第2章-3 弟の抉る問い
準決勝第一試合の名が呼ばれると、訓練場の空気がまたひとつ引き締まった。
レックス・フェルナー。
ランス・オルトリアン。
昨年の覇者レックスと、その座に届かなかった男ランス。互いに開始線の前へ進み出る。レックスは真剣な表情で木剣を右手に持ち、ランスは静かな闘志を隠しもせず、正面からその姿を見据えていた。
「昨年の雪辱を晴らさせてもらう」
ランスが口元にうっすら笑みを浮かべて言う。挑発めいて聞こえる言葉だったが、不思議と嫌味はなかった。ただ純粋に、今年は勝つという意思だけがそこにある。レックスも不敵に笑う。
「負けねぇよ」
短い応酬だった。だが、それだけで十分だった。観客席のざわめきが一瞬すっと細くなる。誰もが、次の瞬間を待っていた。
開始の合図と同時に、二人はほとんど同時に踏み込んだ。初手から速い。様子見などない。ランスの剣は一直線に前へ出る。鋭く、重く、最初から主導権を奪いにくる踏み込みだ。対するレックスは、それを真正面から受け止めた。鈍い音が響く。だが、受け切ったと思った次の瞬間には、もう手首を返して反撃へ移っている。乾いた打ち合いの音が、立て続けに訓練場へ響いた。
誰もが息を飲んで、目を離せない。見ていて気持ちがいいほど、白熱した勝負だった。ランスの踏み込みの深さも、刃筋の迷いのなさも、すべてが研ぎ澄まされていた。攻めの意志を隠さず、押せると見れば一気に押し切る。対してレックスも一歩も引かない。大振りに見えて無駄がなく、受け、流し、押し返しながら、相手の呼吸の乱れだけを冷静に狙っていた。
一進一退だった。どちらかが優勢に見えた次の瞬間には、もう流れがひっくり返る。
実際、見た目ほど単純ではなかった。ランスが前へ出れば出るほど、レックスはその勢いを利用して返す隙を探している。だが、今年のランスはその返しまで見越していた。踏み込みに見せかけて半歩ずらし、逆側から打ち込む。レックスが受ければすぐさま次へ繋げる。去年の敗北を、何度も何度も身体に刻み込んできたのが分かる剣だった。そして、レックスは受けに回るのをやめた。相手の踏み込みに合わせて自分から前へ出る。真正面からぶつけ合うような鋭い一撃。観客席から息を呑む気配が上がる。
「……っ」
ランスが受ける。そこへ、さらにレックスが追う。普段よりも一段荒く、けれどそのぶん剥き出しの強さを帯びた剣だった。昨年の覇者としての意地が、そのまま形になったような連撃に、場の熱が一気に高まる。
だが、ランスもまた、その瞬間を待っていたかのように目を鋭くした。次の一合。レックスの打ち込みを受け流しざま、ランスの身体が深く内側へ滑り込む。
「――もらう!」
鋭い声とともに、木剣が翻った。レックスも反応した。反射的に防ごうとする。だが、半歩遅い。踏み込みの角度も、体の捌きも、その一瞬だけランスが上回っていた。
乾いた、はっきりした音が響く。
静寂のあと、ようやくわっと大きなどよめきが広がった。
「そこまで!」
教師の声が響く。
勝者、ランス・オルトリアン。
ランスは荒くなった息を整えながら、木剣を下ろす。その顔には強い達成感があったが、浮かれた様子はない。ただまっすぐ、目の前の相手を見る。
「……これで一勝一敗だな」
レックスは数拍遅れて、ふっと息を吐いた。悔しさはある。けれど、負けを誤魔化すつもりもない顔だった。
「……ちっ。今のは、やられた」
その潔い言葉に、ランスの口元がわずかに緩む。
「昨年の借りは返した」
二人は木剣を収め、それぞれに礼を交わす。互いに相手の強さを知っている者同士だからこそ、そこに余計な言葉はいらなかった。
観客席では、まだ熱を帯びたざわめきが続いていた。見応えのある試合だった。誰もがそう思ったはずだ。
ざわめきが残る中、レックスは乱れた呼吸を整えながら観戦席の脇へ下がった。額には汗が滲んでいる。負けた悔しさがないはずはないのに、その顔には必要以上の苛立ちも取り繕いもなかった。
「レックス。お疲れ様」
声をかけると、レックスは横目でアルシオを見た。
「……アルシオ」
「すごい試合だったよ」
「負けたけどな」
ぶっきらぼうな返事だったが、そこに妙な棘はない。事実をそのまま口にしただけ、という調子だった。
アルシオは少しだけ苦笑する。
「うん」
「あいつ、かなり仕上げてきてた」
レックスは短く息を吐いて、訓練場の中央にいるランスへ一瞬だけ目を向けた。
「去年の借り、きっちり返された」
その声音は悔しさを含みながらも、不思議と清々しかった。負けを認めたうえで、それでも次があると分かっている者の声だった。
「……でも、レックスならまたやり返すでしょ」
アルシオがそう言うと、レックスは鼻で笑う。
「当然だ」
即答だった。その潔さに、アルシオの口元もわずかにゆるむ。だが次の瞬間、レックスは笑みを消してアルシオを見た。
「お前はどうなんだ?」
思わずアルシオは目を瞬く。レックスはいつもの仏頂面のまま続けた。
「相手はエクシオだぞ?変に考えるな。遠慮なんかすんなよ」
「……うん。できる相手じゃないよ」
その言葉に、アルシオは一瞬だけ視線を落とした。弟の力も技術も小さい頃から知ってる。同じ相手に鍛えられてきたからこそ、手加減などできる相手ではなかった。
「わかってたらいい」
その声にアルシオは静かに頷いた。
「勝てよ、アルシオ」
短い一言だった。アルシオはその言葉を受け止めるように、ゆっくり頷いた。
「うん」
ざわめきが、再び一段大きくなる。アルシオは静かに息を吸い、訓練場の中央へ向かって歩き出した。
*
準決勝第二試合の名が呼ばれた瞬間、訓練場の空気がまたひとつ変わった。
アルシオ・セレスティア。
エクシオ・セレスティア。
読み上げられたその名前に、観戦席のざわめきが大きく揺れる。兄弟対決。それだけでも人目を引くのに、二人がセレスティア皇国の皇子であることを思えば、注がれる視線が熱を帯びるのは当然だった。
先に歩み出たのはアルシオだった。いつも通り静かな表情のまま、訓練場の中央へ向かう。その背には余計な力みが見えない。けれど、それがかえって周囲の緊張を煽った。
反対側から現れたエクシオは、明るい顔立ちの中にきちんと張りつめたものを宿していた。紫の瞳が、まっすぐ兄を見据えている。年若さゆえの勢いだけではない。今日この場に来るまで、ずっとこの一戦を意識してきたのだと分かる目だった。
二人が開始線を挟んで向かい合う。どこか似ていて、けれどまるで違う。黒髪に赤茶の瞳を持つ兄と、金髪に紫の瞳を持つ弟。その対照的な色彩の奥に、剣を学んできた時間の重なりが、静かに息づいていた。
エクシオが、ふっと口元を緩めた。
「兄様。公に試合するのは初めてですね」
その声音は軽やかだったが、目だけは笑っていなかった。アルシオもまた、静かに頷く。
「そうだね。手加減はできないからね」
「必要ありません」
即答だった。エクシオの声は思いのほかよく響いた。
「兄様が学園に入学してからも、ずっと父様たちに鍛えてもらいましたから」
父様たち――ルークやジークハルトの顔が脳裏をよぎる。幼い頃から重ねてきた鍛錬の時間。剣を交えてきた日々。その積み重ねごと、今ここにあるような一言だった。
「僕も、鍛錬は続けてたよ」
それだけ告げると、二人は構えを取る。周囲のざわめきが、すっと遠のいた。
開始の合図が響いた直後、先に動いたのはエクシオだった。迷いのない踏み込み。空気を裂くように木剣が振り下ろされる。アルシオは正面からそれを受けた。乾いた音が高く響く。
だが、エクシオの攻めはそれで終わらない。一撃を受けられた直後には、もう二手目、三手目へと繋げている。鋭く、真っ直ぐで、相手に考える間を与えない剣だった。
観戦席から息を呑む気配が上がる。勢いならエクシオの方が上に見えた。だが、アルシオは一歩も崩れない。受け、流し、わずかに角度を変え、必要な時だけ最小限の動きで間合いを取り直す。派手さはない。けれど、だからこそ乱れがない。
数合交えたところで、エクシオが小さく息を吐いた。
「やっぱり兄様は強いな。何手先も読まれてる」
アルシオの木剣が、エクシオの打ち込みを受け流しながらわずかに返る。
「エクシオも相当腕を上げたね」
実際、その通りだった。
剣筋は似ている。同じ相手に教わり、同じ型を身につけてきたのだから当然だ。踏み込みの癖も、構えの重心も、どこか重なるものがある。
だからこそ、観戦する生徒たちの目には、二人の攻防が一層めまぐるしく映った。どちらも無駄がなく、打ち込みも速い。見慣れぬ者には、どちらが押しているのかすら分かりにくいかもしれない。
それでも、わずかな差があるとすれば、アルシオの方がいなすのが上手かった。真正面からぶつかるのではなく、受け流し、ずらし、相手の勢いを殺さぬまま自分の間合いへ引き込んでいく。その静かな技術が、少しずつ試合の呼吸を支配していた。
エクシオは剣を交えながら、胸の内で思う。
――やっぱり、剣を握れば兄様は強い。
普段の静かな雰囲気は鳴りを潜める。柔らかく穏やかで、どこか一歩引いて見える兄が、剣を持てばこんなにも迷いなく前に出る。
なのに。
次の打ち込みを受け流されざま、エクシオは口を開いた。
「学園で、一歩引いてるのは、アエラ先輩のため?」
アルシオの動きが、ほんのわずかに止まった。
「……え?」
問いが、剣の応酬のただ中に落ちる。観客には意味までは届かない。だが、少なくとも二人の間では、はっきりと空気が変わった。エクシオは踏み込みを緩めないまま続ける。
「ずっと、引っかかってたんだ」
一撃。二撃。木剣が打ち合わされる。
「兄様はずっと前に立てる人なのに、常に後ろに立ってる。それでいいの?」
アルシオの眉がわずかに寄る。受けは崩れていない。だが、呼吸の奥にかすかな乱れが生まれる。
「どういう意味?」
「アエラ先輩の隣にいる時の兄様、いつも支える方に回ってる」
エクシオは鋭く踏み込む。アルシオがそれを受ける。乾いた音が響いた。
「でも兄様は、本当は前に立てる人だよね」
また一歩、間合いが詰まる。
「将来、皇国を背負うのは兄様でしょう」
じわじわと、その言葉が刺さってくる。アルシオは冷静を保とうとした。剣だけに意識を向けろ、と自分に言い聞かせる。だが、胸の奥で波立ったものは簡単には鎮まらない。
「それなのに、あの人の後ろで満足してるように見える」
冷や汗がひと筋、頬を伝った。アルシオは鋭く打ち返す。エクシオが受ける。剣はまだ整っている。けれど、その内側ではもう、静かではいられなかった。
アエラの後ろで、満足しているわけではない。そんな簡単な話ではない。自分の立場も、この先にあるものも、分かっている。それでも。
「アエラ先輩と、この先どうなりたいんですか」
エクシオの問いが、決定的に踏み込んでくる。
「……申し訳ないけど、あの人は皇妃に収まる人じゃないと思う」
その瞬間、アルシオの中で何かが激しく揺れた。
「わかったふうに言わないで」
低く、抑えた声だった。だが、その奥に滲んだ感情は隠しきれていなかった。
そんなの、自分が一番わかってる。わかっているけど、まだ決めたくないんだ。彼女のそばは心地いい。今の距離が壊れることを考えたくない。答えを出せば、何かを失う気がしてしまう。
エクシオは兄の揺れを真正面から受け止めるように言う。
「兄様だって、わかってるんでしょ?」
アルシオは答えない。答えられない。
――うるさい。
胸の奥で、そんな声だけが響く。次の一太刀は、気づけばいつもより強引になっていた。胸の内で暴れ出した感情を押し込めるような、鋭く重い一撃だった。
「……っ」
エクシオはそれを受け止める。腕に重さが食い込み、足元が軋んだ。兄の剣が変わった、とすぐに分かった。感情の揺れをそのまま乗せたような、荒さを帯びた一撃だった。けれど同時に、エクシオの胸にも小さな痛みが走る。
――兄様を動揺させている。そこまで言わなければ届かないと思った。兄が自分で目を逸らしているものに、誰かが触れなければならないとも思った。兄弟だからこそ言える。近すぎる自分だからこそ、抉れる。
ほんの一瞬、ためらいがよぎる。アルシオの木剣がさらに深く踏み込んでくる。エクシオは受け切るつもりでいた。だが、迷いが腕を鈍らせた。重心がわずかに遅れる。押し返しきれない。強い衝撃が走った。次の瞬間、エクシオの膝が地に着く。しまった、と思った時にはもう遅い。
「――そこまで!」
教師の声が、訓練場に鋭く響いた。
一拍遅れて、場がどっと沸く。歓声、どよめき、息を呑んでいた観客たちのざわめきが、一気に押し寄せてくる。だがその熱気の中で、二人のあいだに流れる空気だけが、ひどく近く、ひどく静かだった。
エクシオは膝をついたまま顔を上げた。目の前に立つアルシオは、木剣を握ったまま微動だにしない。勝ったはずなのに、その表情には晴れやかさがなかった。呼吸はわずかに乱れ、目にはまだ揺れが残っている。エクシオは小さく息を吐く。負けた。技量の上でも、最後の迷いの上でも、自分は届かなかった。
「……参りました」
静かにそう告げると、アルシオの肩がわずかに揺れた。少し遅れて、アルシオが手を差し出す。エクシオはその手を見てから、兄の顔を見る。まだ、動揺を隠せていない。
エクシオはその手を取り、立ち上がった。
「……強いですね、兄様」
その言葉に、アルシオはすぐには答えなかった。少しだけ間を置いて、ようやく低く返す。
「エクシオも、強かったよ」
観客席ではまだざわめきが残っている。兄弟対決にふさわしい、見応えのある試合だったと、誰もが口にしたくなるような勝負だった。けれどアルシオにとっては、それだけでは終わらなかった。胸の奥に突き立ったままの問いが、勝ったあとも抜けない。
アエラ先輩と、この先どうなりたいのか。
あの人の隣で、自分はどう在りたいのか。
答えは出ない。それでも試合は終わり、次が来る。
少し離れた場所では、決勝戦を待つランスが、静かな目でこちらを見ていた。
*
観客席から見下ろす訓練場の中央で、アルシオとエクシオが向かい合っていた。
兄弟対決というだけでも十分に目を引くのに、実際に始まってみれば、その勝負は予想以上に見応えがあった。同じように鍛えられてきたのだと分かる剣筋。踏み込みの間合いも、受け流しの癖も、どこか通うものがある。けれどその上で、兄は静かに相手をいなし、弟は真っ直ぐ食らいついていく。その対比が鮮やかで、アエラは思わず身を乗り出していた。
「すごい……」
思わず漏れた声に、隣のユフィも小さく頷く。
「本当に。見ているだけで息が詰まりそうですわ」
試合の序盤、二人の間にはどこか張りつめすぎない空気があった。口元がわずかに動くたび、きっと何か言葉を交わしているのだろうと分かる。実際、エクシオはどこか楽しそうですらあったし、アルシオもまだいつもの落ち着きを崩していなかった。
「やっぱり、兄弟って感じね」
アエラはそう呟きながら、目を細める。何を話しているのかまでは聞こえない。けれど、ただ勝負をしているだけではない、二人だけのやり取りがそこにある気がした。
「……あれ?」
アルシオの顔つきが、わずかに変わった。いつものアルシオは、たとえ押されていても表情を崩さない。剣を交えている時ほどむしろ静かで、冷静で、相手をよく見ている。
なのに今は違う。余裕が、消えていた。受け流しはまだ正確だ。構えも崩れていない。けれど、顔のどこかが強ばっている。呼吸の取り方がわずかに乱れ、目の奥に見えた静けさが薄れていた。
「どうしたのかしら……」
アエラは小さく呟く。声は届かない。何を話しているのかも分からない。けれど、エクシオが何かを言うたびに、アルシオの中で目に見えない何かが揺れているようだった。
隣でユフィが不思議そうに首を傾げる。
「アエラ?」
「……ううん。なんでもない」
そう答えながらも、視線は訓練場から離せなかった。アルシオが、感情を乱している。らしくない剣筋でエクシオに対している。
そして次の一手で、アルシオの剣が変わった。
「……っ」
思わずアエラは息を呑む。今までのような静かな剣ではなかった。鋭いのに、どこか強引で、押し込むような一撃で、胸の内に生まれたものを振り払うような太刀筋だった。
「アルシオ……?」
気づけば、無意識にその名を呼んでいた。その直後だった。エクシオがその一撃を受けきれず、膝をつく。
勝負ありの声が上がり、観客席が大きく沸く。けれどアエラは、すぐにはその熱に乗れなかった。勝ったのはアルシオだ。決勝進出も決まった。普通なら喜ぶ場面のはずなのに、訓練場の中央に立つ彼の横顔は、どうしても晴れやかには見えなかった。
エアエラは胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。ざわめく観客席の中で、アエラだけが取り残されたように、じっと訓練場を見つめていた。
(――何があったのよ。アルシオ)
胸の内にはなぜか、簡単には聞いてはいけないような予感も残っていた。
* *
訓練場に残るざわめきは、まだ完全には収まっていなかった。
兄弟対決という大きな見どころを終えたばかりだというのに、観客たちの熱は少しも冷めていない。むしろ次に控える決勝戦を前に、期待と興奮がさらに膨らんでいくようだった。
アルシオは木剣を握ったまま、静かに呼吸を整えようとした。だが、胸の内は少しも静まらない。エクシオの言葉が、まだ耳の奥に残っていた。
「決勝戦、模擬剣部門――アルシオ・セレスティア、ランス・オルトリアン!」
教師の声が、訓練場へ響く。
アルシオはゆっくりと顔を上げた。その正面から、ランスが歩み出てくる。開始線の前で向かい合う。ランスは木剣を前に構えて、アルシオの顔を見た。そして、ふっと不敵に口元を歪める。
「何があったかは知りませんが」
低く落ち着いた声だった。
「冷静な顔じゃありませんね。だからといって、容赦はしませんよ」
その言葉に、アルシオは一瞬だけ目を細める。挑発というより、確認だった。今のお前は揺れている――そう見抜いたうえで、それでも正面から叩き潰すと言っている。
けれど、不思議と不快ではなかった。ランスはそういう男だ。相手が揺らいでいようと、弱っていようと、勝負の場でそこを曖昧にはしない。アルシオは小さく息を吸った。
「……分かってる」
深く息を吐く。乱れた心を押し込めるように、一度だけ目を閉じた。だが、胸の奥に引っかかったものは、そう簡単に消えてはくれない。それでも、今は剣を握るしかなかった。
「始め!」
合図と同時に、ランスが先に動いた。無駄のない踏み込みだった。まっすぐに迫ってくるその一撃を、アルシオは反射的に受ける。乾いた音が高く響いた。重さと鋭さが、寸分の狂いなく噛み合っている。受けた瞬間、腕へ伝わる圧にアルシオはわずかに眉を寄せた。
間髪入れず、二撃目。三撃目。
ランスは最初から主導権を奪いにきていた。迷いがない。相手が揺れていると分かったうえで、その隙を見逃さず畳みかけてくる。
アルシオは受けながら、隙を探した。流れを変える一手を。自分の間合いへ引き戻す一瞬を。だが、その判断がわずかに遅れる。
「遅い!」
鋭い声とともに、横から打ち込まれる。アルシオは咄嗟に木剣を返して受けたが、態勢が流れた。その隙へさらに踏み込まれる。
観客席からどよめきが上がる。アルシオは一度距離を切ろうとした。だが、ランスはそれを許さない。踏み込みの深さが違う。逃がさず、休ませず、考える暇を与えない。
まるで、乱れた呼吸ごと見抜かれているようだった。観客席でアエラは思わず身を乗り出した。
「……アルシオ……」
兄弟対決のときから、様子がおかしかった。今のアルシオは明らかに普段の静けさを失っている。打ち返す剣に、微かな焦りが混じっている。アルシオは踏み込んだ。受けに回れば押し切られる。そう判断したのだろう。珍しく強く前へ出る。鋭い一撃だった。だがそれは、彼本来の静かな組み立ての剣ではない。
ランスの目が細くなる。――やはり。その剣筋には、乱れがあった。迷いと焦燥が、微かに滲んでいる。人間臭い、とランスは思った。いつも静かで、整っていて、どこか隙の見えないアルシオが、こんなふうに揺れることもあるのだと知ると、不思議と嫌いではなかった。だが、だからといって手を緩める理由にはならない。
「甘い!」
ランスの木剣が、正面からぶつかる。アルシオの一撃を受け、その勢いごと押し返す。体勢がぶれた、その一瞬だった。ランスは深く踏み込んだ。逃がさない、と言わんばかりの一閃が、アルシオの防ぎを弾く。
「っ……!」
態勢が崩れる。立て直すより早く、追撃が来る。乾いた音が、訓練場の中央に大きく響いた。
「そこまで!」
教師の声が高く響く。一瞬の静寂のあと、わっと大きなどよめきが広がった。
勝者、ランス・オルトリアン!
アルシオはその場に立ったまま、浅く息を吐いた。負けた。それも、言い逃れのできないほどはっきりと。木剣を握る手に、じわりと汗が滲んでいる。胸の内に残るのは悔しさだけではなかった。まともに切り替えられなかった自分への苛立ちと、情けなさと、どうしようもない自己嫌悪だった。
ランスは息を整えながら、アルシオを見る。その目には勝者の昂揚はあっても、侮りはなかった。
「いい勝負だった、とは言いません」
不敵な笑みを浮かべたまま、ランスは言う。
「今のあなたは、いつものあなたじゃなかった」
アルシオは何も返せなかった。その通りだったからだ。ランスは木剣を下ろし、ほんのわずかに口元を緩める。
「ですが、そういうあなたも嫌いじゃありませんよ。少し安心しました」
「……安心?」
「ええ。あなたも、ちゃんと揺れるんだなと」
その言葉に、アルシオはようやく目を上げた。ランスは肩をすくめる。
「いつも完成されすぎていると、戦う側としては面白くありませんから」
冗談めかした言い方だったが、その奥には確かな本音があった。アルシオは一瞬だけ目を瞬き、それからかすかに苦笑した。
「……負けた相手に言うことじゃないね」
「勝ったから言えるんですよ」
「そうだね」
短く言って、アルシオは木剣を収める。互いに一礼を交わす。観客席からはなおも熱い拍手が降り注いでいた。ランスの二冠に沸く声も混じっている。
視線を上げた先で、アエラが観客席から駆け出そうとしているのが見えた。その姿を認めた途端、胸の奥がまた鈍く軋む。
今は、だめだ。こんな顔で、彼女に会いたくない。心配させると分かっているのに、まともに言葉を返せる気がしなかった。アルシオはわずかに目を伏せ、そのまま踵を返す。背後でざわめきが続いている。訓練場の脇へ下がったところで、声をかけてきたのはレックスだった。模擬剣のあと、そのまま弓術でも優勝を決めたばかりだというのに、そんなことはまるで気にも留めていない顔をしている。
「……アルシオ」
「レックス」
「戻るのか」
「うん。少し、一人になりたい」
短く答えると、レックスは一瞬だけ眉をひそめた。何か言いたげではあったが、結局それ以上は詮索しない。ただ、アルシオの顔を見て、今は何を言っても届かないと悟ったのだろう。
「寮まで戻れるな」
「子どもじゃないよ」
「似たようなもんだろ。今のお前は」
ぶっきらぼうな言い方だった。けれど、それがレックスなりの気遣いだと分かるから、アルシオはかすかに口元をゆるめる。
「大丈夫。真っ直ぐ部屋に戻るよ」
レックスはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……本当はついてってやりたいが、そうもいかねぇ」
その視線の先では、教師と運営の生徒が何やら慌ただしく動いている。弓術優勝者としての表彰も、このあとまだ控えているのだろう。本人にその気がなくても、今のレックスには抜けられない役目がある。
「分かってるよ」
「部屋に戻ったら、今日は余計なこと考えんな。無理でも、せめて休め」
「難しいね」
「知るか」
いつも通りの返しに、ほんの少しだけ気持ちが緩む。それでも胸の重さまでは消えなかった。レックスはアルシオの肩を軽く叩いた。
「あとで行く」
「うん。……ありがとう」
レックスはそれには答えず、ただ「さっさと行け」と顎をしゃくる。アルシオは小さく頷いて、その場を離れた。
競技場の熱気を背に、校舎の脇道を抜けて寮へ向かう。春の夕方はまだ明るいはずなのに、今日ばかりは景色がどこか色を失って見えた。途中、遠くから自分を呼ぶような声が聞こえた気もしたが、振り返ることはできなかった。
寮の入口が見えたところで、アルシオはようやく深く息を吐いた。ここまで来れば、ひとまず誰の視線も届かない。部屋へ戻ろう。そう思うだけで精一杯だった。




