第3章-1 戻る日常、揺らぐ心
第三章 戻る日常、揺らぐ関係
図書館の高い窓から午後の光が差し込んで、書棚の間に長い影を落としている。机の上には数冊の本を開いていたが、頁はあまり進んでいなかった。
「……で」
向かい側の席から、低い声が落ちる。アルシオが顔を上げると、レックスが頬杖をついたまま、こちらを見ていた。
「アエラとは話せたのか?」
あまりに直球だった。アルシオは一瞬目を瞬き、それから小さく苦笑する。
「レックスはなんでもお見通しだね」
「当たり前だろ」
何を今さら、という顔である。アルシオは視線を落とし、開いた本の端を指でなぞった。
「うん。――リーナには、誤魔化せなかったよ」
そう言葉にすると、あの回廊でのやり取りがまた胸によみがえる。避けられるのは辛い。そう言ったアエラの目。責めているわけではないのに、まっすぐで、逃げ道を許さない声。
「全部話したのか」
「全部じゃない」
アルシオは首を横に振る。
「でも、少しは。僕が怖がっていること。曖昧なまま隣にいるのが苦しくなったこと。……ちゃんと整理できていないことも」
「で、怒られたか」
「少し」
「だろうな」
レックスは当然のように言った。そのあまりに淡々とした返しに、アルシオは苦笑する。
「でも、待つって言ってくれた」
「なら、よかったんじゃねぇの」
「うん」
よかったのかはわからない。けれど、胸の奥は晴れなかった。
「でも、いつかは答えを出さなきゃいけない」
ぽつりとこぼすと、レックスは少しだけ目を細めた。言葉を返さないのは、レックスなりの肯定なのだと分かって、アルシオは静かに息を吐いた。
「僕は、リーナのそばにいたい」
「ようやく認めたな」
レックスがニヤリと笑う。
「でも、曖昧なまま隣にいるのは、きっと優しさじゃない」
その言葉に、レックスは少しだけ黙った。もう、以前には戻れない。アエラもそう分かっている。自分も分かっている。それでも、すぐに答えを出せるわけではなかった。図書館の窓の外では、春の夕暮れが少しずつ色を深めていた。静かな光が机の上に落ち、開いたままの頁を淡く染めている。日常は戻ったように見える。けれど、心だけが、まだ競技会の日から動ききれずにいた。
*
同じ頃、女子寮の一室で、エレオノーラ・ヴァレンティスは机の前に座っていた。部屋は静かだった。淡い色の布をかけた小卓、几帳面に並べられた教本、窓辺に置かれた小さな花瓶。華やかすぎず、けれど隅々まで整えられた空間は、彼女自身の性質をそのまま映したようでもある。
その机の上に、一通の手紙が置かれていた。皇国の実家から届いたものだった。封を切った時点で、内容は何となく察していた。けれど実際に読み終えると、胸の奥には重さが残る。
――学園での生活には慣れたか。皇子殿下方とは親しくしているか。良いご縁というものは、待っているだけでは進まない。ヴァレンティス侯爵家の娘として、皇族に相応しい淑女として、もう少し自分から心を尽くしなさい。
エレオノーラは便箋の端を指先でそっとなぞり、小さく息を吐いた。家が何を望んでいるのかは、ずっと分かっている。ヴァレンティス侯爵家の長女として生まれた時から、いずれ家のために相応しい相手に嫁ぐのは当然だった。まして相手が皇族であるなら、それはこの上ない名誉とされる。
アルシオは、優しい人だった。穏やかで、品があって、誰に対しても誠実に向き合う。けれど、その心の奥には簡単には踏み込ませない線がある。
そして、その線の内側に近い場所に立っているのは、自分ではない。
アエラマリーナ・アルタイル。
あの明るく、凛として、自由な少女の隣にいる時だけ、アルシオの空気はわずかにやわらぐ。周囲が言葉にしなくても分かるほど、二人の間には特別なものがあった。
歓迎社交会の日に、それを目の当たりにした。ルナーリア殿下の生誕祭の時に、ダンスを申し込み受けいれてもらった。アエラへ向けていた視線の温度が、自分へ向けられる穏やかな優しさとは違っていた。
だから、半ば諦めていたのだ。自分が入り込む余地は、きっとない。そう思っていた。けれど、手紙はその諦めを許してはくれなかった。
「……分かっておりますわ」
誰に向けるでもなく、エレオノーラは小さく呟く。家の期待も、自分の立場も、侯爵家の長女としての務めもわかっている。ただ、それ以上に何もしないまま身を引くのは、少し違う気がした。たとえ結果が分かっていたとしても、自分から一歩も踏み出さずに終わるのは、あまりに寂しい。
ちょうど、実家から皇国の茶葉が届いていた。香りの良い、上等なものだ。
エストリアではなかなか手に入らない種類で、皇国出身者ならきっと懐かしく感じるだろう。
それを理由に、茶会へ誘うくらいなら。二人きりではなく、エクシオも一緒に。そうすれば不自然ではないし、相手も気負わずに来られるはずだ。
そこまで考えて、エレオノーラは自分の控えめさに少しだけ苦笑した。もっと積極的に振る舞うべきなのかもしれない。親には、そう言われるだろう。けれど、それが自分なのだから仕方ない。
「……自分で動かないと、始まらないもの」
そう言葉にすると、不思議と胸が少し落ち着いた。ほんの小さな一歩だ。それでも、立ち止まったままでいるよりは、ずっといい。エレオノーラは便箋を丁寧に折りたたみ、封筒へ戻した。そして窓の外へ目を向ける。夕暮れの空は、淡い紫へと変わり始めていた。




