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第九章-3 縁談の打診

 ふと視線を上げると、少し離れた場所からアリーシャがこちらを見ていた。ルナーリアの傍らに立ちながら、穏やかな微笑みは崩していない。けれど、その紫の瞳にアルシオの確信を見抜かれている気がした。


 次の曲が始まり、再び人の流れが動き出す。アルシオはその場で一度だけ呼吸を整え、それから令嬢たちの輪を自然に外れて、ルナーリアとアリーシャの傍へ戻った。


「母様」


 呼びかけると、アリーシャはゆるやかに振り向いた。ルナーリアの相手をしていた時と変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべている。けれど、その紫の瞳だけはひどく静かで、今しがたの一曲をきちんと見ていたことが分かった。


「お疲れさま、アルシオ」


「……いえ」


 返しながらも、どこか落ち着かない。今の自分が、母の目にどう映ったのかを考えるだけで、胸の内がわずかにざわつく。アリーシャは、祝いの言葉を述べて去っていく貴婦人へ軽く会釈を返してから、少しだけ声を落とした。


「先ほどのダンスのお相手は、どうでしたか」


 何気ない問いのようだった。けれど、その声音にはわずかに別の意味が含まれている。アルシオはすぐには答えなかった。数拍おいてから、静かに口を開く。


「……皆、申し分のない方々でした」


「そう」


「礼儀正しくて、会話も自然で。とても上品です」


 アリーシャは小さく頷く。


「楽しく踊れましたか」


 今度の問いには、ほんの一瞬だけ返事が遅れた。楽しくなかったわけではない。不快でもなかった。失礼なく、一曲を終えられた。けれど――。


「滞りなく、お相手できたと思います」


 そう答えると、アリーシャはほんのわずかに目を細めた。


「そう」


 短い一言だった。けれどその声には、十分に分かりました、という響きがあった。

 大広間では、祝宴の華やぎが続いている。笑い声も、楽師たちの軽やかな旋律も絶えない。なのにその一角だけが、不思議なほど静かに切り取られたようだった。

 アリーシャは一度ルナーリアの方へ視線を向け、それから再びアルシオを見る。


「先ほど、公爵家から打診がありました」


 アルシオは目を上げた。


「打診、ですか」


「ええ。まだ正式なものではありません。ただ、もしこちらが前向きに考えられるなら、後日あらためて挨拶の機会を設けたい、と」


 その言葉に、昼間書庫の前で耳にした噂が胸の奥で冷たく蘇る。やはり、そういう話になるのだ。王城では、誰と並んだかさえ、ただの思い出では済まされない。親しくしている相手が誰かということも、すべて家柄と立場の文脈へ置き換えられてしまう。


「……母様は、どうお考えですか」


 そう問うと、アリーシャはすぐには答えなかった。息子の顔を見つめ、その表情の奥にあるものまで静かに探るようにしてから、穏やかに口を開く。


「会ってみるという選択も、あると思います」


 やさしい声音だった。否定も、押しつけもない。ただひとつの道として、静かに差し出してくる。


「わたくしとルークも、最初からすべてが整っていたわけではありません。立場が先にあり、信頼が伴って、そのあとで少しずつ、共に過ごすうちに育った想いもありました」


 アルシオは黙って母を見つめた。アリーシャは、少し離れたところで貴族たちに応じているルークへほんのわずかに目を向ける。その眼差しだけで、二人がどれほど深く結ばれているかが分かるようだった。


「……そうして、育まれる愛もあります」


 静かな言葉が、胸の奥へ落ちてくる。


「けれど、すでに大切な人が心にいるのなら、その気持ちを押し殺しては、相手に不誠実ですし、あなた自身も辛いでしょう」


 その一言で、胸の内が強く鳴った。アルシオは何か言おうとして、ふと、自分の手が胸元へ伸びていることに気づく。開いた礼装の内側、深く忍ばせたポケットのあたりへ、そっと指先が触れていた。そこにあるのは、小さく畳んだハンカチーフ。誰にも見えぬよう隠した、淡い緑の刺繍。

 けれど、その仕草だけで十分だったのかもしれない。アリーシャの視線が、ほんの一瞬だけその手元へ落ちる。だが彼女は何も言わなかった。ただ静かに、息子の顔を見つめるだけだ。


「……今はまだ、考える時間をください」


 ようやくそれだけを返すと、アリーシャはやわらかく頷いた。


「ええ。じっくり考えなさい」


 責めるでもなく、急かすでもなく、ただそう言う。

 アルシオは小さく息を吐いた。胸元に隠したままの小さな布が、まだひそかに熱を帯びているような気がした。


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