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第2章-4 隣にいるということ

 どれほど時間が過ぎたのかはわからない。窓からは斜陽が差し込んでいる。不意に扉が控えめに叩かれた。アルシオはわずかに顔を上げる。こんな時間に誰だろうと思いながら扉へ向かい、静かに開けた。


「……エクシオ」


 そこに立っていたのは、弟だった。競技会の時のままではなく、もう着替えている。けれど表情には、どこか張りつめたものが残っていた。少し後ろにはフェリオの姿も見える。けれどフェリオは何も言わず、エクシオがここへ来るのを見届けるだけのように一礼すると、そのまま少し離れた場所へ下がった。


「……入っても、いいですか」


 いつもより慎重な声だった。アルシオは一瞬だけ弟の顔を見つめ、それから小さく頷く。


「うん」


 エクシオは部屋へ入ると、扉の前で立ち止まったまま、すぐには言葉を続けなかった。何から話すべきか迷っているのが分かる。やがてエクシオが、意を決したように顔を上げる。


「……ごめんなさい」


 まっすぐな謝罪だった。アルシオは目を瞬く。


「試合のとき、言いすぎました」


「……」


「兄様が、あんなに動揺すると思っていませんでした」


 エクシオは拳を軽く握りしめる。悔しさとも、後悔ともつかない感情を押し込めているようだった。


「ずっと、引っかかってたんです。兄様が学園でどうしてあんなふうに一歩引いてるのか。兄様はもっと前に立てる人なのにって、ずっと思ってた」


「うん」


「でも、あの場で言うことじゃなかった。兄様を揺さぶれば、本音が出るかもしれないって……そんなこと考えた自分も、いました」


 アルシオは何も言わずに聞いていた。エクシオはそこで一度息を止める。そして、少しだけ視線を伏せた。


「……ずっと深く悩んでたんですね」


 その一言が、するりとアルシオの胸に落ちた。兄として、悟られないようにしていたつもりだった。けれどたぶん、エクシオには思っている以上に見えていたのだろう。

 アルシオはゆっくりと椅子へ腰を下ろし、向かいを目で示した。


「座って」


「……はい」


 エクシオもおとなしく腰を下ろす。しばらく、部屋の中には静かな沈黙が落ちた。窓の外は夕暮れが深まりはじめていて、差し込む光も昼間よりやわらかい。


「……エクシオ」


 先に口を開いたのはアルシオだった。


「謝らなくていいよ」


 エクシオが顔を上げる。アルシオは少しだけ困ったように笑った。


「痛かったけど」


「兄様……」


「でも、間違ってないから」


 そう言うと、エクシオの紫の瞳がわずかに揺れた。


「君が僕を心配して言ってくれたことは、分かってる」


「……なら、どうして」


「図星だったからだよ」


 はっきり言い切ると、今度はエクシオの方が言葉を失った。アルシオは視線を落とし、自分の指先を見つめる。


「分かってるんだ。自分でも」


「……」


「分かってるのに、まだきちんと答えを出せなくて。曖昧なままが心地いいって、どこかで思ってた」


 その声音は静かだったが、平静ではなかった。抑えているだけで、底にはまだ整理しきれないものが沈んでいる。


「リーナと一緒にいる時間が好きだよ。でも、その先のことを考えたら……怖いんだ」


 エクシオは黙って聞いていた。


「言われなくても、本当はずっと分かってた。だから苦しかったんだ」


 部屋の中に、また短い沈黙が落ちる。やがてエクシオが、ぽつりと言った。


「あの時じゃないと、言えないと思ったんです」


 アルシオは顔を上げる。


「いつもなら、きっと兄様は上手く誤魔化してしまう。でも、あの時なら、兄様は答えざるを得ないと思った。怒られても、嫌われても仕方ないって」


「嫌わないよ」


「……はい」


 その返事に、エクシオはようやく少しだけ表情をやわらげた。けれど、まだ完全には安心していない。


「兄様」


「なに」


「僕、兄様に答えを急がせたいわけじゃないんです。ただ……兄様が、自分の気持ちから逃げたままでいるのは嫌だ」


 まっすぐな声だった。責めるでも、諭すでもなく、ただ本心を置くような言い方だった。アルシオはそれを受け止めるように、しばらく黙っていた。それから、ふっと息を吐く。


「……ありがとう」


 久しぶりに、ほんの少しだけ自然な空気が戻る。エクシオも、それに合わせるようにかすかに笑った。けれど次の瞬間、アルシオの表情はまた少しだけ曇る。


「……でも、困ったな」


「何がですか」


 アルシオは苦笑する。


「明日から、どんな顔でリーナに会えばいいのか分からない」


 その言葉に、エクシオは一瞬だけ目を丸くした。それから、少しだけ肩の力を抜く。


「アエラ先輩、怒ってましたか」


「いや、わからない。会う前に戻ってきたから」


「それは、うん。明日が怖そうですね」


「……うん」


 即答されて、アルシオは思わず小さく笑ってしまう。エクシオもつられて笑ったが、すぐに真面目な顔に戻った。


「でも、アエラ先輩なら、兄様がちゃんと向き合えば、きっと待ってくれます」


「……そうかな」


「はい。少なくとも、今日の兄様を見て、嫌いになるような人じゃないでしょう」


 その言い方に、アルシオは少しだけ目を伏せた。胸の奥が痛むのに、ほんのわずかだけ軽くなる。まだ胸の奥のもやは消えていない。アエラのことも、自分のことも、何一つ解決してはいない。

 それでも。少なくとも、弟との間にわだかまりが残らなかったことだけは、救いだった。エクシオは立ち上がり、扉の前で一度振り返る。


「兄様」


「なに」


「今日はごめんなさい。でも、言ったことを取り消すつもりはありません」


 アルシオは少しだけ目を見開いて、それから静かに笑った。


「うん。それでいいよ」


「……おやすみなさい」


「おやすみ、エクシオ」


 扉が閉まる。一人きりになった部屋で、アルシオは背もたれに体を預け、天井を見上げた。落ち着いたわけではない。答えが見えたわけでもない。けれど、逃げたままではいられないのだと、改めて思う。


 翌朝、目が覚めたとき、窓の外はすでに明るかった。昨夜よりは幾分か頭が冷えている。眠れないかもしれないと思ったわりには、いつの間にか意識を手放していたらしい。けれど、胸の奥に沈んだものがなくなったわけではなかった。支度を整え、寮の部屋を出る。廊下にはいつも通りの朝のざわめきがあった。生徒たちの話し声、足音、開け放たれた窓から入り込む春の風。学園の朝は何も変わらない。変わってしまったのは、自分の内側だけだとでも言うように。

 ――普段通りにしよう。

 そう思った。それくらいならできるはずだ、と。教室へ向かう途中、何度か深く息を吸った。余計なことは考えない。顔に出さない。昨日のことを引きずっていると悟られなければ、それでいい。そうやって何度も自分に言い聞かせる。

 けれど。


「アルシオ!」


 聞き慣れた声に顔を上げた瞬間、胸の奥がひどく鈍く軋んだ。朝の陽射しの差す廊下の先から、アエラがこちらへ歩いてくる。その後ろにはユフィとゲイルもいた。いつもの光景だった。いつもなら、それだけで少し気持ちがゆるむはずなのに、今日に限ってはうまく息ができない。

 アエラはアルシオの前まで来ると、まっすぐに顔を覗き込んだ。


「おはよう」


「……おはよう」


 できるだけ自然に返したつもりだった。けれど、アエラはすぐには次の言葉を続けなかった。ほんのわずかに眉が寄る。


「昨日、その……」


 言いかけて、アエラは言葉を選ぶように一度視線を揺らした。


「大丈夫?」


 静かな問いだった。責める響きはない。ただ、昨日の続きを確かめるような、まっすぐな声だった。アルシオは一瞬だけ目を伏せ、それからいつものように口元をやわらげる。


「大丈夫だよ」


「でも、昨日――」


「少し疲れてただけ」


 思ったよりも早くに、その言葉が出た。まるでアエラの言葉を遮るように。アエラが目を瞬く。アルシオはそのまま続けた。


「試合も立て続けだったし、気持ちの切り替えが上手くいかなかっただけ。もう平気」


 穏やかに、なるべく心配させないように、そうして整えた言葉のはずだった。これ以上踏み込ませないために。なのに、自分でも分かるほど胸の内が冷えていく。はぐらかしているだけだ。そんなことは自分が一番よく分かっていた。


「……そう」


 アエラは小さく頷いた。けれど、その瞳はアルシオの顔から逸れない。納得した顔ではなかった。後ろで様子を見ていたゲイルが、空気を読んだように軽く咳払いをする。


「まあ、昨日はあれだけ試合が続いたしな。疲れるだろ、普通に」


「そうですわね。皆さまお疲れでしたもの」


 ユフィもやわらかく言葉を添える。その気遣いがありがたくて、同時に少し苦しかった。


「うん。本当にそれだけだから」


 アルシオはそう言って、もう一度笑ってみせた。これで十分だろう、と自分に言い聞かせるように。だが、アエラだけは笑わなかった。


「……そう」


 もう一度、同じ言葉を口にする。今度のそれは、先ほどよりもずっと静かだった。アルシオはその声音に、胸の奥がひやりとするのを感じた。壁を作ったのだと、たぶん彼女はもう気づいている。自分が“何でもない”ふりをして、そこから先へ入らせないようにしていることに。


「そろそろ行こうか」


 アルシオは自分から話を切り上げるように言った。


「遅れるといけないし」


「……ええ、そうね」


 アエラは一拍遅れて頷いた。そのまま並んで歩き出す。いつもと同じ距離、いつもと同じ朝の廊下。なのに、隣を歩く空気がわずかに違っていた。

 会話がないわけではない。ゲイルが昨日のランスのニ冠を悔しがって見せ、ユフィが穏やかにそれをいなし、アエラも合間に相槌を打つ。表面だけ見れば、普段と変わらない朝だった。

 けれどアルシオには分かっていた。アエラがもう、こちらを見ている。

 ちらり、と何度か視線を感じる。言葉を飲み込んでいるのも分かる。今はあえて聞かないでいるのだと、その沈黙が教えていた。

 教室の前まで来たところで、アエラがふいに足を止めた。


「アルシオ」


 名前を呼ばれ、アルシオも足を止める。


「なに?」


「……本当に、何でもないの?」


 周囲にはほかの生徒たちもいる。大きな話をするような場所ではない。それでもアエラは、最後にもう一度だけ確認せずにはいられなかったのだろう。

 アルシオはほんの一瞬、言葉に詰まった。けれど次の瞬間には、また穏やかな顔を作っていた。


「うん。心配かけてごめん」


 それはいちばん無難な返事だった。アエラはしばらくアルシオを見つめていたが、やがて小さく息をつく。


「……分かった」


 そう言って、彼女はそれ以上何も言わなかった。席へ向かう彼女の背を見ながら、胸の奥に重いものが沈む。上手くやれたとは思えなかった。いつも通りの顔をしたつもりなのに、むしろそれが余計に壁になってしまった気さえする。

 窓の外では、春の陽射しが校庭を明るく照らしている。あまりに穏やかな朝だった。だからこそ、その穏やかさの下にできてしまったわずかな隔たりが、ひどく鮮明に感じられた。



 *



 それからの数日、アルシオは殊更普段通りを意識して過ごしていた。だが、アエラからの視線をいつも以上に感じる。アエラが何かを言おうとする度に、話題を逸らしたり、それとなく席を外す。追求されないのをいいことに、そっけなくしていた。


 廊下には夕方の光が斜めに差し込み、生徒たちの話し声があちこちで交差している。寮へ戻る者、図書室へ向かう者、部活動の準備に急ぐ者――いつもの放課後の景色のはずなのに、アルシオの胸は朝からずっと落ち着かなかった。

 背後から、はっきりとした声が追いかけてくる。


「アルシオ」


 振り返るまでもなく分かった。足を止めると、アエラがまっすぐこちらへ歩いてくる。その表情は穏やかだったが、いつものような軽やかさはなかった。


「少し、いい?」


 断れないと分かる声だった。アルシオは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく頷く。


「……うん」


 人通りの多い廊下を離れ、二人は校舎脇の回廊へ移った。石造りの柱が等間隔に並ぶその場所は、夕方になると人通りが減る。開けた庭の向こうで若葉が揺れ、風が吹き抜けるたび、かすかに葉擦れの音がした。アエラは少し先で立ち止まる。アルシオも数歩遅れて足を止めた。沈黙が落ちる。


「……何かあった?」


 やがてアエラが口を開いた。問いそのものは、ずっと前から繰り返されてきたものと同じだった。けれど、今日は、誤魔化すことは許さないと、声色が告げていた。アルシオは一拍遅れて、いつもの答えを口にしようとする。


「何も――」


「それはもう聞いたわ」


 遮られて、言葉が止まる。


「私、待ってたのよ」


 その一言に、アルシオの胸が鈍く痛んだ。アエラは少しだけ傷ついた目をしていた。


「競技会の日、アルシオはすぐ帰っちゃったし、次の日も、その次の日も、きっとあなたの中で整理したいことがあるんだろうって思ったから、待ってた」


 そこまで言って、アエラは小さく息をつく。


「でも、待ってたら、だんだん距離を取られた気がした」


 アルシオは何も言えなかった。否定したかった。そんなつもりはないと言いたかった。けれど、それがただの言い訳になることも分かっていた。


「避けてなんか――」


「嘘」


 今度はきっぱりと言い切られる。アエラは一歩、アルシオへ近づいた。


「目を見れば分かるもの。話していても、どこかで線を引いてる。前みたいに笑わないし、私が少し踏み込もうとすると、すぐに話を切る」


「それは……」


「私には言えないこと?」


 その声に、アルシオははっと顔を上げた。アエラの瞳はまっすぐだった。逃がす気もない。


「避けられるのは、正直辛いわ」


 その一言が、静かに深く胸の奥を抉る。何か言わなければならないのに、喉の奥が詰まったように上手く声が出ない。


「……ごめん」


 やっと出たのは、その言葉だった。アエラは少しだけ眉を下げる。


「謝ってほしいわけじゃないわ」


「でも傷つけた」


「それは、そうね」


 思ったよりあっさり言われて、アルシオは苦く目を伏せた。けれどアエラはすぐに続ける。


「怒ってるわけじゃないの。ただ、ちゃんと知りたかっただけ。私が何かした?そうじゃないなら、少なくとも、あなたが私を遠ざけてる理由を教えて」


「リーナは悪くない」


 それだけは、すぐに言えた。


「本当に、何も悪くない」


「じゃあ、どうして」


 真っ直ぐ問い返され、アルシオは視線を逸らした。回廊の向こう、庭の木々が夕陽を受けて揺れている。そんなものを見ても、逃げにはならないと分かっているのに。


「……上手く、言えない」


「言えない?言いたくないじゃないの?」


 痛いところを突かれて、息が詰まる。アエラはそこでさらに責め立てたりはしなかった。ただ、じっと待っている。その沈黙の方が、よほどきつい。絞り出すように言うと、アエラの表情がわずかに揺れた。


「……たぶん、両方だよ。――言葉にしたら、いよいよ向き合わないといけなくなるから」


「何に?」


 その問いに、すぐには答えられなかった。自分の立場。将来。皇国。アエラ。彼女の隣にいたいと思う気持ち。でも、その先を考えるのが怖いこと。全部が絡まっていて、どこから話せばいいのか分からない。

 黙り込んだアルシオを見て、アエラはほんの少しだけ目を細めた。


「……競技会の日のこと?」


 その言葉に、アルシオの肩がかすかに跳ねる。アエラは見逃さなかった。


「やっぱり、あの試合で何かあったのね」


「……」


「エクシオ殿下と、何を話したの?」


 問われて、アルシオは反射的に口を閉ざす。その沈黙だけで、十分だったのだろう。アエラは小さく息を吐いた。


「言いたくないなら、いいわ。あなたの隣にずっといたもの。あなたが言葉にできないのはなんとなくわかるわ」


 アエラはそこで一度言葉を切る。


「それでも、あなたが自分の中だけで全部完結させて、私には関係ないって締め出されたら……私、どうしたらいいのか分からないわ」


 アルシオは目を見開いた。そう言うアエラの声が微かに震えている気がした。今更ながら、自分のことで精一杯で、アエラがどう感じていたのかを考えてなかった。アエラを苦しめていたのだと、今さら思い知る。自分が距離を取っている間、アエラもまた、置いていかれる側の苦しさを抱えていた。


「……ごめん」


 また同じ言葉しか出なかった。するとアエラは、今度は少しだけ困ったように笑った。


「もういいわよ」


 それでも、笑いは長く続かなかった。


「私、待つことはできるの。でも、何も知らされないまま壁を作られるのは嫌だわ」


 その言葉に、アルシオの中で何かが静かに崩れた。もう誤魔化せない。少なくとも、このまま“何でもない”で押し切ることだけはできない。


「……怖いんだ」


 気づけば、そう口にしていた。アエラが息を止める気配がした。


「何が?」


 アルシオは拳を握る。うつむいたまま、声を絞り出す。


「今のままでいるのは、心地いいんだ。リーナといる時間が好きで、隣にいられるのが嬉しくて……でも、僕には許されないんだ」


 言葉にした瞬間、胸の奥が焼けるように熱くなる。


「その先を考えたら、怖くなった」


「……その先?」


「君のことも。自分のことも。将来のことも」


 そこまで言って、アルシオはようやく顔を上げた。


「僕は、考えなきゃいけない立場にいる。ずっと前から。なのに、リーナのそばにいると、それを少し忘れていられた」


 アエラは何も言わない。ただ、まっすぐ聞いている。


「エクシオに言われて、気づかされたんだ。僕が曖昧なまま、心地いいところに留まろうとしてたって」


「……」


「それで、リーナにどう接したらいいのか分からなくなった」


 最後の一言は、ひどく情けなく響いた。アエラはしばらく黙っていた。風が吹き抜け、回廊の影が揺れる。やがて彼女は、ゆっくり口を開いた。


「……そう」


 短い言葉だったけれど、その中には驚きも、納得も、少しの痛みも混じっていた。


「それなら、最初からそう言ってくれればよかったのに」


 アルシオは苦く笑う。


「言えないよ。自分でも整理できてないから」


「今もでしょう?」


「うん」


 認めると、アエラはふっと息を吐いた。


「じゃあ、仕方ないわね」


「……怒らないの?」


「怒りたい気持ちはあるわよ」


 そう言って、アエラは少しだけ唇を尖らせた。


「でも、アルシオのそんな顔見たら、そこまで怒れないわ」


 その優しさが、またアルシオの胸を刺す。


「ただし、もう勝手に距離を置くのは禁止」


「……え」


「悩んでもいいの。でも、そのたびに一人で閉じこもって、私を締め出すのは駄目」


 はっきり言い切る声音だった。


「私はあなたの答えを今すぐ聞きたいわけじゃない。でも、あなたが悩んでることくらいは共有してほしいの。隣にいるって、そういうことでしょう?」


 アルシオは言葉を失う。そんなふうに言われたら、もう頷くしかなかった。


「……うん」


 アエラはようやく少しだけ表情をやわらげた。


「よろしい」


 その言い方がいつもの彼女らしくて、アルシオの肩から少しだけ力が抜ける。けれど、まだ終わってはいない。自分の中の問題は何も解決していないし、アエラとの間にあるものも、今はまだ名前を持たないままだ。

 それでも、少なくとも、壁の向こうに閉じこもったままではいられないのだと、共有していいとようやく思えた。アエラはそんなアルシオを見つめ、少しだけ困ったように笑った。


「ほんと、面倒くさい性格よね」


「……自覚はあるよ」


「もう」


 そして彼女は、ほんのわずかに間を置いてから、やわらかく付け足した。


「でも、そういうところも含めて放っておけないのよ」


 その一言に、アルシオは息を呑む。まともに見返せなくて、思わず視線を逸らした。アエラはそれを追及せず、ただくすっと笑う。


「今日はこれで許してあげる」


「許す、って」


「数日分の埋め合わせは、また今度考えるわ」


 そう言って先に歩き出した背中を見て、アルシオはようやく小さく笑った。完全に元通りではない。けれど、少なくとも、もう一方的に遠ざけることだけはしたくなかった。その背を追うように、アルシオも一歩踏み出す。夕方の風はまだ少し冷たかったが、先ほどまでよりは息がしやすい気がした。





 寮に帰った後、アエラは窓を開けて、夕方の空を見ていた。西陽が頬を赤く染めているが、吹き抜ける風が思ったよりも冷たくて、火照った頬を冷ましていく。けれど胸の奥だけは、いつまでも妙に熱かった。さっきのアルシオとの会話が何度も頭の中で繰り返される。


 ――君といる時間が好きで。

 ――隣にいられるのが嬉しくて。

 ――でも、その先を考えたら怖くなった。


 思い出した途端、アエラはまた頬が熱くなるのを感じた。


「……もう、それって」


 口にしかけて、途中でやめる。言葉にしてしまったら、今度は自分の方が平気ではいられない気がした。頬も耳も熱を持っているのがわかる。アルシオが自分を特別に思ってくれていることはずっと感じていた。けれど彼はあまりにも慎重で、優しくて、肝心な一線だけはずっと曖昧にしたままだった。だから、今日みたいにあそこまで正面から零れた本音を聞いてしまえば、胸が高鳴らないはずがない。

 それでも、ただ喜んでしまえないのは、彼の顔を見たからだ。アルシオの立場、将来。自身のみではない、皇国のそれをも抱えている。たぶん彼はずっと分かっている。そのうえで、こちらへ伸ばしかけた手を止めてしまうのだ。


「……ほんと、真面目すぎよ」


 小さくこぼすと、苦笑が漏れた。けれど、だからこそ放っておけない。あんなふうに苦しそうな顔で、自分の気持ちを押し込めようとする人を、見なかったことになんてできない。

 夕暮れの空はやわらかな藍色に変わりはじめている。答えを急がせるつもりはない。それは本心だった。けれど、待つことと、曖昧なままでいることは違う。

 今日、アルシオはちゃんと口にした。隣にいたいだけでは済まされないところまで来ているのだと、自分でも分かっているのだと。ならばもう、自分も以前の関係がいいとは言えない。


「……困ったわ」


 アエラはそっと息を吐く。呟きは、思いのほかやわらかかった。困っているとは口にしても、どこかで安堵もしていた。拒まれたわけではない。ただ彼は、お互いの先にあるものを恐れて、立ち尽くしていただけだった。それが分かっただけでも、十分だった。アルシオが思っている以上に、自分は気が長い。けれど同時に、思っている以上に諦めも悪い。彼が逃げようとするなら、そのたびに手を伸ばすだろう。隣にいたいのは、自分も同じなのだから。

 夕風が髪を揺らし、アエラは顔を上げる。胸の奥はまだ落ち着かない。明日から、きっと前までと同じではいられない。それでもいい、と今は思えた。


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