表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
40/57

第2章-3 弟の抉る問い

 

 準決勝第一試合の名が呼ばれると、訓練場の空気がまたひとつ引き締まった。


 レックス・フェルナー。

 ランス・オルトリアン。


 昨年の覇者レックスと、その座に届かなかった男ランス。互いに開始線の前へ進み出る。レックスは真剣な表情で木剣を右手に持ち、ランスは静かな闘志を隠しもせず、正面からその姿を見据えていた。


「昨年の雪辱を晴らさせてもらう」


 ランスが口元にうっすら笑みを浮かべて言う。挑発めいて聞こえる言葉だったが、不思議と嫌味はなかった。ただ純粋に、今年は勝つという意思だけがそこにある。レックスも不敵に笑う。


「負けねぇよ」


 短い応酬だった。だが、それだけで十分だった。観客席のざわめきが一瞬すっと細くなる。誰もが、次の瞬間を待っていた。

 開始の合図と同時に、二人はほとんど同時に踏み込んだ。初手から速い。様子見などない。ランスの剣は一直線に前へ出る。鋭く、重く、最初から主導権を奪いにくる踏み込みだ。対するレックスは、それを真正面から受け止めた。鈍い音が響く。だが、受け切ったと思った次の瞬間には、もう手首を返して反撃へ移っている。乾いた打ち合いの音が、立て続けに訓練場へ響いた。



 誰もが息を飲んで、目を離せない。見ていて気持ちがいいほど、白熱した勝負だった。ランスの踏み込みの深さも、刃筋の迷いのなさも、すべてが研ぎ澄まされていた。攻めの意志を隠さず、押せると見れば一気に押し切る。対してレックスも一歩も引かない。大振りに見えて無駄がなく、受け、流し、押し返しながら、相手の呼吸の乱れだけを冷静に狙っていた。

 一進一退だった。どちらかが優勢に見えた次の瞬間には、もう流れがひっくり返る。

 実際、見た目ほど単純ではなかった。ランスが前へ出れば出るほど、レックスはその勢いを利用して返す隙を探している。だが、今年のランスはその返しまで見越していた。踏み込みに見せかけて半歩ずらし、逆側から打ち込む。レックスが受ければすぐさま次へ繋げる。去年の敗北を、何度も何度も身体に刻み込んできたのが分かる剣だった。そして、レックスは受けに回るのをやめた。相手の踏み込みに合わせて自分から前へ出る。真正面からぶつけ合うような鋭い一撃。観客席から息を呑む気配が上がる。


「……っ」


 ランスが受ける。そこへ、さらにレックスが追う。普段よりも一段荒く、けれどそのぶん剥き出しの強さを帯びた剣だった。昨年の覇者としての意地が、そのまま形になったような連撃に、場の熱が一気に高まる。

 だが、ランスもまた、その瞬間を待っていたかのように目を鋭くした。次の一合。レックスの打ち込みを受け流しざま、ランスの身体が深く内側へ滑り込む。


「――もらう!」


 鋭い声とともに、木剣が翻った。レックスも反応した。反射的に防ごうとする。だが、半歩遅い。踏み込みの角度も、体の捌きも、その一瞬だけランスが上回っていた。

 乾いた、はっきりした音が響く。

 静寂のあと、ようやくわっと大きなどよめきが広がった。


「そこまで!」


 教師の声が響く。

 勝者、ランス・オルトリアン。


 ランスは荒くなった息を整えながら、木剣を下ろす。その顔には強い達成感があったが、浮かれた様子はない。ただまっすぐ、目の前の相手を見る。


「……これで一勝一敗だな」


 レックスは数拍遅れて、ふっと息を吐いた。悔しさはある。けれど、負けを誤魔化すつもりもない顔だった。


「……ちっ。今のは、やられた」


 その潔い言葉に、ランスの口元がわずかに緩む。


「昨年の借りは返した」


 二人は木剣を収め、それぞれに礼を交わす。互いに相手の強さを知っている者同士だからこそ、そこに余計な言葉はいらなかった。

 観客席では、まだ熱を帯びたざわめきが続いていた。見応えのある試合だった。誰もがそう思ったはずだ。

 ざわめきが残る中、レックスは乱れた呼吸を整えながら観戦席の脇へ下がった。額には汗が滲んでいる。負けた悔しさがないはずはないのに、その顔には必要以上の苛立ちも取り繕いもなかった。


「レックス。お疲れ様」


 声をかけると、レックスは横目でアルシオを見た。


「……アルシオ」


「すごい試合だったよ」


「負けたけどな」


 ぶっきらぼうな返事だったが、そこに妙な棘はない。事実をそのまま口にしただけ、という調子だった。

 アルシオは少しだけ苦笑する。


「うん」


「あいつ、かなり仕上げてきてた」


 レックスは短く息を吐いて、訓練場の中央にいるランスへ一瞬だけ目を向けた。


「去年の借り、きっちり返された」


 その声音は悔しさを含みながらも、不思議と清々しかった。負けを認めたうえで、それでも次があると分かっている者の声だった。


「……でも、レックスならまたやり返すでしょ」


 アルシオがそう言うと、レックスは鼻で笑う。


「当然だ」


 即答だった。その潔さに、アルシオの口元もわずかにゆるむ。だが次の瞬間、レックスは笑みを消してアルシオを見た。


「お前はどうなんだ?」


 思わずアルシオは目を瞬く。レックスはいつもの仏頂面のまま続けた。


「相手はエクシオだぞ?変に考えるな。遠慮なんかすんなよ」


「……うん。できる相手じゃないよ」


 その言葉に、アルシオは一瞬だけ視線を落とした。弟の力も技術も小さい頃から知ってる。同じ相手に鍛えられてきたからこそ、手加減などできる相手ではなかった。


「わかってたらいい」


 その声にアルシオは静かに頷いた。


「勝てよ、アルシオ」


 短い一言だった。アルシオはその言葉を受け止めるように、ゆっくり頷いた。


「うん」


 ざわめきが、再び一段大きくなる。アルシオは静かに息を吸い、訓練場の中央へ向かって歩き出した。




 *


 準決勝第二試合の名が呼ばれた瞬間、訓練場の空気がまたひとつ変わった。


 アルシオ・セレスティア。

 エクシオ・セレスティア。


 読み上げられたその名前に、観戦席のざわめきが大きく揺れる。兄弟対決。それだけでも人目を引くのに、二人がセレスティア皇国の皇子であることを思えば、注がれる視線が熱を帯びるのは当然だった。


 先に歩み出たのはアルシオだった。いつも通り静かな表情のまま、訓練場の中央へ向かう。その背には余計な力みが見えない。けれど、それがかえって周囲の緊張を煽った。

 反対側から現れたエクシオは、明るい顔立ちの中にきちんと張りつめたものを宿していた。紫の瞳が、まっすぐ兄を見据えている。年若さゆえの勢いだけではない。今日この場に来るまで、ずっとこの一戦を意識してきたのだと分かる目だった。

 二人が開始線を挟んで向かい合う。どこか似ていて、けれどまるで違う。黒髪に赤茶の瞳を持つ兄と、金髪に紫の瞳を持つ弟。その対照的な色彩の奥に、剣を学んできた時間の重なりが、静かに息づいていた。

 エクシオが、ふっと口元を緩めた。


「兄様。公に試合するのは初めてですね」


 その声音は軽やかだったが、目だけは笑っていなかった。アルシオもまた、静かに頷く。


「そうだね。手加減はできないからね」


「必要ありません」


 即答だった。エクシオの声は思いのほかよく響いた。


「兄様が学園に入学してからも、ずっと父様たちに鍛えてもらいましたから」


 父様たち――ルークやジークハルトの顔が脳裏をよぎる。幼い頃から重ねてきた鍛錬の時間。剣を交えてきた日々。その積み重ねごと、今ここにあるような一言だった。


「僕も、鍛錬は続けてたよ」


 それだけ告げると、二人は構えを取る。周囲のざわめきが、すっと遠のいた。

 開始の合図が響いた直後、先に動いたのはエクシオだった。迷いのない踏み込み。空気を裂くように木剣が振り下ろされる。アルシオは正面からそれを受けた。乾いた音が高く響く。

 だが、エクシオの攻めはそれで終わらない。一撃を受けられた直後には、もう二手目、三手目へと繋げている。鋭く、真っ直ぐで、相手に考える間を与えない剣だった。


 観戦席から息を呑む気配が上がる。勢いならエクシオの方が上に見えた。だが、アルシオは一歩も崩れない。受け、流し、わずかに角度を変え、必要な時だけ最小限の動きで間合いを取り直す。派手さはない。けれど、だからこそ乱れがない。


 数合交えたところで、エクシオが小さく息を吐いた。


「やっぱり兄様は強いな。何手先も読まれてる」


 アルシオの木剣が、エクシオの打ち込みを受け流しながらわずかに返る。


「エクシオも相当腕を上げたね」


 実際、その通りだった。

 剣筋は似ている。同じ相手に教わり、同じ型を身につけてきたのだから当然だ。踏み込みの癖も、構えの重心も、どこか重なるものがある。

 だからこそ、観戦する生徒たちの目には、二人の攻防が一層めまぐるしく映った。どちらも無駄がなく、打ち込みも速い。見慣れぬ者には、どちらが押しているのかすら分かりにくいかもしれない。

 それでも、わずかな差があるとすれば、アルシオの方がいなすのが上手かった。真正面からぶつかるのではなく、受け流し、ずらし、相手の勢いを殺さぬまま自分の間合いへ引き込んでいく。その静かな技術が、少しずつ試合の呼吸を支配していた。


 エクシオは剣を交えながら、胸の内で思う。


 ――やっぱり、剣を握れば兄様は強い。

 普段の静かな雰囲気は鳴りを潜める。柔らかく穏やかで、どこか一歩引いて見える兄が、剣を持てばこんなにも迷いなく前に出る。


 なのに。


 次の打ち込みを受け流されざま、エクシオは口を開いた。


「学園で、一歩引いてるのは、アエラ先輩のため?」


 アルシオの動きが、ほんのわずかに止まった。


「……え?」


 問いが、剣の応酬のただ中に落ちる。観客には意味までは届かない。だが、少なくとも二人の間では、はっきりと空気が変わった。エクシオは踏み込みを緩めないまま続ける。


「ずっと、引っかかってたんだ」


 一撃。二撃。木剣が打ち合わされる。


「兄様はずっと前に立てる人なのに、常に後ろに立ってる。それでいいの?」


 アルシオの眉がわずかに寄る。受けは崩れていない。だが、呼吸の奥にかすかな乱れが生まれる。


「どういう意味?」


「アエラ先輩の隣にいる時の兄様、いつも支える方に回ってる」


 エクシオは鋭く踏み込む。アルシオがそれを受ける。乾いた音が響いた。


「でも兄様は、本当は前に立てる人だよね」


 また一歩、間合いが詰まる。


「将来、皇国を背負うのは兄様でしょう」


 じわじわと、その言葉が刺さってくる。アルシオは冷静を保とうとした。剣だけに意識を向けろ、と自分に言い聞かせる。だが、胸の奥で波立ったものは簡単には鎮まらない。


「それなのに、あの人の後ろで満足してるように見える」


 冷や汗がひと筋、頬を伝った。アルシオは鋭く打ち返す。エクシオが受ける。剣はまだ整っている。けれど、その内側ではもう、静かではいられなかった。


 アエラの後ろで、満足しているわけではない。そんな簡単な話ではない。自分の立場も、この先にあるものも、分かっている。それでも。


「アエラ先輩と、この先どうなりたいんですか」


 エクシオの問いが、決定的に踏み込んでくる。


「……申し訳ないけど、あの人は皇妃に収まる人じゃないと思う」


 その瞬間、アルシオの中で何かが激しく揺れた。


「わかったふうに言わないで」


 低く、抑えた声だった。だが、その奥に滲んだ感情は隠しきれていなかった。

 そんなの、自分が一番わかってる。わかっているけど、まだ決めたくないんだ。彼女のそばは心地いい。今の距離が壊れることを考えたくない。答えを出せば、何かを失う気がしてしまう。

 エクシオは兄の揺れを真正面から受け止めるように言う。


「兄様だって、わかってるんでしょ?」


 アルシオは答えない。答えられない。


 ――うるさい。


 胸の奥で、そんな声だけが響く。次の一太刀は、気づけばいつもより強引になっていた。胸の内で暴れ出した感情を押し込めるような、鋭く重い一撃だった。


「……っ」


 エクシオはそれを受け止める。腕に重さが食い込み、足元が軋んだ。兄の剣が変わった、とすぐに分かった。感情の揺れをそのまま乗せたような、荒さを帯びた一撃だった。けれど同時に、エクシオの胸にも小さな痛みが走る。

 ――兄様を動揺させている。そこまで言わなければ届かないと思った。兄が自分で目を逸らしているものに、誰かが触れなければならないとも思った。兄弟だからこそ言える。近すぎる自分だからこそ、抉れる。


 ほんの一瞬、ためらいがよぎる。アルシオの木剣がさらに深く踏み込んでくる。エクシオは受け切るつもりでいた。だが、迷いが腕を鈍らせた。重心がわずかに遅れる。押し返しきれない。強い衝撃が走った。次の瞬間、エクシオの膝が地に着く。しまった、と思った時にはもう遅い。


「――そこまで!」


 教師の声が、訓練場に鋭く響いた。


 一拍遅れて、場がどっと沸く。歓声、どよめき、息を呑んでいた観客たちのざわめきが、一気に押し寄せてくる。だがその熱気の中で、二人のあいだに流れる空気だけが、ひどく近く、ひどく静かだった。


 エクシオは膝をついたまま顔を上げた。目の前に立つアルシオは、木剣を握ったまま微動だにしない。勝ったはずなのに、その表情には晴れやかさがなかった。呼吸はわずかに乱れ、目にはまだ揺れが残っている。エクシオは小さく息を吐く。負けた。技量の上でも、最後の迷いの上でも、自分は届かなかった。


「……参りました」


 静かにそう告げると、アルシオの肩がわずかに揺れた。少し遅れて、アルシオが手を差し出す。エクシオはその手を見てから、兄の顔を見る。まだ、動揺を隠せていない。


 エクシオはその手を取り、立ち上がった。


「……強いですね、兄様」


 その言葉に、アルシオはすぐには答えなかった。少しだけ間を置いて、ようやく低く返す。


「エクシオも、強かったよ」


 観客席ではまだざわめきが残っている。兄弟対決にふさわしい、見応えのある試合だったと、誰もが口にしたくなるような勝負だった。けれどアルシオにとっては、それだけでは終わらなかった。胸の奥に突き立ったままの問いが、勝ったあとも抜けない。


 アエラ先輩と、この先どうなりたいのか。

 あの人の隣で、自分はどう在りたいのか。


 答えは出ない。それでも試合は終わり、次が来る。

 少し離れた場所では、決勝戦を待つランスが、静かな目でこちらを見ていた。


 *


 観客席から見下ろす訓練場の中央で、アルシオとエクシオが向かい合っていた。

 兄弟対決というだけでも十分に目を引くのに、実際に始まってみれば、その勝負は予想以上に見応えがあった。同じように鍛えられてきたのだと分かる剣筋。踏み込みの間合いも、受け流しの癖も、どこか通うものがある。けれどその上で、兄は静かに相手をいなし、弟は真っ直ぐ食らいついていく。その対比が鮮やかで、アエラは思わず身を乗り出していた。


「すごい……」


 思わず漏れた声に、隣のユフィも小さく頷く。


「本当に。見ているだけで息が詰まりそうですわ」


 試合の序盤、二人の間にはどこか張りつめすぎない空気があった。口元がわずかに動くたび、きっと何か言葉を交わしているのだろうと分かる。実際、エクシオはどこか楽しそうですらあったし、アルシオもまだいつもの落ち着きを崩していなかった。


「やっぱり、兄弟って感じね」


 アエラはそう呟きながら、目を細める。何を話しているのかまでは聞こえない。けれど、ただ勝負をしているだけではない、二人だけのやり取りがそこにある気がした。


「……あれ?」


 アルシオの顔つきが、わずかに変わった。いつものアルシオは、たとえ押されていても表情を崩さない。剣を交えている時ほどむしろ静かで、冷静で、相手をよく見ている。

 なのに今は違う。余裕が、消えていた。受け流しはまだ正確だ。構えも崩れていない。けれど、顔のどこかが強ばっている。呼吸の取り方がわずかに乱れ、目の奥に見えた静けさが薄れていた。


「どうしたのかしら……」


 アエラは小さく呟く。声は届かない。何を話しているのかも分からない。けれど、エクシオが何かを言うたびに、アルシオの中で目に見えない何かが揺れているようだった。

 隣でユフィが不思議そうに首を傾げる。


「アエラ?」


「……ううん。なんでもない」


 そう答えながらも、視線は訓練場から離せなかった。アルシオが、感情を乱している。らしくない剣筋でエクシオに対している。

 そして次の一手で、アルシオの剣が変わった。


「……っ」


 思わずアエラは息を呑む。今までのような静かな剣ではなかった。鋭いのに、どこか強引で、押し込むような一撃で、胸の内に生まれたものを振り払うような太刀筋だった。


「アルシオ……?」


 気づけば、無意識にその名を呼んでいた。その直後だった。エクシオがその一撃を受けきれず、膝をつく。

 勝負ありの声が上がり、観客席が大きく沸く。けれどアエラは、すぐにはその熱に乗れなかった。勝ったのはアルシオだ。決勝進出も決まった。普通なら喜ぶ場面のはずなのに、訓練場の中央に立つ彼の横顔は、どうしても晴れやかには見えなかった。


 エアエラは胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。ざわめく観客席の中で、アエラだけが取り残されたように、じっと訓練場を見つめていた。


 (――何があったのよ。アルシオ)


 胸の内にはなぜか、簡単には聞いてはいけないような予感も残っていた。


 * *


 訓練場に残るざわめきは、まだ完全には収まっていなかった。


 兄弟対決という大きな見どころを終えたばかりだというのに、観客たちの熱は少しも冷めていない。むしろ次に控える決勝戦を前に、期待と興奮がさらに膨らんでいくようだった。


 アルシオは木剣を握ったまま、静かに呼吸を整えようとした。だが、胸の内は少しも静まらない。エクシオの言葉が、まだ耳の奥に残っていた。



「決勝戦、模擬剣部門――アルシオ・セレスティア、ランス・オルトリアン!」


 教師の声が、訓練場へ響く。


 アルシオはゆっくりと顔を上げた。その正面から、ランスが歩み出てくる。開始線の前で向かい合う。ランスは木剣を前に構えて、アルシオの顔を見た。そして、ふっと不敵に口元を歪める。


「何があったかは知りませんが」


 低く落ち着いた声だった。


「冷静な顔じゃありませんね。だからといって、容赦はしませんよ」


 その言葉に、アルシオは一瞬だけ目を細める。挑発というより、確認だった。今のお前は揺れている――そう見抜いたうえで、それでも正面から叩き潰すと言っている。

 けれど、不思議と不快ではなかった。ランスはそういう男だ。相手が揺らいでいようと、弱っていようと、勝負の場でそこを曖昧にはしない。アルシオは小さく息を吸った。


「……分かってる」


 深く息を吐く。乱れた心を押し込めるように、一度だけ目を閉じた。だが、胸の奥に引っかかったものは、そう簡単に消えてはくれない。それでも、今は剣を握るしかなかった。


「始め!」


 合図と同時に、ランスが先に動いた。無駄のない踏み込みだった。まっすぐに迫ってくるその一撃を、アルシオは反射的に受ける。乾いた音が高く響いた。重さと鋭さが、寸分の狂いなく噛み合っている。受けた瞬間、腕へ伝わる圧にアルシオはわずかに眉を寄せた。

 間髪入れず、二撃目。三撃目。

 ランスは最初から主導権を奪いにきていた。迷いがない。相手が揺れていると分かったうえで、その隙を見逃さず畳みかけてくる。


 アルシオは受けながら、隙を探した。流れを変える一手を。自分の間合いへ引き戻す一瞬を。だが、その判断がわずかに遅れる。


「遅い!」


 鋭い声とともに、横から打ち込まれる。アルシオは咄嗟に木剣を返して受けたが、態勢が流れた。その隙へさらに踏み込まれる。

 観客席からどよめきが上がる。アルシオは一度距離を切ろうとした。だが、ランスはそれを許さない。踏み込みの深さが違う。逃がさず、休ませず、考える暇を与えない。

 まるで、乱れた呼吸ごと見抜かれているようだった。観客席でアエラは思わず身を乗り出した。


「……アルシオ……」


 兄弟対決のときから、様子がおかしかった。今のアルシオは明らかに普段の静けさを失っている。打ち返す剣に、微かな焦りが混じっている。アルシオは踏み込んだ。受けに回れば押し切られる。そう判断したのだろう。珍しく強く前へ出る。鋭い一撃だった。だがそれは、彼本来の静かな組み立ての剣ではない。

 ランスの目が細くなる。――やはり。その剣筋には、乱れがあった。迷いと焦燥が、微かに滲んでいる。人間臭い、とランスは思った。いつも静かで、整っていて、どこか隙の見えないアルシオが、こんなふうに揺れることもあるのだと知ると、不思議と嫌いではなかった。だが、だからといって手を緩める理由にはならない。


「甘い!」


 ランスの木剣が、正面からぶつかる。アルシオの一撃を受け、その勢いごと押し返す。体勢がぶれた、その一瞬だった。ランスは深く踏み込んだ。逃がさない、と言わんばかりの一閃が、アルシオの防ぎを弾く。


「っ……!」


 態勢が崩れる。立て直すより早く、追撃が来る。乾いた音が、訓練場の中央に大きく響いた。


「そこまで!」


 教師の声が高く響く。一瞬の静寂のあと、わっと大きなどよめきが広がった。


 勝者、ランス・オルトリアン!


 アルシオはその場に立ったまま、浅く息を吐いた。負けた。それも、言い逃れのできないほどはっきりと。木剣を握る手に、じわりと汗が滲んでいる。胸の内に残るのは悔しさだけではなかった。まともに切り替えられなかった自分への苛立ちと、情けなさと、どうしようもない自己嫌悪だった。

 ランスは息を整えながら、アルシオを見る。その目には勝者の昂揚はあっても、侮りはなかった。


「いい勝負だった、とは言いません」


 不敵な笑みを浮かべたまま、ランスは言う。


「今のあなたは、いつものあなたじゃなかった」


 アルシオは何も返せなかった。その通りだったからだ。ランスは木剣を下ろし、ほんのわずかに口元を緩める。


「ですが、そういうあなたも嫌いじゃありませんよ。少し安心しました」


「……安心?」


「ええ。あなたも、ちゃんと揺れるんだなと」


 その言葉に、アルシオはようやく目を上げた。ランスは肩をすくめる。


「いつも完成されすぎていると、戦う側としては面白くありませんから」


 冗談めかした言い方だったが、その奥には確かな本音があった。アルシオは一瞬だけ目を瞬き、それからかすかに苦笑した。


「……負けた相手に言うことじゃないね」


「勝ったから言えるんですよ」


「そうだね」


 短く言って、アルシオは木剣を収める。互いに一礼を交わす。観客席からはなおも熱い拍手が降り注いでいた。ランスの二冠に沸く声も混じっている。

視線を上げた先で、アエラが観客席から駆け出そうとしているのが見えた。その姿を認めた途端、胸の奥がまた鈍く軋む。

 今は、だめだ。こんな顔で、彼女に会いたくない。心配させると分かっているのに、まともに言葉を返せる気がしなかった。アルシオはわずかに目を伏せ、そのまま踵を返す。背後でざわめきが続いている。訓練場の脇へ下がったところで、声をかけてきたのはレックスだった。模擬剣のあと、そのまま弓術でも優勝を決めたばかりだというのに、そんなことはまるで気にも留めていない顔をしている。


「……アルシオ」


「レックス」


「戻るのか」


「うん。少し、一人になりたい」


 短く答えると、レックスは一瞬だけ眉をひそめた。何か言いたげではあったが、結局それ以上は詮索しない。ただ、アルシオの顔を見て、今は何を言っても届かないと悟ったのだろう。


「寮まで戻れるな」


「子どもじゃないよ」


「似たようなもんだろ。今のお前は」


 ぶっきらぼうな言い方だった。けれど、それがレックスなりの気遣いだと分かるから、アルシオはかすかに口元をゆるめる。


「大丈夫。真っ直ぐ部屋に戻るよ」


 レックスはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……本当はついてってやりたいが、そうもいかねぇ」


 その視線の先では、教師と運営の生徒が何やら慌ただしく動いている。弓術優勝者としての表彰も、このあとまだ控えているのだろう。本人にその気がなくても、今のレックスには抜けられない役目がある。


「分かってるよ」


「部屋に戻ったら、今日は余計なこと考えんな。無理でも、せめて休め」


「難しいね」


「知るか」


 いつも通りの返しに、ほんの少しだけ気持ちが緩む。それでも胸の重さまでは消えなかった。レックスはアルシオの肩を軽く叩いた。


「あとで行く」


「うん。……ありがとう」


 レックスはそれには答えず、ただ「さっさと行け」と顎をしゃくる。アルシオは小さく頷いて、その場を離れた。


 競技場の熱気を背に、校舎の脇道を抜けて寮へ向かう。春の夕方はまだ明るいはずなのに、今日ばかりは景色がどこか色を失って見えた。途中、遠くから自分を呼ぶような声が聞こえた気もしたが、振り返ることはできなかった。


 寮の入口が見えたところで、アルシオはようやく深く息を吐いた。ここまで来れば、ひとまず誰の視線も届かない。部屋へ戻ろう。そう思うだけで精一杯だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ