やかに見える場所も、夜には輪郭だけを静かに浮かび上がらせている。冬の花は控えめに咲き、常緑の枝が細い影を石畳に落としていた。遠くで流れる音楽は、もうほとんど聞こえない。ただ、風が枝を揺らす音だけが耳に触れる。

 アエラは噴水のそばで足を止めた。けれど、背を向けたままだった。杏金のドレスが、月明かりの中では少しだけ淡く見える。広間ではあれほど温かく輝いていた色が、今は夜の冷たさに包まれているようだった。


「リーナ」


 アルシオは、少し離れた場所で足を止めた。追いついたのに、すぐには近づけなかった。彼女の背中が、小さく見えたからだ。いつもなら、そんなふうに見えることはない。アエラはどんな場でも顔を上げているし、迷っても、怒っても、怯んでも、最後には前を向く。誰よりも鮮やかで、誰よりも強く見える人だった。その彼女が今、背を向けて、動かない。


「……なんで、出て行ったの」


 問いかけた声は、自分でも思ったより弱々しかった。アエラは答えず、噴水の水音だけが、静かに聞こえていた。


「リーナ?」


「……戻って」


 ようやく返ってきた声は、ひどく小さかった。いつもの彼女の声ではない。


「エレオノーラ様を、置いてきたのでしょう。失礼よ。あなたが、そんなことをしたらだめよ」


 言葉だけなら、いつものアエラらしく聞こえる。けれど、その声は震えていた。


「……君が出ていくのを、見かけたから」


 アルシオは静かに言った。アエラの肩が、ほんのわずかに揺れる。アルシオは一歩、近づく。


「リーナ」


「来ないで」


 その一言で、アルシオの胸が締めつけられる。アルシオは、ゆっくりと近づいていった。


「リーナ」


「来ないで!」


 アエラが逃げるように一歩前へ出ようとする。その瞬間、アルシオは咄嗟に手を伸ばして、彼女の腕を引いて、アエラの体を自分へと向けさせる。月明かりに照らされた頬には、涙が伝っていた。


アルシオは息を呑んだ。


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