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第3章-2 小さな一歩

 翌日の夕方、廊下には、講義が終わった生徒たちの足音と話し声が満ちている。エレオノーラは図書室の入り口前で、そっと胸の前で指を組んだ。


 言葉は、何度も考えてきた。けれど実際に口にしようとすると、喉の奥が少しだけ強ばる。断られるかもしれない。困らせてしまうかもしれない。そう思えば足は竦みそうになる。


 廊下の向こうから、見慣れた金の髪が見えた。エクシオだ。その隣にはアルシオがいる。少し後ろには、レックスとフェリオの姿もあった。エレオノーラは小さく息を吸い、静かに一歩前へ出た。


「アルシオ殿下、エクシオ殿下」


 二人が足を止める。


「エレオノーラ嬢」


 アルシオが穏やかに名を呼んだ。その声音に胸が少しだけ跳ねる。けれど、エレオノーラは礼を崩さないよう、丁寧に一礼した。


「ごきげんよう。急にお呼び止めしてしまって、申し訳ありません」


「いや、大丈夫だよ。どうしたの?」


 促され、エレオノーラは用意していた言葉を口にしようとする。だが、視線を上げた先でアルシオの落ち着いた顔を見ると、ほんの少しだけ息が詰まった。この人の隣には、もう特別な誰かがいる。そのことを知っているのに、自分は今、ここで踏み出そうとしている。

 それでも――


「実は、先日実家から皇国のお茶が届きましたの」


 声は少し硬かったが、震えはしなかった。


「こちらの学園ではなかなか口にできないものですので、もしよろしければ……」


 そこで一度、指先に力が入る。


「お二人に、ご一緒していただけないかと思いまして」


 言い終えた瞬間、ほんのわずかな沈黙が落ちた。アルシオはすぐには答えなかった。

 あぁ、やっぱり困っていらっしゃる……。そう思うと、エレオノーラの胸はきゅっと縮む。


 その時、エクシオが明るく声を挟んだ。


「皇国のお茶?いいね!」


 エレオノーラは思わず顔を上げる。


 エクシオはにこりと笑っていた。場を和ませるような、人懐こい笑みだった。

 エクシオは、エレオノーラがどれほど勇気を出して声をかけたのか、何となく分かっていた。同じクラスになってから、彼女が押しの強い性質ではないことは知っている。控えめで、けれど芯があって、礼を重んじる皇国の令嬢らしい人だ。それに、ヴァレンティス侯爵家の長女である彼女には、親からの期待もあるのだろう。

 だから、ここで彼女の誘いを無下にするのも忍びなかった。

 兄一人を誘ったわけではないし、自分も含めて、皇国出身の三人で茶を飲むのなら、角も立たないはずだ。


「最近はなかなか飲む機会もないし。兄様も、お好きですよね?」


 自然な調子でそう言った。アルシオは一瞬だけ弟を見る。エクシオの笑顔に悪意はない。むしろ、エレオノーラの勇気を受け止めようとしているのだと分かる。だからこそ、断りづらかった。


「……そうだね」


 アルシオは静かに頷いた。


「久しぶりに皇国のお茶をいただけるなら、嬉しいよ」


 その瞬間、エレオノーラの胸の奥で張りつめていたものが、ふっとほどけた。

 断られなかったことに、思っていた以上に安堵している自分がいた。誘う前から、何度も覚悟はしていた。都合が合わないと言われるかもしれない。やんわりとかわされるかもしれない。あるいは、気づかないふりをして距離を置かれるかもしれない。

 それでも仕方がないと思っていた。自分が踏み込もうとしている場所に、すでに別の誰かの影があることくらい、分かっていたから。


「ありがとうございます」


 嬉しさを見せすぎないように、エレオノーラは丁寧に礼を取った。


「では、明後日の放課後ではいかがでしょうか。学園の小サロンを借りられるよう、手配しておきますわ」


「僕は大丈夫だよ」


 エクシオが先に答える。そしてアルシオへ視線を向けた。


「兄様は?」


 重ねられるように問われ、アルシオはほんの少しだけ間を置いた。彼女は、アルシオ一人ではなく、エクシオも含めて声をかけてくれている。礼を欠くような場面ではなかった。

 アルシオは静かに答えた。


「……僕も大丈夫だよ」


 エレオノーラは、控えめながらも嬉しそうに微笑む。


「では、明後日の放課後に。お待ちしております」


「楽しみにしてるね」


 エクシオが明るく返す。アルシオも礼儀として、穏やかに頷いた。


「誘ってくれてありがとう」


「こちらこそ、ありがとうございます」


 エレオノーラはもう一度丁寧に礼をして、その場を離れていった。その背中には、緊張が少しだけ解けたような安堵が滲んでいた。

 彼女の姿が廊下の角に消えてから、エクシオはちらりと兄を見上げる。


「……兄様」


「なに?」


「いえ」


 言いかけて、エクシオは口を閉ざした。場を繋いだのは自分だ。エレオノーラの勇気を認めてあげたかったし、三人なら何もおかしなことにはならないと思った。けれど兄は、今まだアエラのことで迷っている。そのことを知っているのは、自分だった。

 ――兄様、断りづらくしてごめん。

 口には出せないまま、エクシオは兄の横顔を見上げる。アルシオはいつも通り穏やかな顔をしていた。けれどその奥にある小さな迷いまでは、消えていないように見えた。


「行こうか」


「……はい」


 アルシオは歩き出し、エクシオは隣に並んだ。廊下には、何事もなかったように春の光が差していた。


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