第六章-2 ファーストダンス
大広間の前に着く頃には、扉の向こうから響く音楽も、人々のざわめきも、はっきりと聞こえるようになっていた。入口の両脇には学園の紋章を刺繍した深青の布が掛けられ、冬の花を模した白い飾りが、灯りの中で静かに揺れている。案内役の生徒が二人に気づき、すぐに姿勢を正した。
「アルシオ殿下、アエラマリーナ会長」
扉が開かれる。高い天井から下がるシャンデリアは、無数の小さな星のように輝いていた。磨き上げられた床にはその光が映り、歩く人々の影をやわらかく揺らしている。壁際には冬の花と常緑の枝が飾られ、深青と銀を基調にした布が、学園らしい品を添えていた。
アルシオとアエラが入った瞬間、広間の一角から視線が集まった。昨年の年末舞踏会で二人が並んだ時、向けられた視線は驚きと興味が多かった。皇国の第一皇子と、エストリア首相の娘。生徒会の中心に立つ二人。そういう物珍しさが、空気の底にあった。同時に、学園での二人を知る生徒たちは、二人の間にある特別な距離を、公然の秘密のように温かく見守ってくれていた。周囲から見れば、二人が並ぶのはもう自然なことなのだろう。
けれど、当の本人たちの間には、まだ薄い隔たりがある。近づいたようで、最後の一線だけは越えられない。手を取ることは許されても、その手を自分のものだとは言えない。隣に立つことはできても、この先もずっと隣にいられる保証はどこにもない。
アエラはそんな思いを振り払うように、そっと背筋を伸ばした。
「会長、副会長」
声をかけられ、二人が顔を向けると、広間の奥からランスとマリエラが歩み寄ってきた。ランスは深い臙脂を基調とした礼装に身を包んでいた。肩幅の広さと長身が、その装いを少しも負けさせていない。派手ではないが、立っているだけで目を引く。普段の実技場で見せる武人らしさは残したまま、今夜の場にも不思議とよく馴染んでいた。
隣のマリエラは、淡い葡萄色のドレスだった。胸元と袖口には細かな刺繍が施され、落ち着いた中にも彼女らしい知的な華やかさがある。
「会長、今日の装い、とても素敵ですわ」
「ありがとう、マリエラ。あなたもよく似合ってるわ」
「お褒めにあずかり光栄です」
マリエラは上品に礼をし、それからアルシオにも視線を向けた。
「アルシオ殿下も、今夜は一段とご立派ですわ」
「ありがとう、マリエラ」
ランスも静かに一礼する。
「ランスも、ずいぶん似合ってるじゃない」
アエラが笑うと、ランスは少しだけ口角を上げる。
「……当然だ」
「すごい自信ね」
「恐れ入る」
ランスの澄ました顔に、アエラが楽しそうに笑う。そのやり取りを横で見ながら、アルシオは少しだけ表情を緩めた。
広間の中央で、楽師たちの音が静かに止んだ。ざわめきも、少しずつ引いていく。壇上へ、学園長が上がった。深い青の正装に身を包み、広間をゆっくりと見渡す。
「諸君。本日は、ソルフラン国際学園の年末舞踏会に集ってくれたことを、心より嬉しく思う」
広間は静まり返っている。
「この一年、諸君は多くのことを学び、時にぶつかり、時に手を取り合いながら、この学園に確かな歩みを刻んでくれた。国も、家も、考え方も異なる若者たちが、同じ場で学び、言葉を交わし、互いを知ろうとする。それこそが、この学園の掲げる理念である」
アルシオは隣のアエラを見る。アエラはまっすぐに壇上を見ていた。その横顔には、生徒会長としての責任と、どこか誇らしさに似た色があった。いつもは勢いよく前へ出て、思ったことを遠慮なく口にする。けれど、こういう時の彼女は誰よりもまっすぐに場を受け止める。そのことを、アルシオはもう知っていた。
「今夜は、一年の労をねぎらい、互いの健闘を讃える夜である。どうか身分や国の違いに囚われすぎることなく、礼節を忘れず、けれど若者らしく、この夜を楽しんでほしい」
学園長はそこでわずかに微笑む。
「それでは、年末舞踏会の開会を宣言する」
拍手が広間に広がった。楽師たちが一斉に楽器を構える。弦の音がゆっくりと立ち上がり、やがて優雅な旋律となって広間を満たした。ファーストダンスの曲だった。自然と、周囲の視線がアエラとアルシオへ向かう。アルシオは彼女の手を取ったまま、わずかに身をかがめる。
「踊ってくれる?リーナ」
声は低く、けれどはっきりと届く距離で。アエラは一瞬だけ目を伏せた。それから緑の瞳を上げて、いつものように笑った。
「ええ。喜んで」
けれど、その声もまた、ほんの少しだけ震えていた。アルシオは彼女を導くように、広間の中央へ歩き出した。周囲の人々が自然と道を空ける。床に映るシャンデリアの光が、二人の足元で揺れている。向かい合い、アエラの手を取る。もう片方の手を、そっと彼女の背中へ添える。その距離の近さに、アエラの睫毛がわずかに揺れた。
曲が始まる。一歩目を踏み出すと、アエラのドレスの裾がふわりと広がった。杏金の布が灯りを受け、冬の夜にあたたかな光の輪を描く。アルシオはその動きに合わせ、静かに彼女を導いた。アエラもすぐに呼吸を合わせる。互いの足運びは、驚くほど自然に合っていた。音楽に合わせ、アルシオはアエラをそっと回す。背中の高い位置で結ばれた大きなリボンが、ふわりと揺れた。黒い縁取りが灯りの中で一瞬だけ線を描き、彼女の杏金のドレスをさらに鮮やかに見せる。
アエラが顔を上げる。緑の瞳が、すぐ近くにあった。アルシオは、その瞳から目を逸らせなかった。いつもなら、アエラの言葉が飛んでくるのに、今はどちらも何も言えなかった。音楽だけが、二人の間を満たしている。
踏み出すたび、床に映る光が揺れた。杏金の裾がふわりと広がり、アルシオの白い礼装の裾をかすめる。アルシオの手が、アエラの背中を支えている。迷いなく添えられたその手は、去年よりも少し大人の男の人の手で、身を任せても大丈夫だと思わせるだけの安心感があった。この手の温もりを、自分が一番よく知っている。それが嬉しかった。たとえ公言できなくとも、今は紛れもない事実だ。
この一曲が終われば、きっとエレオノーラは来るだろう。あの淡い瑠璃色のドレスをまとった、落ち着いた令嬢が、控えめに、それでもきちんとアルシオへ手を差し出すのだろう。そうしたら、アルシオは断らない。穏やかに微笑み、彼女の手を取り、今と同じようにその背を支える。
それを想像した瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。肩に添えていたアエラの左手が、わずかに強張る。
「リーナ、どうかした?」
すぐに気づかれて、アエラは息を呑んだ。
「っ、何でもないわ」
言った声が、少しだけ上擦った。アルシオの視線を感じる。けれど、顔を上げられなかった。見てしまったら、きっと駄目だと思った。
「今日は、そればっかりだね」
責めるような声ではなかった。むしろ、心配するような、少し困ったような声音だった。だから余計に、アエラは顔を見られない。何でもないわけがない。あなたが他の誰かと踊るところを、見たくない。この手が、別の人を支えるところを想像するだけで苦しい。そんなことを言ったら、もう戻れなくなる。
「……舞踏会だもの」
ようやく口にできたのは、そんな言い訳みたいな言葉だった。
「少しくらい、緊張もするわ」
「君が?」
「何よ。わたしだって緊張くらいするわ」
「うん」
アルシオは静かに頷いた。
「知ってる」
その一言に、アエラの胸がまた苦しくなる。強がっていることも、本番前にだけ少し硬くなることも、いつも平気なふりをしていることも。アルシオにはすでにもう知られている。それなのに、その優しさに手を伸ばす権利が、自分にはない。
「……ずるいわ」
小さく零れた声は、音楽に紛れて消えるほどかすかだった。
「何が?」
「あなたが」
アルシオの足運びが、ほんのわずかに揺れた。けれどすぐに持ち直し、何事もなかったようにアエラを導く。さすがだと思った。こういうところまで、嫌になるほど整然としている。
「僕、何かした?」
「してないわ」
「じゃあ――」
「もういいったら」
自分でも、ずいぶん理不尽なことを言っていると思う。けれど、今夜はどうしても胸の奥が騒がしかった。アルシオが優しいことも、正しいことも、誰にでも礼を尽くせることも、本当は全部好きなところなのに。今だけは、その全部が少しだけ恨めしい。
アルシオはしばらく黙っていた。音楽がゆるやかに進んでいく。二人の周りを、シャンデリアの光と、遠巻きに見守る視線が静かに包んでいた。
「……リーナ」
呼ばれて、アエラはようやく少しだけ顔を上げた。アルシオの茶色の瞳が、すぐ近くにある。
「僕をみて」
静かな声だった。まるでアエラの胸の内をどこかで掬い取ったような言葉だった。
「今は、ダンスに集中して」
「……わかったわ」
アエラは小さく答えた。そして、ほんの少しだけ、アルシオの腕に添えた手に力を込める。アエラは、ようやく彼の顔を見た。言いたいことは、まだ何ひとつ言えない。けれど、この曲が終わるまでだけは。この手を取っていてもいいのだと、自分に言い聞かせた。曲はゆるやかに進んでいく。アルシオの導きに合わせて、アエラは身を翻した。視界が回り、灯りが流れ、広間の景色が光の帯になってほどけていく。
やがて、曲が終わりへ近づいていく。旋律がゆっくりとほどけ、最後の一音へ向かって沈んでいく。二人は向かい合ったまま静かに止まった。拍手が広間に広がる。アルシオはアエラの手を取ったまま、丁寧に礼をする。アエラもまた、ドレスの裾を軽く持ち上げ、優雅に礼を返した。顔を上げた時、二人の視線がもう一度重なる。
「……ありがとう、アルシオ」
アルシオの目が、わずかに柔らかくなる。
「こちらこそ、リーナ」
その声を聞いた瞬間、アエラの胸の奥がまた苦しくなった。そして、その余韻がまだ消えないうちに、広間のざわめきの向こうから、控えめな足音が近づいてきた。




