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第八章-3 届いた手紙

 王城は少しずつ賑わいを帯び始めた。ルナーリアの生誕祭が近いのだ。十三歳を祝う今年の会は、例年よりやや盛大に行われる予定らしく、城内ではその準備が進められていた。宴の装飾、招待客の確認、献立の調整、楽師たちの手配。侍女や侍従たちがいつも以上に忙しなく行き交っている。

 アルシオは久しぶりに王城の書庫へ足を向けた。学園の図書館とはまた違う、静かな重みのある空間。そこは子供の頃から、自分にとって安心できる場所だった。

 書庫に入る手前、回廊の角を曲がった矢先に、控えめに交わされていた声が耳に入り、思わず立ち止まる。


「……本当に、エストリアの首相のご令嬢と?」


「創設祭でも、年末の舞踏会でも、ずいぶん近しいご様子だったと聞きましたわ」


「まあ。では、いずれはご婚約なさるのでしょうか」



 侍女たちは、アルシオに気づかないまま、話し込んでいた。しかし、こちらの気配に気づくと、彼女たちは慌てて口をつぐみ、深く頭を下げた。


「も、申し訳ございません。皇子殿下」


「……いいよ」


 そう答えて通り過ぎながらも、心のどこかが静かに冷えていく。噂になっているのだ。学園の中だけのことが、もう王城でも。

 しかもそれは、ただの親しい友人としてではない。エストリア首相の娘。王城の人間がそう口にする時、その先にあるのは必ず家柄と立場だ。懇意にしている、で終わるはずがない。

 書庫の扉を閉めると、ここは古い紙と革の匂いに満ちている。アルシオは目を閉じて、深く息を吐いた。胸の奥に浮かぶのは、あの人の笑顔だった。けれど、その笑顔の向こうに、今まで考えずにいられたはずの現実が、少しずつ輪郭を持ち始めている。

 エストリアの首相の娘と、セレスティア皇国の第一皇子――その関係が意味するものを、王城はきっと、感情のままには見ない。不意に、扉の向こうからまた別の声が聞こえた。


「ですが、もし本当にそうなら、家柄としては申し分ないのでは?」


「だとしても、彼の国の令嬢では、アルシオ様のお立場に相応しいとは言えませんわ」


「それなら、国内の有力貴族からどなたか娶られた方が――」


 書庫の外での噂話なのに、その言葉は嫌でもはっきりと聞こえた。誰も悪意を込めて言っているわけではない。だが、当然のように、立場と家柄が前提で語られている。そのことが、余計に重く、アルシオの心を沈めていく。王城では、それが当たり前なのだ。――それが、アルシオの現実なのだ。



 *



 ある日の夕刻、アルシオは自室で一人、窓辺に立っていた。冬の陽はもう傾きかけている。薄く茜を含んだ光が、室内の床や机の端を静かに染めていた。王城の自室は、学園の部屋よりも広く、調度品も落ち着いて整っている。見慣れたはずの景色なのに、どこか手持ち無沙汰だった。

 不意に、控えめなノックが響く。


「アルシオ様」


「どうぞ」


 返事をすると、扉が静かに開いた。入ってきたのは、アルシオ付きの侍女だった。恭しく一礼したその手には、ひとつの封書がある。


「エストリアより、お手紙が届いております」


 その一言に、胸の奥がわずかに跳ねた。侍女は机の上へ封書をそっと置く。厚みのない、けれど丁寧に封じられた手紙だった。差し出しを見ると、見慣れた筆跡だった。今いちばん見たいと思っていた名が、そこにあった。


「ありがとう」


「失礼いたします」


 侍女が静かに退室し、部屋には再び静寂が落ちる。アルシオはしばらく、その封書を見つめたままだった。

 つい先ほどまで重く沈んでいたはずの心が、そっと灯りに照らされた感覚だった。筆跡は柔らかく愛らしい。

 封を切り、広げた紙に並ぶ文字は、思った通り少し勢いがあって、けれど所々止まった形跡がある。何を考えながら、ペンを取っていたのか、彼女の顔が胸に想い起こされる。


 皇国の冬はどんなふうかしら。

 エストリアは比較的温暖だけれど、それでもやっぱり冬は寒いわ。


 読み進めるうちに、知らず肩の力が抜けていくのが分かった。創設祭のことをまだユリウスが口にしていること。アルシオのことも褒めていたこと。遠乗りへ行ったこと。相変わらず本ばかり読んでいるのではないかと、少し呆れたように書いてあるところまで、まるでアエラ本人が目の前で話しているみたいだった。


 今度、あなたとも行けたら素敵ね。


 その一文で、手が止まる。風を切って馬を駆るアエラの姿が、ありありと思い浮かんだ。親睦競技会の時の、陽を受けて駆ける横顔。自由で、まっすぐで、眩しかった姿。その隣に自分がいる光景まで、思わず想像してしまう。


 少しだけ、口元が緩む。けれど、次の一文を読んだ時、胸の奥はもっとやわらかくなった。


 ……ただし、怪我には気をつけること。

 これだけはちゃんと守ってね。


 その言葉は、思っていた以上に深く沁みた。王城で聞いた噂。立場。家柄。そんなものが、冷たい現実として胸に差していたはずなのに、この手紙はそれをほんの少しだけ脇へ押しやってくれる。


 学園に戻るのが待ち遠しいの。

 また会えるのを、楽しみにしています。


 その最後の一文は胸の奥深くへまっすぐ落ちてきた。それは決して大仰な言葉ではない。けれど、今のアルシオにとっては、それだけで十分だった。遠く離れていても、自分を思い出してくれる人がいる。また会いたいと、同じように思ってくれている人がいる。


 それだけで、現実の重さに押し潰されずにすむ気がし

 た。先ほどまで胸に残っていた冷たさが、少しずつほどけていく。アルシオは手紙を大事そうに胸元へ引き寄せ、静かに目を閉じた。


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