第3章-3 皇国の香り
茶会の当日、放課後の小サロンには、やわらかな午後の光が差し込んでいた。女子寮とは別棟にあるそのサロンは、来客や生徒同士の歓談にも使われる場所だった。壁際には使用人が控え、卓の上には白磁の茶器と、淡い色の布を敷いた菓子皿が整えられていた。
エレオノーラ・ヴァレンティスは、その卓の傍らで静かに二人を待っていた。明るい金に近い蜂蜜色の髪は、窓から入る光を受けると、皇族のそれにも似た柔らかな輝きを帯びる。伏せた睫毛の奥にある瞳は深い藍色で、彼女の静かで芯のある性格を表しているようだった。立ち姿も、指先の所作も、声をかけられるのを待つ横顔も、すべてが丁寧に躾けられた令嬢のものだった。廊下から足音が近づいてくる。
「お待たせ、エレオノーラ嬢」
先に声をかけたのはエクシオだった。その後ろに、アルシオが続く。レックスとフェリオは少し離れた位置で足を止め、サロンの中には入らず、廊下側に控えるようだった。エレオノーラは胸の奥で小さく息を整え、丁寧に一礼する。
「お越しいただき、ありがとうございます。アルシオ殿下、エクシオ殿下」
「こちらこそ、招いてくれてありがとう」
アルシオは穏やかに返す。その声音はやさしい。けれどエレオノーラは、そこにわずかな距離も感じていた。それでも、来てくれたことが、嬉しかった。
「どうぞ、お掛けくださいませ」
二人を席へ案内し、エレオノーラも向かいに腰を下ろす。茶器に注がれた琥珀色の茶から、ふわりと懐かしい香りが立ちのぼった。
「いい香りですね」
エクシオが素直に目を細める。
「サムロール領産の茶葉ですわ。香りが良くて、わたくし、とても好きなんです」
「たしかに。懐かしいな」
エクシオの明るい声に、場の空気が少し和らぐ。アルシオも茶器を手に取り、香りを確かめるように目を伏せた。
「……本当だ。いい香りだね」
その一言に、エレオノーラの表情がほっとやわらぐ。
「お気に召していただけたなら、よかったです」
たったそれだけの返事なのに、思った以上に嬉しかった。期待してはいけないと分かっている。これはただのお茶会で、アルシオの優しさも礼儀の範囲かもしれない。それでも、自分の用意したものを彼が受け入れてくれたことが、どうしようもなく胸に染みた。
「兄様、こういうお茶を飲むと、王城に戻った気がしますね」
「うん。勉強中に出されていたのを思い出すな」
「そうそう。少し渋みが残って、眠気が飛んじゃうんだよね」
エクシオはそう言って、楽しげに茶器を見下ろす。その自然な反応に、エレオノーラは少しだけ肩の力を抜いた。
「よかったです。お二人のお口に合うか、不安でしたの」
「とても美味しいよ。不安に思う必要ないのに」
エクシオが明るく返す。その言葉に救われながら、エレオノーラはアルシオへそっと視線を向けた。アルシオも静かに頷く。
「うん。おいしいよ」
「ありがとうございます」
嬉しい。けれど、嬉しさを見せすぎてはいけない。エレオノーラはそう自分に言い聞かせ、菓子皿をそっと勧めた。
「こちらも、よろしければ。甘さは控えめなものを選びましたの」
「いただきます」
エクシオは素直に手を伸ばす。アルシオもそれに続いた。
茶会は、穏やかに始まった。話題は学園生活のこと、講義のこと、エクシオのクラスの様子へ移っていく。エレオノーラは決して出しゃばらず、それでいて会話が途切れすぎないよう、丁寧に言葉を選んでいた。
「エクシオ殿下は、すぐ周りの方と打ち解けていらっしゃいますね」
「そう見える?」
「ええ。羨ましいくらいですわ」
エレオノーラがそう言うと、エクシオは少しだけ目を瞬いた。その言葉に、ほんの少し本音が滲んでいたからだ。
「エレオノーラ嬢も、十分馴染んでいると思うよ?」
「そうでしょうか」
「少なくとも、僕は話しやすいしね」
エクシオの言葉に、エレオノーラは一瞬驚いた顔をしたあと、控えめに微笑んだ。
「ありがとうございます。そう言っていただけると、安心します」
エクシオは、彼女が悪い人ではないことを改めて感じていた。控えめで、相手を困らせないようにと気を配っている。そう振る舞うよう身につけたものかもしれないが、彼女本来の気質からくる優しさなのだろう。だからこそ、彼女の健気さに複雑な思いがした。
「競技会では、お二人ともご活躍でしたね」
エレオノーラが話題を変えるように言った。
「わたくし、初めてお二人の剣技を拝見しました。詳しくは分かりませんが、圧倒されてしまいました」
「ありがとう。兄様には負けてしまったけどね」
「ですが、とても堂々としていらっしゃいましたわ」
「そう言ってもらえると救われるよ」
エクシオが明るく返すと、エレオノーラも小さく笑った。その笑みは控えめで、けれど温かい。アルシオは茶器を置き、弟へ視線を向ける。
「エクシオは、本当に腕を上げていたよ」
「兄様にそう言われると、嬉しいです。負けたことは悔しいけど」
「勝負だからね」
「次は勝ちます」
「楽しみにしてる」
そのやり取りに、場がまた少し和む。エレオノーラは兄弟の間に流れる自然な空気を静かに見つめていた。パーティーで見る二人の雰囲気とは、また違った空気だ。剣を握れば、お互い競い合い高め合っておられる。そこは、女性の自分にはわからない領域だ。でも、そのことを寂しいとは思わない。自分の前で、この空気を共有出来たことが嬉しかった。
「アルシオ殿下は、普段から鍛錬を続けていらっしゃるのですね」
「うん。できるだけ」
「やはり、皇子として必要なことだからでしょうか」
問いは丁寧だった。アルシオは少しだけ考えてから答える。
「それもあるけれど……身につけたものを鈍らせたくないというのもあるかな」
「ご立派ですわ」
「そんな大層なものじゃないよ」
穏やかに返され、エレオノーラは少しだけ首を振った。
「いいえ。継続することは、それだけで尊いことだと思います」
彼女自身もまた、家の期待や教育の中で、日々同じことを積み重ねてきた人なのだろう。アルシオはふと、そう思う。
エレオノーラは穏やかで、丁寧で、皇国の価値観をよく理解している。振る舞いも、言葉選びも、家柄も、周囲から見ればきっと申し分ない。明るい蜂蜜色の髪は、皇国の貴族たちからは好ましく見えるだろう。深い藍色の瞳には、落ち着きと品がある。彼女はきっと、皇国の宮廷でも浮かない。むしろ、静かに馴染むはずだった。
――きっと、こういう人を選ぶのが正しいのだろう。その考えが胸をよぎった瞬間、なぜか胸がチクリと痛んだ。
「兄様?」
エクシオの声に、アルシオは我に返る。
「ごめん。少し考えごとをしていた」
「お疲れですか?」
エレオノーラが心配そうに目を上げる。
「いや、大丈夫だよ」
いつもの返事だった。けれど、それがまた曖昧な言葉であることを、アルシオは分かっていた。エレオノーラは、会話がアルシオへ偏りすぎないよう、エクシオにも丁寧に話を振った。エクシオもそれを受け、場を明るく保つように言葉を重ねる。そしてアルシオも、礼儀正しく応じた。
やがて茶会が終わり、アルシオとエクシオは席を立った。
「今日はありがとう。久しぶりに皇国の茶をゆっくり味わえたよ」
アルシオがそう礼を述べると、エレオノーラは胸の前でそっと手を重ねた。
「こちらこそ、お越しいただけて嬉しかったです」
声は落ち着いていた。けれどその表情には、隠しきれない安堵が滲んでいた。最後まで、穏やかに話せた。それだけで十分だと、自分に言い聞かせる。ただ一度、お茶を共にしただけだ。それでも何もしないよりは、確かに一歩進めたと思った。
「また、機会があれば」
言いかけて、エレオノーラはほんの少しだけ言葉を止めた。
「……また、皇国のお話を聞かせていただけたら嬉しいです」
控えめな願いだった。アルシオは一瞬だけ目を伏せ、それから穏やかに頷く。
「うん。僕でよければ」
その返事に、エレオノーラは微笑んだ。嬉しいのに、胸が少し痛い。この方はやさしい。けれど、そのやさしさが自分だけに向いているのであれば、どんなに嬉しいだろう。でも、まだ自分とアルシオの距離は同郷というだけだ。
二人がサロンを出ると、廊下には春の夕方の光が長く伸びていた。その明るさの中で、何かがまた少し、戻れない方向へ動き始めていた。




