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プロローグ 新しい春、新しい距離

中編投稿開始します。

 海からの風が、柔らかく校舎を吹き抜けていく。いつもと同じようで、今日からはどこか違う。アルシオは教室へ向かう途中、ふと足を緩めて窓の外を眺めた。

 青くひらけた空の向こうから運ばれてくる潮の気配に、胸の奥がわずかにざわめく。無意識のうちに、やはり少し緊張しているのかもしれない。


「どうかしたか、アルシオ」


 後ろを歩くレックスが声をかける。


「いや、今日から二年生だよ。早いものだなぁって」


 振り返りそういうと、レックスは少し呆れたように返した。


「なんだそれ。お前、時々妙に年寄りくさいよな」


「そうかな」


 レックスの返しも、いつも通りでついおかしくなってしまう。新学期が始まり、アルシオたちは二年生に進級する。そして、今日から新入学生として弟のエクシオが入学してくる。楽しみだと言っていたが、皇国を離れて暮らすのはこれが初めてだ。幼い頃から付き従ってきたフェリオも、侍従としてともに入学することになっている。エクシオなら、きっとすぐに周囲の輪の中心へ入っていくだろう。あれでいて人懐こく、相手の懐へ入るのがうまい。けれど、兄としてはやはり気にかかる。自分の知らない場所で、弟がどんな顔を見せるのか――少し楽しみで、少しだけ落ち着かない。

 教室に入ると、すでにクラスメイトの大半は揃っていた。新学期初日らしいざわめきが、明るい空気となって室内を満たしている。その中に、赤みがかった明るい茶の髪と、射抜くような翠の瞳があった。

 アエラマリーナ・アルタイル――アエラは、教室へ入ってきたアルシオに気づくと、ぱっと表情を明るくして手を挙げた。


「アルシオ殿下、おはよう」


 春の陽だまりのような笑顔をまっすぐ向けられて、アルシオは思わず頬をゆるめた。


「おはよう、アエラ」


 その隣では、ユフィーリアがきちんと背筋を伸ばして小さく会釈をする。


「おはようございます、アルシオ殿下。今年もよろしくお願いします」


「よろしく、ユフィ」


 少し離れた席にいたゲイルもこちらに気づき、軽く手を上げた。


「よう、殿下。二年目もよろしく頼む」


「こちらこそ、ゲイル」


 去年の今頃は、まだ互いに探り合うようなぎこちなさもあった気がする。けれど今は、こうして顔を合わせるだけで自然と言葉が交わせる。そのことが、二年目の始まりをいっそう実感させた。

 すると、アエラが身を乗り出すようにして口を開いた。


「今日から弟のエクシオ殿下が入学してくるのよね?」


「うん」


「どんな子なの? やっぱり優秀なのかしら」


 問いかける声は、興味を隠そうともしていない。その真っ直ぐさに、アルシオは少しだけ苦笑する。


「優秀だし、明るいよ。人懐こくて、たぶん僕より、ずっとすぐ周りに馴染むと思う」


「へえ」


 アエラの翠の瞳が、ますます楽しげに輝いた。


「楽しみね。同じ皇国の皇子でも、アルシオ殿下とはまた違いそうだわ」


「それはそうだろうね」


 くすりと笑って返すと、アエラはふと思い出したように表情を引き締めた。


「それでね、このあと少し時間ある?生徒会のみんなでちょっと集まれないかしら。入学式での挨拶、最後に少し相談しておきたいの」


「もちろん。僕は大丈夫だよ。ランスたちにも声をかけておこうか」


 そう言って席を立とうとしたアルシオを、隣から低い声が引き止めた。


「お前は座ってろ。そういう雑事は俺の役目だ」


 レックスはそれだけ言うと、返事を待つこともなくさっさと教室を出ていってしまう。


 その背を見送りながら、アエラがくすりと笑った。


「あいかわらずね」


「うん。助かってるよ」


 アルシオが穏やかに答えると、アエラはどこか楽しそうに目を細めた。入学式を前にした生徒会室は、いつもより少しだけ空気がちがった。とはいえ、それは新入生たちの緊張とはまた違う。今度は自分たちが迎える側であり、前に立つ側なのだ。


「全体の流れはこれでいいわよね。最初に私が挨拶して、そのあとアルシオが進行。ランスが風紀、マリエラが庶務、エレンが会計、ザンザスが監査……」


 手元の紙を見ながら確認を重ねるアエラに、ランスがやや呆れたように眉を寄せた。


「……何度も確認しただろう。大丈夫か、生徒会長」


「だ、大丈夫よ。確認してるだけ」


 言い返しながらも、声がほんの少し硬い。そんなアエラを見て、ランスは小さく肩をすくめた。


「それを緊張していると言うんだ」


「してないったら」


 間髪入れずに返したものの、いつもの勢いに比べれば明らかに覇気が足りない。それに気づいたのか、マリエラがふふっと笑った。


「仕方がありませんわ。新入生の前で最初に話すのは、生徒会長ですもの」


「そういうこと。責任重大なのよ」


 アエラは胸を張ろうとしたが、その仕草すらどこか落ち着かない。アルシオはその横顔を見つめ、思わず口元をゆるめた。


「大丈夫だよ、アエラ。君はちゃんとやれる人だから」


 その一言に、アエラが顔を上げる。まっすぐ向けられた視線を受けて、彼女はほんのわずかに目を瞬かせたあと、ふっと肩の力を抜いた。


「……ありがとう」


 講堂へ向かう廊下は、朝の光に明るく満ちていた。磨かれた床に靴音が静かに響き、生徒たちはそれぞれの学年、クラスごとに整然と歩いていく。新入生たちの表情には緊張と高揚が入り混じり、二年生以上の生徒たちの顔には、どこかそれを見守るような余裕があった。

 生徒会の面々も所定の位置へ向かう。アエラは深く息を吸い、すっと背筋を伸ばした。先ほどまでの落ち着かなさが嘘のように、その横顔には生徒会長としての凛とした気配が宿っている。


「切り替え早いね」


 隣を歩きながら、アルシオが小さく囁いた。


「当たり前でしょ。情けない顔なんて見せられないもの」


 声はいつもの調子に戻っている。それが嬉しくて、アルシオは小さく笑った。やがて講堂の扉が開かれ、生徒たちは定められた席へ着いていく。高い天井と大きな窓を持つ広い空間には、春のやわらかな光が差し込んでいた。壇上には学園長と教員たちが並ぶ。


 ざわめきは、開式の宣言とともにすっと静まった。


 厳かな空気の中、式は粛々と進んでいく。歓迎の言葉、学園長の訓示。そして、新入生代表挨拶の番になった。


「新入生代表、エクシオ・セレスティア殿下」


 名を呼ばれた瞬間、新入生席の一角から一人の少年が立ち上がる。金の髪が光を受けてやわらかくきらめき、紫の瞳はまっすぐ前を見据えていた。まだ少年らしいあどけなさを残しながらも、その所作には皇国の皇子として培われた品と落ち着きがある。

 壇上へ進み出る姿を見つめながら、アルシオはほんの少しだけ息を詰めた。大丈夫だろうとは思っていた。けれど、こうして多くの視線の中を歩く弟を見ると、兄としてはやはり落ち着かない。

 エクシオは演台の前に立つと、講堂全体を見渡すようにひと呼吸置いた。


「我々は、この学園に新たに加わる者として、それぞれ異なる国と立場を持ちながら、ここで同じ時を学び、過ごしていくことになります」


 澄んだ声が、静まり返った講堂にまっすぐ響く。


「生まれも、考え方も、背負うものも違うからこそ、互いを知ることには意味があるのだと思います。この学園での出会いと学びが、未来へつながる力となることを願っています」


 言葉はよく練られていた。けれど、それだけではない。声に宿る明るさとまっすぐさが、堅くなりすぎない温度を生んでいる。

 挨拶を終えたエクシオが一礼すると、講堂には控えめながらも確かな拍手が広がった。席へ戻るその横顔は落ち着いている。少なくとも、外から見れば完璧だった。


「……優等生なのね」


 アエラが小さく呟く。それを聞いたアルシオは、どこか誇らしいような、くすぐったいような気持ちで答えた。


「すごいね。堂々としていた」


「雰囲気は全然違うのに」


 アエラは目を細める。


「でも、同じ目をしてたわ」


 その言葉に、アルシオはほんの一瞬だけ言葉を失った。思いがけないところを見ているのだと分かって、胸の奥がかすかに熱を帯びる。

 やがて入学式は終盤へと進み、生徒会による新入生向けの案内へ移る時間が近づいていった。壇上へ出る準備のため、アエラはもう一度静かに息を整える。式の進行役を務める教員が一歩前に出て、講堂へ告げた。


「続いて、生徒会より学園生活についての案内があります」


 その言葉を合図に、生徒会役員たちが壇上前方へ進み出る。先頭に立ったアエラは、足を止めると静かに一つ息を整えた。さきほどまで生徒会室で見せていた緊張はもうどこにもない。赤みがかった茶の髪を背に流し、翠の瞳で新入生たちをまっすぐ見渡す姿には、生徒会長としての凛とした気配が宿っていた。


「新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。生徒会長を務めます、アエラマリーナ・アルタイルです」


 澄んだ声が、講堂によく通る。張りつめていた新入生たちの空気が、それだけで少しやわらいだように感じられた。


「皆さんは今日から、この学園で新しい生活を始めます。期待もあれば、不安もあるでしょう。知らない土地で、知らない人たちと過ごしていくのですもの。戸惑うことがあって当然です」


 言葉は落ち着いていて、それでいて温かい。生徒会長としての実感がその声音に滲んでいた。


「生徒会は、学園行事の運営だけでなく、皆さんの学園生活を支えるためにも動いています。困ったことや、分からないことがあれば、一人で抱え込まず、どうぞ頼ってください」


 そこでアエラは一度視線を巡らせ、隣に立つアルシオへ目配せを送った。受け取ったアルシオが、一歩前へ出る。


「副生徒会長のアルシオ・セレスティアです。ここからは、学園生活を送る上で知っておいてほしいことを、担当ごとに簡単に説明していきます」


 穏やかな声が、先ほどまでの緊張を静かにほどいていく。アエラの明るく真っ直ぐな挨拶とは違う、落ち着いた空気が講堂全体に広がった。


「まずは、風紀担当から」


 呼ばれたランスが前へ出て、学園内での規律や寮生活における注意事項を簡潔に告げる。必要なことだけを無駄なく伝える口調は、いかにも彼らしい。そのあとも、庶務、会計、監査の説明が手短に続き、全体の流れは滞りなく進んでいった。

 ひととおりの案内が終わったところで、アルシオはもう一度一歩前へ出た。


「もうひとつだけ、皆さんに伝えておきたいことがあります」


 ざわめきがすっと静まり、新入生たちの視線が集まる。アルシオは講堂を静かに見渡してから、落ち着いた声音で続けた。


「この学園では、身分や生まれに関わらず、誰もが一人の生徒です。もちろん、礼を尽くすことは大切ですし、それは大人になってからも変わりません」


 そこでほんのわずかに表情をやわらげる。


「けれど、ここは学ぶための場所でもあります。未熟であること、間違えること、悩むことが許される場所です。ですから、必要以上に畏まったり、臆したりする必要はありません」


 静かな言葉なのに、不思議とまっすぐ胸に届く力があった。講堂にいた新入生たちの表情が、目に見えてやわらぐ。


「皆さんが、自分らしくこの学園での時間を過ごせることを願っています」


 一瞬、講堂はしんと静まり返ったが、その後すぐに拍手が広がる。安堵したように微笑む者、感心したように目を見張る者。前列に座っていた何人かの女生徒は、頬を染めるようにして壇上のアルシオを見つめていた。その様子が視界の端に入ってしまい、アエラは思わず内心で唇を尖らせる。


 ――ちょっと。何、その顔。……分かるけど。分かるけれど。


 一年の頃より、アルシオは少し背が伸びた。顔立ちもどこか大人びて、もともとの穏やかさの奥に、最近では、ふと胸を落ち着かなくさせるような静かな色気が滲むことがある。本人はたぶん、そんなこと少しも自覚していないのだろうけれど。だからこそ、ああして周囲が見惚れているのを見ると、妙に面白くなかった。

 そんなアエラの胸の内など知るはずもなく、アルシオは一歩下がった。アエラは気持ちを切り替えるように前へ出る。


「改めて、ご入学おめでとうございます。皆さんがここで、多くのものを学び、かけがえのない時間を過ごせることを願っています」


 最後に深く一礼すると、役員たちも揃って頭を下げた。再び拍手が広がる中、生徒会は壇上を下りる。




 講堂の外へ出て、人目が少し離れたところまで来たところで、アエラがふっと息を吐いた。


「……あーあ」


 隣を歩いていたアルシオが首を傾げる。


「どうしたの?」


「せっかく生徒会長として、わたしが威厳を示したのに」


「うん」


「最後の最後で、アルシオが全部持っていっちゃったじゃない」


 少し拗ねたような声音に、アルシオは目を瞬かせた。


「そうかな」


「そうよ。新一年の子たち、特に女の子たち、みんなうっとりしてたもの」


「……それは、ごめん?」


 理不尽な物言いに困った様子のアルシオに、アエラはとうとう吹き出した。アルシオも困ったように笑う。


「でも、すごくよかったわ」


 笑みの名残を残したまま、アエラは小さく付け足す。


「ああいうことを自然に言えるところ、やっぱりアルシオらしい」


「ありがとう。そう言ってもらえるなら、よかった」


 穏やかに返されて、アエラはまた少しだけむっとする。


「……ほら、そういうところ」


「え?」


「無自覚で人の心を持っていくところよ」


 春の光の差す廊下に、二人の声がやわらかく溶けていった。



 一方その頃、新入生たちは各クラスごとに講堂を後にし、担任に導かれてそれぞれの教室へ向かっていた。エクシオもまた、その列の中にいた。壇上から見た景色と、いま廊下を歩きながら見る景色は、同じ学園の中にあるはずなのにどこか違って見える。入学式のあいだは不思議と緊張を表に出さずにいられたが、終わってしまえば胸の奥に小さなざわめきが戻ってきた。

 隣を歩くフェリオは、そんなエクシオの歩幅に自然に合わせながら、穏やかな声音で言う。


「お見事でした、エクシオ様。新入生代表としては、満点に近かったのではありませんか」


「近かった、ってことは満点じゃないんだ」


「ええ。少しだけ、格好をつけすぎでした」


 しれっと返されて、エクシオは思わず肩をすくめる。


「フェリオくらいだよ。僕にそんなこと言うのは」


「光栄です」


 まるで光栄そうに聞こえない返事に、エクシオは小さく笑った。それだけで、張っていた気持ちが少しだけほぐれる。

 廊下の先では、新しい教室へ向かう生徒たちの声があちこちで弾んでいる。見知らぬ顔、見知らぬ声、見知らぬ空気。皇国の王城の中では決して出会わなかった種類のざわめきだった。

 さっき、壇上の上に立つ兄を見た。生徒会の一員として自然に立ち、アエラや仲間たちと並ぶその姿は、自分の知っている“兄様”そのものでもあり、少しだけ知らない誰かのようでもあった。

 兄はもう、この学園の中でちゃんと自分の場所を持っている。その事実が、胸の奥にかすかな寂しさを落とす。けれど同時に、そこへ踏み出していく期待もあった。自分にも、この場所で新しい世界ができるのだろうか。そんな思いを胸のどこかで抱えながら、エクシオは担任の開けた教室の扉を見上げた。


「さあ、ここからですね」


 フェリオの声に、エクシオは小さく頷く。


「うん」


 まだ少しだけ不安で、でも、それ以上に楽しみだった。そうしてエクシオは、新しい教室へ最初の一歩を踏み入れた。

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