第1章-2 兄と弟と
教室を出たあと、アルシオはエクシオを連れて校舎の一角にある小さなサロンへ向かった。授業の合間や放課後に生徒たちが休憩に使う場所で、窓際にはやわらかな光が差し込み、壁際には落ち着いた色合いのソファが並んでいる。新学期初日だからか人もまだ少なく、ひとまずは静かに話せそうだった。
アルシオが向かい合うように腰を下ろすと、エクシオもほっとしたように息をついて、その前に座る。フェリオは少し離れた位置へ控え、レックスもまた黙って壁際に立った。互いに兄弟の時間を邪魔しないよう、けれど必要ならすぐ動ける距離をきちんと保っている。
「改めて、入学おめでとう」
アルシオがそう言うと、エクシオは嬉しそうに笑った。
「ありがとう、兄様」
「新入生代表の挨拶、立派だったよ」
「緊張してたけどね」
「そうだったの?」
「うん。でも、壇上に上がったら逆に吹っ切れた感じかな。失敗したらしたで仕方ないって」
「それであれだけ話せるなら、大したものだね」
やわらかく褒められ、エクシオは少し照れたように肩をすくめる。
「兄様にそう言われると嬉しい」
そのあと、ふっと思い出したように表情を明るくした。
「そういえば、生徒会、すごく評判だったよ」
「僕たちが?」
「うん。ホームルームの前からもう、けっこう話題になってた」
エクシオは少し身を乗り出す。新しい教室で聞いたばかりの話を伝えたくて仕方がない、といった顔だった。
「とりわけ女の子たちの間では、兄様とオルトリアン先輩が格好よかったって。すごく盛り上がってた」
「……それは、なんだか気恥ずかしいな」
アルシオが困ったように笑うと、エクシオもつられて笑う。
「あと、アエラ先輩が女性なのに生徒会長をしていてすごいって。堂々としてて格好よかったって、みんな言ってたよ」
「それは本当にそうだね」
その返事があまりにも自然で、エクシオは一瞬だけ兄の顔を見た。けれどアルシオは、自分が何を言ったのかを特別意識していないようだった。
「でも」
エクシオはそこで少し声をやわらげる。
「僕は兄様のことを言われるのが、いちばん嬉しかったかな」
「え?」
「兄様がここでちゃんと認められてるんだって分かったら、なんだか僕まで誇らしくて」
真っ直ぐな言葉だった。飾りも気負いもなく、ただそう思ったからそのまま口にしたのだと分かる。アルシオは一瞬、言葉を失ったように目を瞬いた。それから、ふっと目元をゆるめる。
「……ありがとう。そう思ってもらえるのは、嬉しいよ」
「本当だよ。兄様、すごかった」
「さっきから褒めすぎ」
「事実だから」
即答されて、アルシオは思わず笑ってしまう。その笑みに、エクシオもまた嬉しそうに笑い返した。窓の外では、海からの風がやわらかく木々を揺らしている。入学式の華やかさから少し離れたこの場所には、ようやく兄弟だけの静かな時間が流れていた。
「エクシオは、クラスはどうだった? 馴染めそう?」
「たぶん大丈夫。フェリオがいるしね。みんなすごく気を遣ってくれるし、悪い人はいなさそうだった」
「それならよかった」
ひとしきり話したあと、エクシオがふと思い出したように首を傾げた。
「そういえば、あのご令嬢も入学されてたんだよね」
「あのご令嬢?」
アルシオが問い返すと、エクシオはすぐに答えた。
「ルナの生誕祭で、兄様と最初のダンスをしてたご令嬢。エレオノーラ・ヴァレンティス」
その名が出た瞬間、アルシオは一瞬だけ息を止めた。もちろん覚えている。忘れるはずがない。けれど今この場で、その名を聞くとは思っていなかった。
「……エレオノーラ嬢か」
「うん。同じクラスだったよ」
「そうなんだ」
アルシオは静かに頷く。できるだけ何でもないように返したつもりだったが、胸の奥ではわずかに波が立っていた。
ルナーリアの生誕祭では、周囲の思惑も滲む中で、彼女とは一曲を交わした。母からは明言されたわけではないけれど、城に満ちる空気や周囲の声音を拾っていれば、誰の名が婚約者候補として挙がっているのか、自然と耳に入ってくる。それはアルシオにとって、決して軽く受け流せる話ではなかった。そんな兄のわずかな変化に気づいたのか、エクシオが少しだけ声音を落とす。
「……やっぱり、彼女が候補なの?」
率直だが、踏み込みすぎない聞き方だった。幼い頃から兄の立場を見てきたからこそできる問いでもある。アルシオは少しだけ目を伏せ、それから小さく笑った。
「そう、みたいだね。まだ、正式にはなにも聞かされてはいないけど」
「そうか……」
エクシオもそれ以上は軽くしなかった。いつもの明るさを残しながらも、今はきちんと兄の返事を受け止めている。
「僕、あの時から何となくそうなのかなって思ってた。すごく綺麗な人だったし、周りも彼女を見る目は違ってたし」
「よく見てるね」
「兄様のことは、ちゃんと見てるよ」
まっすぐ言われて、アルシオは少し苦笑した。その表情を見ながら、エクシオは胸の内でそっと思う。エレオノーラの名に兄がわずかに息を止めたのを見逃さなかった。皇子である以上、いつかは国のために婚姻を結ぶのだ。その候補の存在を軽く扱えないことは、エクシオにだって分かる。けれど、それでも胸に引っかかるものがある。兄がエレオノーラの話をする時の顔と、さっき教室でアエラに向けていた顔は、どこか違っていた。あんなふうにやわらかく、自然に目元をゆるめる兄を、エクシオはあまり知らない。あの表情を引き出すアエラ先輩とは、兄様にとっていったい何なのだろう。そんな問いだけが、まだ答えのないまま胸の奥に小さく残った。




