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第五章-2 一曲の決意

 時を同じくして、学園の正門前には、いくつもの馬車が並んでいた。創設祭を終えた来賓たちが、順に学園を後にしていく。昼間には人の声と拍手で満ちていた広場も、夕暮れの色に包まれる頃には、どこか祭りの後らしい寂しさを帯び始めていた。御者が荷を積み込み、従者たちが最後の確認をしている。その馬車の一台の前に、オーガストは立っていた。整った礼装に乱れはない。創設祭の賑わいに浮かされることもなく、彼はいつも通り冷静な表情で、妹を見下ろしていた。


「エレオノーラ」


 呼ばれて、エレオノーラは顔を上げる。


「はい、お兄様」


 兄を見送るために正門まで来た。けれど、オーガストの声に含まれた硬さに、肩がこわばる。


「茶会の後、進展はあったか?」


「いえ、特には……」


 オーガストは小さく息を吐いた。そのため息には、わずかな落胆の色が混じっていた。


「今日の演舞を見たな」


「……はい」


「どう思った」


 エレオノーラは少しだけ視線を落とした。そんなもの、簡単に言葉にできるはずがなかった。アルシオは、動きこそ静かで華やかだったわけではないが、剣を構えても、一歩も引かず相手の呼吸を見ていた。ランスの力強さに呑まれることなく、真正面から応じていた。そして、終わったあとも、拍手と視線を浴びながら、彼はいつもの穏やかな顔で礼をしていた。


「……見事でございました」


 ようやくそう答えると、オーガストは小さく頷いた。


「その通りだ。今日で、はっきりしたな。アルシオ殿下は、いずれ皇国を背負われる」


 胸の奥が、小さく跳ねた。エレオノーラは思わず兄を見る。


「はい……」


「正式な立皇はまだ先だろう。だが、今日の来賓たちは見ただろうな。皇国第一皇子が、ただ静かなだけの少年ではないと」


 夕暮れの風が、エレオノーラの髪を揺らした。


「知性があり、礼を失わず、武もある。しかも、周囲を立てることもできる。色がどうあれ、あれほど均衡の取れた皇子は、そうはいない」


「……お兄様は、アルシオ殿下を随分と高く評価なさるのですね」


「当然だ」


 オーガストは迷いなく答えた。


「あの方は、忠義を尽くすに足る方だ」


 その言葉に、エレオノーラは指先をわずかに握った。兄にとっては、きっとそうなのだろう。家にとって、政治にとって、将来にとって。けれど、エレオノーラの胸に残っているのは、それだけではなかった。アエラマリーナに向ける目の柔らかさ。何か言われ、困ったように笑っていた姿。その短いやり取りの空気が、どうしても忘れられない。


「……でも、殿下のお側にはすでにアエラマリーナ様がいらっしゃいます」


 小さく言うと、オーガストの目がわずかに細められた。


「アエラマリーナ・アルタイルか」


「はい」


「あの令嬢は、確かに殿下に近い」


 兄は否定はしなかった。外部から客観的に見てもそう見えるのだ。それが余計に、エレオノーラの胸を沈ませる。


「ですが、まだ何も正式には決まっていない」


「……お兄様」


「エレオノーラ。お前は、あの方にもっと近づけ」


 はっきりと命じられ、エレオノーラは息を呑んだ。


「年末舞踏会があるだろう。お前から一曲、申し込みなさい」


「わたくしから、ですか」


「そうだ」


「ですが……」


「何をためらう」


 オーガストの声は低かった。


「あの方に婚約者はいない。アエラマリーナ嬢も、正式な相手ではない。ならば、お前が遠慮する理由はない」


 反論ができなかった。けれど、エレオノーラは唇を噛む。


「お兄様は、わたくしに殿下を籠絡しろとおっしゃるの?」


 思わず零れた言葉だった。言ってから、自分でも驚く。兄にこんなふうに返したことは、あまりなかった。


「そこまでできるとは思っていない。だが、お前は殿下を慕っているだろう」


「……っ」


 頬が熱くなる。図星を疲れて、反論できない。オーガストは淡々と続ける。


「家のためにもなる。お前の望みにも反していない。ならば、動かない理由はない」


「それは……お兄様の理屈です」


「そうだ」


 あまりにもあっさり認められて、エレオノーラは言葉を失う。


「だが、理屈もなく動ける立場ではないだろう。お前も、私も」


 家の名を背負う者としての現実。生まれた時から、選べるものが限られている者の諦め。それを、兄は当たり前のように口にしている。エレオノーラは、遠くに見える学園の校舎へ視線を向けた。あの中に、アルシオがいる。そしてきっと、そのそばにはアエラマリーナもいる。


「……年末舞踏会で」


 ようやく、声を出した。


「一曲、お願いしてみます」


 オーガストは満足げに頷く。


「それでいい」


 御者が馬車の扉を開けた。乗り込む前に、オーガストはもう一度だけ妹を見る。


「大丈夫だ。殿下もきっと、お前の良さを分かってくださる」


「はい」


 兄なりにエレオノーラを思っての言葉だと分かった。だが、それが余計に胸を苦しくさせる。オーガストはそれ以上何も言わず、馬車へ乗り込んだ。扉が閉まり、御者が手綱を取る。車輪がゆっくりと動き出した。

 エレオノーラは、去っていく馬車を見送る。アルシオ殿下に、一曲をお願いする。ただそれだけのことなのに。なぜ、こんなにも息が苦しいのだろう。


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