第五章-4 言えない願い
夜も深まった頃、寮の一室には、机上のランプのやわらかな灯りだけが落ちている。窓の外には静かな闇が広がり、ときおり風が枝を揺らす音だけがかすかに届いた。アルシオは窓辺の椅子に腰掛け、膝の上に本を開いていた。けれど、その頁はもうずいぶん前から止まったままだった。視線は文字の上に落ちていても、何一つ頭に入ってこない。
控えめなノックの音にも、アルシオは気づかなかった。やがて扉が開き、レックスが顔を覗かせる。
「……まだ起きてたのかよ」
あきれたような声に、アルシオはようやく顔を上げた。
「もう寝ろよ」
アルシオは返事をしなかった。しばらく間を置いてから、ぽつりとこぼす。
「……レックス、僕はどうしたらいいのかな」
その声は、ひどく静かだった。レックスは一瞬だけ眉をひそめ、それから無言で部屋へ入ってくる。アルシオのもとまで来ると、膝の上に開かれていた本をひょいと取り上げた。
「ちょっと」
「どうせ読めてねえだろ」
言い返す余地も与えず、本を閉じる。そしてそのまま向かいの椅子にどかりと腰を下ろした。
「何悩んでんだよ。気持ちはもう決まってんじゃないのかよ」
まっすぐな問いに、アルシオは目を伏せた。
「……全然だよ」
レックスは露骨に顔をしかめた。
「はぁ……」
大きなため息が、静かな部屋に響く。アルシオは窓の外へと目を向けたまま、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「周囲からどう見られようと、エクシオと比較されようと、それはどうでもいいんだ」
その声音には、諦めにも似た落ち着きがあった。
「ずっと覚悟していたことだし。そういうものだって、分かっていたから」
第一皇子として見られること。王家の色ではないことを囁かれること。エクシオと比べられること。それは、幼い頃から少しずつ身に沁み込んできた現実だった。今さら傷つかないわけではない。けれど、耐えられないほどではない。
「ユリウス殿にも、オーガスト殿にも、見透かされている気がした」
アルシオは小さく息を吐いた。
「僕がどう玉座に向き合うのか。誰を――選ぶのか」
最後の言葉だけ、ほんの少し遅れた。
「皆、僕の答えを待っている」
レックスは黙って聞いている。
「でも、リーナのことは……決断できないよ」
その名を口にした瞬間だけ、アルシオの声は微かに揺れた。
「もう時間もないのに」
膝の上で、指がゆるく組まれる。
「そばにいてほしい」
それは、祈りのような声だった。
「たとえ、籠に閉じ込めることになっても、リーナと離れるのは考えられない。辛い」
そこまで言って、息を詰めるように口を閉ざす。
「……でも、その一言が言えない」
レックスは即座に返した。
「言えばいいじゃん」
あまりにもあっさりした言葉に、アルシオは苦く笑う。
「簡単に言えないよ」
「なんも難しくないだろ」
「難しいよ……!」
アルシオはようやく顔を上げた。赤みのある茶の瞳には、行き場のない迷いと焦りが滲んでいる。
「僕は皇国の第一皇子だ。リーナに“そばにいてほしい”と言うことは、彼女の未来を変えるかもしれない。エストリアでの立場も、ユリウス殿の期待も……全部」
そこまで言って、アルシオは唇を引き結んだ。
「僕の願いで、彼女を縛ることになるかもしれない」
レックスは数秒、黙った。けれど同情するような顔はしなかった。むしろ呆れたように息を吐く。
「……アエラの気持ちは考えたことあんのか」
アルシオの表情が止まる。
「え……」
「お前が勝手に想像してるだけだろ」
レックスの声は低かったが、はっきりしていた。
「言えば縛るかもしれない、籠に閉じ込めるかもしれないって、お前が一人でそう思ってるだけだ」
アルシオは反論できない。
「アエラの気持ちを聞かないで完結すんなよ」
その一言は、まっすぐ胸に刺さった。
静まり返った室内で、アルシオはただレックスを見つめる。レックスは足を組み、眉を寄せたまま続けた。
「あいつは、お前が言ったら黙って従うような女か?」
アルシオの脳裏に、緑の瞳をまっすぐ向けてくる少女の姿が浮かぶ。生徒会長として前に立ち、誰よりも率直で、誰よりも自由で、みんなを引っ張っていく人。
「……違う」
絞り出すようにそう答えると、レックスは肩をすくめた。
「だろ」
「でも……」
「でもじゃねぇ」
レックスは容赦なく遮る。
「お前、優しいつもりでいるかもしれないけどさ。それ、相手のことを考えてるようで、結局はお前が傷つくのを怖がってるだけにも見えるぞ」
アルシオは息を呑んだ。痛いところを突かれた。リーナの未来を思っているのは本当だ。けれど同時に、自分の言葉で彼女を困らせることを、拒まれることを――恐れている。
「……僕は」
声が途切れる。
「分かんねえなら、聞けよ」
レックスは少しだけ声音を和らげた。
「勝手に決めつけるな。お前一人で背負って、勝手に終わった気になるなよ」
アルシオは何も言えなかった。閉じた本の表紙を見つめる。窓の外では、夜の風が静かに木々を揺らしていた。




