第九章-4 父の答え
祝宴が終わり、自室へ戻った頃には、夜もだいぶ更けていた。王城の回廊は静かだった。あれほど華やいでいた大広間の気配も、扉をいくつか隔てればもう遠い。自室の扉が閉まると、そこにはようやく一人きりの静けさだけが残った。
侍女に手伝われて礼装をほどき、最後に胸元へ深く忍ばせていた小さなハンカチーフを取り出す。淡い緑の刺繍が、灯りの下に静かに浮かび上がった。アルシオはベッド脇の椅子へ腰を下ろし、その布をしばらく見つめたまま動かなかった。
今夜、あらためて思い知らされた。
自分が立っているのは、皇国の王城の真ん中なのだと。
ルナーリアの手を取り、エクシオと共に歩いた。両親はあたたかな眼差しで見守ってくれていた。家族の愛に包まれていることも、ここが自分の帰る場所であることも、痛いほど分かっている。
けれど同時に、そこは誰よりも多くの視線と思惑が集まる場所でもあった。
どう振る舞うのか。
誰と親しくするのか。
誰と踊るのか。
そして、いずれ誰を選ぶのか。
そのすべてが、ただ自分一人の感情だけでは済まされない。
皇族の色を持たぬ黒髪の自分は、なおさら皇族らしくあらねばならないのだと、誰に言われるでもなく、ずっとそう感じて生きてきた。
きっとこれからも、そうなのだろう。
分かっている。
分かっているのに、胸の奥でいちばん強く浮かぶのは、やはりあの緑の瞳だった。
冬の淡い光の差す教室。
別れ際に、少し照れたように「手紙、書くわね」と言った声。
そして手紙の最後に綴られていた、たった一文。
――学園に戻るのが待ち遠しいの。
――また会えるのを、楽しみにしています。
思い出すだけで、胸の奥が静かに熱を帯びる。
僕も会いたい。
君の声が聞きたい。
あの軽やかな髪に、もう一度触れたい。
それはもう、疑いようがなかった。
けれど――
「……僕は、どうしたいんだろう」
独り言は、静かな部屋の中へそのまま落ちた。
アエラを想うことと、彼女を望むことは、決して同じではない。
彼女は、僕にたくさんのものをくれた。学園での居場所も、立ち止まっていた自分を外へ連れ出す風も、自分では知らなかった景色も。
では、自分は彼女に何を返せるのだろう。考えて、最初に浮かぶのは、皇国の第一皇子という立場ばかりだった。守ることもできる。名誉も、地位も、与えられるのかもしれない。けれどそれは同時に、しきたりであり、責任であり、無数の視線でもある。
自分が望むことは、そのまま彼女をこの国へ縛ることになるのではないか。眩しいほど自由なあの人に、自分が差し出せるものは、愛ではなく檻なのではないか。
そう思うと、胸が苦しかった。好きだ、と言い切ることよりも。欲しい、と願ってしまうことの方が、ずっと怖い。考えようとすればするほど、霧の中へ踏み込んでいくようだった。
彼女は特別だ。それだけは、もう疑えない。けれど、その特別をどこまで言葉にしていいのか。言葉にした先で、自分は彼女に何を背負わせるのか。答えはまだ、見えなかった。
その時、不意に控えめなノックが響いた。アルシオは目を開ける。こんな時間に誰だろうと思いながらも、すぐに声を返した。
「……どうぞ」
扉が静かに開く。入ってきたのは、ルークだった。すでに礼装の上着は脱いでいる。式の時より少しだけ肩の力が抜けた姿だったが、それでも一歩部屋へ入るだけで空気が変わるような落ち着きがあった。
「起きていたか」
「父様」
アルシオは慌てて立ち上がろうとしたが、ルークは片手を軽く上げてそれを制した。
「そのままでいい。少し顔を見に来ただけだ」
そう言って、窓辺近くの椅子へゆっくり腰を下ろす。アルシオも、手の中のハンカチーフをそっと膝の上へ置いた。隠すには、もう遅い気がした。父が気づいたのかどうかは分からない。けれど、ルークはそのことには触れず、しばらく黙って息子を見ていた。
「……生誕祭、疲れたか」
「少しだけ」
「そうだろうな」
短いやり取りだった。けれど、その声には妙に安堵させるものがあった。ルークは窓の外を一度だけ見てから、再びアルシオへ視線を戻した。
「今日はよくやっていた」
「ありがとうございます」
「ルナーリアのこともな。あれでだいぶ楽になったはずだ」
入場前のことだ。アルシオは少しだけ目を伏せる。
「一人で歩かせるには、少し緊張しているように見えたので」
「そういうところは、お前らしい」
ルークは淡く笑った。
「エクシオも楽しそうだったな」
「ええ。……振る舞いも、所作も堂々としてましたね」
そこで一度、会話が切れた。静かな沈黙だった。気まずくはない。けれど、ただ穏やかなだけでもない。ルークはきっと、別の話をしに来たのだと、アルシオにも分かっていた。
やがて、ルークが低く言う。
「お前、今日はずいぶん分かりやすかったぞ」
アルシオははっと顔を上げた。不安と葛藤、切望がごちゃ混ぜになっているのだ。自分がどんな表情をしているのか、わからなかった。
「……別に怒ってるわけじゃないぞ」
ルークは咎めるでも、からかうでもなかった。
「母様からも、少し話を聞いた」
「……そうですか」
「縁談の打診があったこともな」
アルシオは膝の上に置いた手へ視線を落とした。
「王城に戻れば、こうなると分かっていたはずなのに」
「分かっていても、実際に目の前へ出されると重いものだ」
ルークの声音は穏やかだった。まるで、自分も同じものを知っていると言うように。
「父様は……」
アルシオは少しだけ迷ってから、ようやく言葉を継いだ。
「父様は、どうやって決めたんですか」
ルークは目を細める。
「何をだ」
「母様の隣に立つことを」
部屋の中に、また静けさが落ちた。ルークはすぐには答えなかった。長い指を組み、ゆっくりと息をつく。その横顔は、珍しく少しだけ遠くを見ているようだった。
「……アリーシャが兄王を亡くして、悲しむ間もなく王位と婚姻を迫られた時、その相手として充てがわれたのが俺だった」
アルシオは顔を上げる。ルークは視線を窓の外へ向けたまま、静かに続けた。
「はじめは、古い慣習の中に閉じ込められている人だと思っていた。自分の意思とは関係なく、国と血筋に縛られて立たされているだけの人だと」
その声に、飾りはなかった。ただ、見てきたものをそのまま言葉にしている響きがあった。
「だが、違った」
短い一言が、静かな部屋に落ちる。
「分からないなりに、あの人は必死に王として立とうとしていた。弱さも迷いも抱えたまま、それでも誰にも見せまいとして、己を顧みずに前を向いていた」
アルシオは黙って父を見つめる。
「そんなアリーシャを見て、俺は前に立って導きたいとは思わなかった」
ルークはそこで初めて、まっすぐ息子を見る。
「守るだけなら、もっと簡単だったのかもしれない。だが、あの人があの人の足で立てるように、隣で支えたいと思うようになった」
低い声だった。けれどその言葉には、長い歳月を経ても変わらない確かさがあった。
「気づいた時には、それが俺の望みになっていた」
アルシオの胸が、静かに鳴る。ルークは淡く目を細めた。
「共に過ごすうちに育つ想いも、確かにある。母上の言う通りだ」
「……はい」
「だが」
そこで声がわずかに低くなる。
「すでに誰かが心にいるなら、話は別だ」
アリーシャと同じことを、ルークもまた別の言葉で言う。
「閉じ込めたまま他の道を選べば、その相手にも、自分にも嘘をつくことになる」
アルシオは小さく息を飲み、ようやく胸の内を言葉にした。
「……分からないんです」
声は思ったより掠れていた。
「会いたいと思います。声を聞きたいとも思う。別の相手と踊っても、何も感じませんでした」
言葉にしてしまえば、もう誤魔化しようがない。
「でも、それでどうしたいのかと言われると、答えが出ないんです。アエラを想うことと、彼女を望むことは同じじゃない。僕が彼女に何をしてやれるのかも、分からない」
膝の上のハンカチーフを握る力が強くなる。
「アエラに与えてもらったものは、たくさんあります。けれど自分が返せるものを考えると、この立場しか浮かばない。でも、それは同時に、彼女の自由を奪うことでしかない」
言いながら、自分でも胸が痛んだ。
「……僕が望むことは、そのまま彼女を閉じ込めることになるんじゃないかって、そう思うと怖いんです」
ルークは黙って聞いていた。少しも急かさず、否定もせず、ただ最後まで言葉を受け止めるように。
「情けないですよね」
「いや」
ルークはすぐに首を振った。
「それでいい」
アルシオは目を瞬く。
「父様……」
「今、答えが出ないことを情けないとは思わない。立場があるから迷うんじゃない。お前が、その相手を軽く扱いたくないから迷うんだ」
その言葉が、胸の奥へ深く落ちる。
「……そう、なんでしょうか」
「そうだ」
言い切る声音には、迷いがなかった。
「本当にどうでもいい相手なら、もっと簡単に割り切れる。だが、お前はそうじゃない。相手の先まで考えて、背負わせるものまで考えて、それで立ち止まってる」
ルークはそこで、ほんのわずかに口元を緩めた。
「お前らしいがな」
「じゃあ、僕はどうすれば」
「急いで答えを出すな」
ルークは静かに言う。
「今はまだ、学園にいる時間がある。考えろ。相手を見ろ。自分がその隣でどうありたいのかを、ちゃんと考えるんだ」
答えを教える言葉ではなかった。けれど、今のアルシオにはその方がありがたかった。そして最後に、ルークはゆっくりと言った。
「お前が本当にアエラ嬢を望むなら、あの子があの子らしくいられるように、その隣で自分がどう在りたいのかを考えなさい」
その言葉は、静かに、けれど真っ直ぐに胸へ届いた。アルシオは父を見上げる。
「……はい」
ようやく、それだけ答えることができた。ルークは息子の返事に小さく頷くと、立ち上がった。扉の方へ歩き出し、けれど部屋を出る直前にふと足を止める。
「それと」
「はい」
「この話は、二人の内緒な」
ルークは、男同士の秘密だ、とでも言いたげに、少しだけ楽しそうに目を細めた。
「はい!」
そのまま扉を開けて出ていく背を見送りながら、アルシオは顔が熱くなるのを感じる。
静けさが戻った部屋の中で、アルシオはしばらく動けなかった。まだ答えは出ない。どうしたいのかも、どうするべきかも、はっきりとは言えない。けれど、父の言葉で一つだけ確かになったことがある。
自分の心が、どこへ向いているのか。誰の隣を思い描いてしまうのか。それだけは、もう誤魔化せなかった。アルシオはゆっくりと手を開く。膝の上には、小さく畳まれた淡い緑のハンカチーフがある。その布をそっと握りしめ、窓の外へ目を向けた。
冬の夜空は静かで、星々はひどく澄んでいた。遠く離れた学園の空も、今ごろ同じように冷たく冴えているのだろうかと思う。
会いたい。
その想いだけが、答えの出ない胸の奥で、消えずに残っていた。




