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第八章-1 冬の別れ

 

 舞踏会の翌日から、学園の空気は少しずつ別の慌ただしさに塗り替えられていった。廊下には帰省用の荷を抱えた生徒たちが行き交い、寮の各部屋では侍従や従者たちが忙しなく出入りしている。窓の外を吹く風はすっかり冬の匂いを帯びていて、朝の中庭には白く淡い霜さえ降りるようになっていた。


 一ヶ月、冬期休暇が設けられ、希望する生徒は帰省が認められた。長いようで、きっとあっという間だ。そう頭では分かっている。けれど、そう言い聞かせるほど、離れる時間がやけに長く思えた。

 教室の窓辺に立ちながら、アルシオは中庭を見下ろしていた。石畳の上を、何台もの荷車が行き交っている。行き先の違う馬車、別れを惜しむ友人たち、笑い合う声、名残惜しそうな表情。学園じゅうが、束の間の別れへ向けて少しずつほどけていくようだった。


「皇子殿下」


 背後から声がして振り返ると、アエラが立っていた。いつもの制服姿だ。けれど、その顔を見ただけで、胸の奥が暖かくなる。


「……帰る支度、終わったの?」


 努めていつも通りに尋ねると、アエラは小さく肩をすくめた。


「一応ね。あなたは?」


「僕も、だいたいは」


 それだけの会話なのに、妙にぎこちない。舞踏会の夜を境に、何かが変わったことだけは、もう互いに分かっていた。アエラは窓辺まで歩いてくると、アルシオの隣に並んだ。肩が触れるほどではない。けれど、以前よりは少しだけ近い距離だった。


「一ヶ月なんて、あっという間よね」


 励ますようでもあり、自分に言い聞かせるようでもある声だった。アルシオは思わず、少しだけ笑った。


「……そうだね。」


「帰省中は、何するの?」


「妹の誕生祭があるから、それに出るくらいかな。後は、ゆっくりするつもり」


「そうなのね。きっと賑やかな生誕祭になるでしょうね」


 ふふっと笑顔を向けるアエラに、アルシオもつられてほほ笑む。二人は笑いあい、アエラはふと視線を外へ向けた。中庭の先、冬枯れの木立を見つめる横顔は、どこか静かだった。


「……手紙、書くわね」


 小さな声だった。風に紛れてしまいそうなほどだったのに、アルシオの耳にはひどくはっきり届いた。胸の奥が、静かに鳴る。


「僕も」


 そう返すと、アエラがこちらを見る。緑の瞳が、わずかに揺れていた。


「ほんとに?」


「うん」


「絶対よ?来なかったら泣くから」


「それは、後が怖いなぁ」


 アエラはふっと笑った。その笑い方が、ひどくやわらかい。


「分かってるじゃない」


 それから少しのあいだ、二人は黙ったまま中庭を見ていた。話したいことは、きっと少なくなかった。舞踏会のこと。生徒会のこと。休暇のあいだのこと。新年が明けたあと、また戻ってくる学園の日々のこと。けれど、いざ口にしようとすると、どれも少し違う気がしてしまう。言葉にした途端、今この時間が本当に終わってしまう気がした。

 やがて、廊下の向こうからレックスの声が響く。


「アルシオ、そろそろ出るぞ」


 帰り支度を終えたのだろう。少し低い、いつもの声が現実へ引き戻すみたいに響いた。


「……もう、そんな時間」


 アエラが小さく息をつく。アルシオは頷いた。胸の内では、もっとここにいたいと思っているのに、足はもう行かなければならない時間を知っていた。


「じゃあ、元気でね」


「リーナも」


 アルシオはそっとアエラの髪をひとふさとって、指を通す。別れを惜しむように。アルシオの行動に驚いて、アエラは目を見開く。途端に顔が赤くなる。


「……な、に?」


 うまく言葉にならず固まるアエラを見て、アルシオも我ながら気恥ずかしくなる。


「……なんでもない」


 アルシオは視線を逸らした。けれど、耳が赤くなっていた。アルシオの意外な反応にアエラはまた驚く。


「ちょっと、顔見せて」


「嫌だ」


「いいじゃない!」


 アルシオの腕を掴み、前のめりに覗き込もうとするアエラ。アルシオは必死に顔を背け、その場を逃げようとする。


「もう行くから!」


 アルシオは一歩だけ身を引き、急足で扉まで向かう。扉を開けようとして、足を止めた。まだ少し頬が赤いが、アエラへと顔を向ける。


「じゃあ、また来年」


「ええ」


 短い返事だった。けれど、その一言の中に、次に会うことを当然のように含めているのが嬉しかった。窓辺に立つアエラが、こちらを見ている。冬の淡い光の中で、緑の瞳だけがひどく鮮やかだった。

 その姿を胸に焼きつけるようにして、アルシオは歩き出した。


 *


 学園の正門前には、すでに何台もの馬車が並んでいた。帰省する生徒たちがそれぞれに家の者と合流し、別れの挨拶を交わしている。賑やかなはずの声も、どこか名残惜しさを含んでいた。

 セレスティア皇国の紋章を掲げた馬車の前で、レックスが荷を確認している。アルシオがそこへ歩み寄ると、すぐに顔を上げた。


「遅かったな」


「ごめん」


「……別れはすんだか?」


「……うん」


 さらりと言われて、アルシオは少しだけ気恥ずかしい思いだ。けれどレックスは、それ以上何も茶化さなかった。ただ荷台の紐を確かめながら、低く言う。


「一ヶ月なんて、あっという間だろ」


「君まで同じこと言うんだ」


「実際、新年が明けたら、またすぐ戻るんだからな」


 その言い方に、アルシオは少しだけ笑う。また戻る。またあの学園で、彼女に会える。それだけで、離れる寂しさの中にも、かすかな救いがあった。

 馬車へ乗り込む前、アルシオはもう一度だけ学園の方を振り返った。正門の内側、石段の上に、アエラたちの姿が見える。ユフィーリアと並んで立ちながら、こちらを見ていた。


 目が合った瞬間、アエラがごくわずかに手を上げた。大きく振るわけではない。誰にも気づかれないほど控えめな仕草だった。けれど、それが自分へ向けられたものだと分かるだけで、胸の奥があたたかくなる。

 アルシオもまた、小さく手を上げ返した。それだけなのに、離れることがこんなにも惜しいのだと、初めて知った。

 馬車がゆっくりと動き出す。学園の門が遠ざかっていく。冬の空気は冷たいはずなのに、胸の内には舞踏会の夜から続く熱が、まだ消えずに残っていた。


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