第九章-2 胸元に隠した存在
ルナーリアはまだ少し頬をこわばらせながらも、一人ひとりの祝いにきちんと応じている。十三歳の王女としては十分すぎるほど落ち着いていた。傍らで見守るアリーシャのまなざしも、穏やかで誇らしげだ。
やがて高位貴族たちからの挨拶がひと通り終わると、大広間の空気は少しずつ和らいでいった。張りつめていた厳粛さの糸がゆるみ、楽師たちの奏でる旋律も、先ほどまでより軽やかなものへ変わっていく。侍従たちが祝杯のための飲み物を運び、貴婦人たちの会話にもようやく柔らかな笑みが混じり始めた。
ルナーリアは今もアリーシャの傍らに立ち、祝いの言葉を受け続けている。まだ十三歳なのに、立派に皇女として、祝辞を受けている。それでも少しずつ緊張がほどけてきたのだろう。先ほどまでわずかに強張っていた頬も、今はだいぶやわらかい。ときおり兄たちの方へ視線を向けては、ほっとしたように微笑むのが見えた。
そんな妹の様子に胸をなで下ろしながら、アルシオはふと、自分たちへ向けられる視線の変化に気づく。王家の若い皇子たちへ向けられる、別種の関心が、少しずつ大広間を満たし始めていた。ほどなくして、最初の令嬢が進み出た。年の頃はエクシオとそう変わらないだろう。淡い青のドレスを上品に着こなした伯爵令嬢は、少しだけ頬を染めながらも、きちんとした礼を取る。
「エクシオ皇子殿下。もしよろしければ、一曲お相手いただけますか」
不意を突かれたようにエクシオが瞬きをする。けれど次の瞬間には、皇子としての微笑みをきちんと整えていた。
「もちろん、喜んで」
差し出された手を取る。その仕草にはまだ少し若さがあるが、かえって今の彼にはよく似合っていた。ダンスの輪へ向かうエクシオの背を見送りながら、アルシオは少しだけ口元を緩める。緊張していたようでいて、歩き出してしまえば案外堂々としている。明るく素直な気質は、こういう場では武器になるのだろう。
実際、踊り始めたエクシオは悪くなかった。所作そのものはまだ少し硬い。けれど、相手を気遣おうとする素直さがそのまま表へ出るから、見ていて危なげがない。何より、時折交わす笑顔が若々しく華やかで、会場の灯りによく映えた。その様子を見ていたルナーリアが、遠くから小さく嬉しそうに目を輝かせている。
だが、それを眺めている暇は長くなかった。
「アルシオ皇子殿下」
次に声をかけてきたのは、公爵家の令嬢だった。年はアルシオとそう変わらないだろう。薄い象牙色のドレスに、過不足のない装飾。所作は流れるように整い、その立ち姿には育ちの良さが自然に滲んでいた。華やかというより、上品に目を引く美しさだ。
「もし差し支えなければ、わたくしにも一曲お許しいただけますか」
断る理由はない。アルシオは穏やかに答え、その手を取った。
「ええ、お手をどうぞ」
楽の音に合わせて大広間の中央へ出る。手袋越しに触れる指先は細く、温かい。歩幅を合わせるのも容易い。相手はきちんと淑女教育を受けていて、こちらの導きにも完璧に合わせてくる。誰が見ても非の打ちどころのない一曲になるだろう。アルシオは相手に失礼のないよう導き、会話も穏やかに交わし、曲の流れに合わせて淀みなく踊った。皇子として求められる振る舞いを、何一つ違えることなくこなしていく。
――けれど、胸は少しも騒がなかった。動きは自然にぴたりと合う。会話も淀みなく続く。失礼はなにもない。それなのに、あの夜とは何もかもが違う。
黒いリボンを見つけた時、胸が高鳴った。ハンカチーフの薄緑の刺繍に気づいて赤くなった顔を見ると、嬉しくなった。耳まで赤くしながら「そういうの、反則だわ」と睨んできた表情は、ここにはない。
あの時は、指先が触れるだけで胸の奥が静かに鳴った。けれど今は、ただ役割として一曲を踊っているにすぎない。
その違いが、思っていた以上にはっきりと分かってしまう。曲が終わりに近づく。最後の旋律に合わせて優雅に回り、二人は自然な所作で一礼した。
「ありがとうございました、殿下」
「こちらこそ」
手を離すと、令嬢は品よく微笑んでいるが、何かを言おうとして、口を噤み、人波の中へ戻っていった。
誰が見ても、申し分のない一曲だっただろう。けれどアルシオの胸に残ったのは、満足ではなく、妙に静かな確信だった。
その後も、何人もの令嬢にダンスを申し込まれた。しかし、どれほど整った相手でも、どれほど申し分のない令嬢でも、胸が高鳴り熱を持つことはない。
彼女だけだ。そう思った瞬間、胸元の奥深くに隠した小さな布の存在が、ひどく熱を持ったような気がした。




