第五章-3 宣戦布告
数日後。創設祭の熱はようやく学園の空気から薄れ、代わりに冬の気配が少しずつ濃くなり始めていた。中庭の木々は葉を落とし、夕方になれば回廊を抜ける風も冷たい。生徒たちの話題は、創設祭から次の行事――年末舞踏会へと移りつつあった。
生徒会室の机の上にも、すでに舞踏会に関する資料が広げられている。招待客の名簿、当日の進行表、楽師の配置、食事の形式。華やかな舞踏会とはいえ、準備する側からすれば、ただ踊って楽しむだけの場ではない。
「……こっちはマリエラに確認してもらった方が早いわね」
アエラはひとり、書類に目を通しながら小さく呟いた。
今日は他の生徒会役員たちは先に戻っている。アルシオも、レックスに促されて寮へ戻った。舞踏会の衣装の合わせがあるらしい。アルシオなら何を着ても、きっと様になるのだろうけど。そう想像した自分を、アエラは少しだけ叱咤する。浮かれてる場合じゃないのに。父に問われた、自分がアルシオの隣に立つ覚悟。その答えを、まだ出せていないのに。
そう思ったところで、扉が控えめに叩かれた。
「どうぞ」
顔を上げると、扉が静かに開く。そこに立っていたのは、エレオノーラだった。きちんと整えられた髪に、乱れのない立ち姿。けれど、その瞳には、普段よりも少しだけ硬い意思が宿っていた。
「お忙しいところ、申し訳ありません。アエラマリーナ様」
スカートのすそを持ち、優雅に礼を取る姿は、アエラがみても非の打ちどころがなかった。
「少し、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「ええ。もちろん」
アエラは書類を置いた。
「舞踏会のことで何か相談?」
「はい」
エレオノーラは一歩、室内へ入る。扉が静かに閉まった。その音が、やけに大きく聞こえた気がした。アエラはエレオノーラをソファへと促し、自分も対面に座った。
「年末舞踏会の件で、アエラマリーナ様にお伝えしておきたいことがございます」
「私に?」
「はい」
エレオノーラは真っ直ぐにアエラを見る。その視線の強さに、アエラはわずかに眉を上げた。
「わたくし、年末舞踏会でアルシオ殿下に、一曲ダンスをお願いしようと思っております」
言葉は丁寧だった。けれど、その一言で、アエラの胸の奥が小さく強張った。
「……そう」
どう返せばいいのか、一瞬分からなかった。舞踏会なのだから、一曲を申し込むこと自体は何もおかしなことではない。アルシオは皇国の第一皇子で、エレオノーラも皇国の令嬢だ。だから、アエラには何も言えない。
「それを、どうして私に?」
尋ねる声は、思ったより落ち着いていた。エレオノーラは、少しだけ目を伏せる。
「アエラマリーナ様は、アルシオ殿下のお近くにいらっしゃる方ですから」
胸の奥を、細い針でつつかれたような気がした。確かにアルシオの近くにいるのは、私だと自覚している。生徒会でも、授業でも、行事でも、アエラはアルシオのそばにいることが多い。彼と話すことも多い。彼だけが、自分をリーナと呼ぶ。乳兄弟のレックスを除けば、アエラだけがアルシオを名で呼ぶことを許されている。けれど、それだけだ。それ以上の何かを、認められたわけでも、許し合ったわけでもない。
「別に、私に断らなくても……。アルシオが受けるかどうかは、彼が決めることだもの」
そう自分で言いながら少し胸が痛んだ。エレオノーラは、真っ直ぐに、静かにアエラを見ている。
「はい。ですが、アエラマリーナ様には、申し上げておくべきだと思いました」
「それは……」
アエラは無意識に指に力が入っていた。
「宣戦布告、ということ?」
冗談めかしたつもりだった。けれど、声は少しも軽くならなかった。エレオノーラは、一拍だけ沈黙した。そして、静かに頷く。
「そのように受け取っていただいて構いません」
思っていたよりも、ずっとはっきりした返事だった。アエラは思わず、エレオノーラを見つめ返す。
「……随分、正直なのね」
「アエラマリーナ様には嘘をつきたくありませんから」
エレオノーラの声は穏やかだった。けれど、その奥には確かな覚悟があった。
「わたくしは、アルシオ殿下をお慕いしております」
アエラは、息を止めた。聞きたくなかった。そう思ってしまった自分に、また少し驚く。
「もちろん、家のこともございます。ですが……それだけなら、アエラマリーナ様のもとへは参りませんでした」
「……どういう意味?」
「わたくし自身が、殿下と踊りたいと思ったのです」
静かな声だった。綺麗事だけではない。家の思惑も兄の言葉もあるのは事実だ。けれど、それでも自分の気持ちだけは嘘にしたくない。そんな切実さが、そこにあった。エレオノーラ自身と直接話をしたことなどなかったが、真摯な目にアエラは理解してしまった。彼女は皇国の第一皇子としてでなく、アルシオ自身を見ている。そのことが、何よりもアエラの胸をざわつかせた。
「……好きにすればいいわ」
アエラは自分でも驚くほど、発した声は低かった。
「私は、あなたを止める立場じゃないもの」
言った瞬間、胸の奥がきしむ。そうだ。自分には、止める権利などない。
「それに、アルシオはきっと断らないと思う。あなたがきちんと申し込めば、ちゃんと受けるわ」
「……そうでしょうか」
「そうよ。あの人は、そういう人だもの」
言ってから、胸がまた痛んだ。分かっている。アルシオはきっと、穏やかに微笑んで手を取る。相手に恥をかかせないよう、礼を尽くして踊る。エレオノーラが緊張していれば、優しく声をかけるかもしれない。その姿が、簡単に想像できてしまう。想像できるからこそ、嫌だった。
アエラは小さく息を吐き、いつものように顎を上げた。
「言いたいことは分かったわ。年末舞踏会で、あなたがどう動くかはあなたの自由。アルシオがどう答えるかは、アルシオの自由よ」
「はい。……お時間をいただき、ありがとうございました」
エレオノーラはもう一度礼をし、静かに生徒会室を出ていった。扉が閉まると、急に静けさが戻った。アエラはしばらく閉じられた扉を見つめていた。やがて、ゆっくりと執務の椅子に座り直す。机の上には、年末舞踏会の進行表が広げられている。華やかな夜には、アエラは今年もアルシオのパートナーとして出ることになっていた。この後は、誰が誰と踊ろうが本来は自由だ。
舞踏会で一曲踊るだけなら、特別なことではない。アルシオは皇子で、エレオノーラは皇国の令嬢。むしろ、自然な申し出だ。
けれど。
「……嫌だわ」
ぽつりと、声が落ちた。自分でも驚くほど、小さく、正直な声だった。アエラは肘をついて顎を乗せ、深く息を吐く。嫌だと思ってしまった。けれど、その気持ちを、誰に向ければいいのか分からない。エレオノーラは堂々と告げてきたし、自分には止める権利などない。ただ、胸の奥が落ち着かない。アルシオに手を取らないでなど、言えるわけがない。それなのに、アルシオが他の誰かの手を取り、あの穏やかな目で微笑むところを想像しただけで、どうしようもなく苦しくなる。
窓の外には、冬の夕暮れが静かに降りていた。舞踏会まで、もうあまり時間はなかった。




