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第六章-1 杏金のドレス


 エストリアの冬は、温暖な土地とはいえ、日を追うごとに寒さを増し、静かに学園を包み込んでいた。窓の外には、淡い月明かりが落ちている。昼間の喧騒を沈めた校舎は静かで、けれど中央棟の大広間だけは、すでに灯りと音楽の気配に満ちていた。遠くから、楽師たちが音合わせをする弦の音がかすかに届く。その音に混じって、廊下を行き交う生徒たちの弾んだ声が聞こえた。


 今夜は年末舞踏会だ。一年の終わりを飾る、ソルフラン国際学園でもっとも華やかな夜だった。アルシオは寮の自室で、鏡の前に立っていた。

 皇国から届いた礼装は、前年と同じく白を基調としている。けれど袖を通してみると、その印象はずいぶん違っていた。わずかに銀を含んだような落ち着いた白は、灯りを受けて静かに光を返す。胸元から袖口へ流れる刺繍も、銀糸の細い文様が布の上を滑るように走っていた。左肩には、短いマントを掛ける。表は白、裏地は深い紫。歩くたび、あるいはわずかに身じろぐたびに、皇国の色が控えめに覗く。全体を引き締めるように差された黒は細く、けれどそれだけで甘さを抑え、装いに凛とした輪郭を与えていた。

 去年よりも、少しだけ大人びて見える。自分でもそう思ったのは、衣装のせいだけではないのかもしれない。鏡の中の自分は、この一年で少し背が伸びていた。相変わらず線は細いけれど、去年よりは幾分かしっかりして見える。黒い髪の下、茶色の瞳が静かにこちらを見返していた。


「アルシオ、準備できたか?」


 扉の向こうからレックスの声がした。


「うん。もう少し」


 そう返しながら、アルシオは机の上に置いていたハンカチーフを手に取った。乳白色の布地に、ごく淡い緑の刺繍が施されている。アルシオはそれを左胸のポケットへそっと差し入れる。ずっと持っていたせいで、少しくたびれているが、身につけていたかった。

 扉を開けると、廊下で待っていたレックスが軽く目を見開いた。彼もまた、いつもより格式ある礼装に身を包んでいる。深い青を基調とした上衣は、動きやすさを残しながらも、今夜の場にふさわしい仕立てだった。


「……なに?」


「いや」


 レックスは一度、上から下まで眺めてから、少しだけ口元を緩めた。


「相変わらず、様になってんな」


「うん。ありがとう」


 社交の場で褒められることには慣れている。けれど、レックスにそう言われると、少しだけ違って聞こえる。アルシオがさらりと返すと、レックスは肩をすくめた。二人で廊下を進む。これからアエラを迎えに、女子寮へ向かうのだ。レックスはいつものように、アルシオの一歩後ろを歩いている。今年も舞踏会のパートナーの申し込みは、すべて断ったらしい。相変わらず義理堅い従者だった。

 途中、エクシオとフェリオに出会った。


「兄様!レックス!」


 エクシオはアルシオを見つけると、ぱっと笑顔で歩み寄ってきた。フェリオはその少し後ろで、いつものように穏やかに一礼する。

 エクシオはアルシオと同じ意匠の礼装をまとっていたが、纏う雰囲気はまるで違っていた。アルシオが夜の湖面に浮かぶ月のようだとすれば、エクシオは春の陽光のように周りを温かくする。刺繍には金糸が使われており、二人並べば、まるで対のようにも見えた。


「やあ、エクシオ。今から会場に向かうところ?」


「いえ。エスコートを頼まれているので、お相手を迎えに女子寮へ行くところです」


「へえ。誰を?」


「エレオノーラ嬢です」


 その名前を聞いて、アルシオは内心でどきりとした。彼女は皇国の侯爵令嬢だ。エクシオがエスコートすること自体は不自然ではない。けれど、その背後にはどうしてもオーガストの影がちらつく。もっとも、エクシオ自身は微塵も気にしていないようだった。

 女子寮のロビーへ到着すると、すでに多くの生徒たちが、パートナーを迎えに来ていた。色とりどりの礼装とドレスが行き交い、待ち合わせを終えた者たちは、次々に会場へと連れ立って向かっていく。

 階段から現れたのは、エレオノーラだった。淡い瑠璃色のドレスは、月明かりに銀を溶かしたような、やわらかな青だった。胸元から腰にかけて細かな銀糸の刺繍が流れ、灯りを受けるたび、水面に落ちた光のようにかすかにきらめく。首元から肩にかけては薄い透け布が重なり、慎ましさを残しながらも重たくは見えない。腰には濃い藍色の細いリボンが結ばれ、蜂蜜色の髪と藍の瞳を、落ち着いた品の中で引き立てていた。髪は丁寧にハーフアップに結われ、後ろには小さな真珠飾りが留められている。派手ではないが、近づけば近づくほど細部の美しさが分かる装いだった。


「アルシオ殿下。エクシオ殿下。お待たせして申し訳ありません」


「大丈夫、今来たところだよ。エレオノーラ。今日は一段と綺麗だね。よく似合っている」


「ありがとうございます」


 エレオノーラは、ほんの少し頬を染めた。さらりとそう言えるエクシオは、やはり流石だった。明るく、臆せず、相手に余計な緊張を与えない。皇子としての礼節を保ちながらも、彼には人の心を自然にほぐすところがある。エレオノーラは、ちらりとアルシオを見る。その視線に気づき、アルシオも穏やかに微笑んだ。


「ええ。とてもよくお似合ってるよ」


「光栄でございます。殿下方も、とても素敵です」


 エレオノーラはドレスの裾を軽く持ち上げ、優雅に礼を取った。やがてエクシオが手を差し出す。エレオノーラはその腕にそっと手を添え、二人は会場へ向かって歩き出した。その背を見送ってから、アルシオは再び階段へ目を向ける。

 アエラを待つ時間が、いつもより少しだけ長く感じられた。しばらくすると、階段の上に彼女が姿を見せた。アエラが纏っていたのは、杏金のドレスだった。灯りをそのまま布に閉じ込めたような色が、彼女の動きに合わせてやわらかく揺れている。肩から腕にかけては、すっきりと見える意匠だった。大胆すぎるわけではない。けれど、首筋から肩の線、腕の細さ、そして腰へ流れる身体の輪郭が、上品に際立っていた。細い腰から裾へ広がる布は軽やかで、歩くたび、冬の灯りを受けた花弁のように揺れる。背中の高い位置には、大きなリボンが結ばれていた。ドレスと同じ杏金の布で作られたそのリボンは、両端だけが黒く縁取られている。甘さの中にきりりとした輪郭が生まれ、彼女の華やかさを引き締めていた。赤みを帯びた髪はゆるく結い上げられ、緑の瞳が灯りを受けて鮮やかに映える。まるで、春の光が冬の夜へ降りてきたようだった。


 アエラは階段の途中で、ふとアルシオを見つけた。目が合うと、束の間、周囲の音が遠のいた気がした。

 アエラの唇が、かすかに笑みを形作る。いつものように自信に満ちた、けれど今夜だけはどこか照れを含んだ笑みだった。そしてアエラは、迷いのない足取りでアルシオのもとへ歩いてきた。


「ごきげんよう。お待たせしちゃった?」


 わざとらしく改まった声。けれど、その瞳だけはいつものアエラだった。


「ごきげんよう、リーナ」


 アルシオは静かに応じる。近くで見ると、杏金のドレスはさらに柔らかく輝いて見えた。背中のリボンの黒い縁取りが、彼女の華やかさを甘くなりすぎないところで留めている。アエラはアルシオを見上げた。


「今年のあなた、去年よりずっと素敵ね」


「リーナも、……とても似合ってる。綺麗だよ」


 華やかな装いのアエラは、普段よりも艶やかで思わず見惚れてしまう。ようやくそう言うと、アエラは笑みを崩して、頬を染める。アルシオから、顔を背けてしまった。


「……ありがとう」


アルシオは、そっと左腕を差し出して、アエラは腕を絡めた。そして、並んで会場へと向かった。


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