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第七章-4 公然の秘密 【挿絵あり】

※アルシオとアエラの挿絵があります。

 舞踏会の当日は、朝からひどく冷え込んでいた。夕刻が近づくにつれ、空気はいっそう澄み、吐く息は白く夜気へ溶けていく。学園の中庭や回廊には、すでに灯りがともり始めていた。石造りの校舎は冬の気配の中で厳かに佇んでいるのに、今夜ばかりはどこか華やいで見える。

 アルシオもまた礼装の支度を進めていた。歓迎社交会の時より、今度の舞踏会はずっと公の意味が強い。次年度の生徒会発足が告げられる場であり、その中で自分はアエラの隣に立つことになる。先日、皇国から届いた礼装は、歓迎会の時よりも明らかに格式が高かった。白を基調とした上衣に、皇国の色である紫が差されている。表は白だが、左肩へだけ掛ける短いマントの裏地は深い紫で、動くたびに控えめな色が覗く。金糸の刺繍は華美に流れず、あくまで上品に生地の上を走り、そこへ黒が細く入ることで全体の印象は甘くなりすぎず、凛と引き締まって見えた。これは、皇国の第一皇子としての装いだ。アルシオは鏡の前でその姿を見つめ、それから小さく息をつく。

 ふと、小箱の中からハンカチーフを取り出した。乳白色で、淡い緑の刺繍があしらわれている。そっと胸元へと忍ばせた。誰にも分からないところにだけ、彼女の色があれば、それで十分だと思った。


 *


 男子寮から女子寮へ向かう道すがら、アルシオはいつになく口数が少なかった。


「緊張してるのか?」


 数歩後ろからついてきていたレックスが、少し面白がるような声で言った。


「……レックスには隠せないな」


「何年一緒にいると思ってる。それくらいわかる」


 呆れたように言いながらも、レックスの声音は軽い。今夜の彼は、アルシオの付き添い兼護衛という立場で、少し控えた位置を歩いている。舞踏会なのだから、彼だって誰かを誘っていてもおかしくない。実際、ここ数日、何人かの女子生徒から声をかけられていたのをアルシオも知っていた。


「レックスも、誰かと行けばよかったのに」


 思わずそう言うと、レックスは肩をすくめる。


「俺はいいよ。お前から目を離すわけにいかないからな」


「何人か女の子に声かけられてなかった?」


「知ってたのか……」


 ぶっきらぼうな返しだったが、全て断ってしまったようだ。


「……もったいない」


「いいんだよ」


 女子寮の前に着くと、すでに何人もの男子生徒がロビーへ集まっていた。皆、それぞれ正装に身を包み、そわそわと落ち着かない様子で階段の上を見上げている。

 少し離れた場所で、ランスがマリエラを待っていた。彼は今日も一分の隙もない立ち姿で、だがいつもより幾分か柔らかい表情をしている。やがて姿を見せたマリエラが深い色のドレスで彼の前に立つと、二人はごく自然に並び、そのまま先に会場へ向かっていった。

 反対側では、ゲイルが珍しく居心地悪そうに立っていたが、現れたユフィーリアがいつもの優雅な笑みを浮かべて腕を差し出すと、彼は観念したようにその手を取る。どこか噛み合っていないようでいて、不思議と収まりのいい二人だった。

 その様子を目で追いながらも、アルシオの意識は階段の上へ向いていた。胸の奥が、落ち着かない。


「……来たぞ」


 レックスの低い声に、アルシオは顔を上げた。女子寮の二階へ続く階段の上に、人影が現れる。最初に目へ入ったのは、やわらかな橙の色だった。

 薄橙のドレスをまとったアエラが、ゆっくりと階段を降りてくる。冬の灯りの下で、その色は果実のように柔らかく、温かく、けれど決して幼くは見えなかった。肩を出した意匠が、いつもより少しだけ大人びた印象を与えている。華奢な体つきがそのまま線の細い美しさになっていて、視線を逸らせない。緩く結い上げた髪には、細い黒のリボン。ほんの小さな色だった。けれど、アルシオには一目で分かった。息をするのも忘れたように立ち尽くす。


(……綺麗だ)


 アエラもまた、階段の途中でふと足を緩めた。アエラを見上げるアルシオは、白と紫の礼装で、所々に黒色で引き締めている。左肩のマントが揺れるたび、裏地の深い紫が静かに覗く。気品があるのに冷たくはなく、むしろ凛とした美しさが際立っていた。その姿は、彼の身分を隠しようもなく物語っている。


(……あぁ、やっぱり皇子様なのね)


 階段を下りきっても、しばらくどちらも口を開けなかった。先にしびれを切らしたのは、やはりアエラだった。


「……何か言ってよ」


 少しだけ拗ねたような声。アルシオはようやく我に返ったように、息をつく。


「……綺麗だよ」


 それでもまだ足りない気がして、もう一度言葉を足した。


「とっても」


 アエラの頬が、みるみる赤くなる。けれど、逃げるように視線を逸らしながらも、彼女は小さく言った。


「……あなたも」


 それだけで、胸の奥がひどく熱くなる。アルシオは一歩近づき、そっと右腕を差し出した。


「行こうか、リーナ」


 誰にも聞こえないよう、そっと耳元で囁く。吐息が耳にかかり、アエラの肩が跳ね上がる。それでもその一言が嬉しくてたまらない顔をしていた。


「……ええ、アルシオ」


 アエラもごく小さな声で返し、彼女はその腕に自分の手を重ねる。指先が触れた瞬間、二人のあいだを静かな熱が走った。今夜は、長い夜になる。けれどその最初の一歩を、こうして二人で踏み出せることが、何よりも嬉しかった。

 少し後ろを、レックスが一定の距離を保ってついてくる。今夜の彼は付き添い兼護衛という立場だった。舞踏会の空気にそぐわないほど気配を消しているのに、見失うことはない。不思議な安心感があった。

 やがて大広間の前へ辿り着く。重厚な扉の前にはすでに多くの生徒が集まっていた。正装した男子生徒たちと、華やかなドレスをまとった女子生徒たち。冬の夜だというのに、そこだけは別の季節のように華やいで見える。

 係が扉を開くと、温かな空気と光が一気に流れ出してきた。大広間は、まるで別世界だった。

 高い天井からは幾つもの燭台が光を落とし、壁には季節の花と深い色の布飾りが整然と掛けられている。磨かれた床は灯りを映して淡く輝き、奥には楽団が控えていた。すでに集まっている生徒たちのざわめきと、楽器の調律の音が、ひとつの夜を形にしている。

 アルシオとアエラが並んで入った瞬間、あちこちから視線が向くのが分かった。


「……すごい見られてるわね」


 アエラが小さく呟く。


「うん」


「やっぱり、生徒会の件はもう知られてるのかしら」


 そう言いながらも、彼女自身、その理由がそれだけではないと分かっている。アルシオは答えず、ただ、優しくアエラの横に立っている。

 やがて正面の階段上に学園長が姿を見せると、ざわめきは次第に収まっていった。年末舞踏会の開会を告げる挨拶は簡潔だった。今年一年を締めくくること、次年度から新入生を迎え学園が新たな段階へ進むこと、そしてそのために学生自治の新たな形として生徒会を発足させること。

 その言葉に続いて、学園長は初期メンバーの名を読み上げた。


 アルシオ・セレスティア。

 アエラマリーナ・アルタイル。

 ランス・オルトリアン。

 マリエラ・ブライト。

 ザンザス・ロクスウェイ。

 エレン・ポープス。


 会場の視線が再び集まる。アエラは一瞬だけ息を整え、それから真っ直ぐ前を見た。緊張していないはずがない。けれど、その横顔にはもう、逃げる気配がなかった。

 会長として名を告げられた時、空気がわずかに動くのが分かった。驚きや、納得の声、好奇な目線。様々な感情があっただろう。だが、それでも最終的には、彼女がそこに立つことが自然に思えてしまう。そんな強さが、たしかにあった。

 学園長の隣で一礼したアエラを見ながら、アルシオは胸の内で小さく思う。やっぱり、君でよかった。


「さぁ、話はこれまでにして、今夜は楽しもう!」


 発表が終わり、学園長の一声で、楽団が最初の曲を奏で始める。開会の最初の一曲は、今夜の中心となる者たちが踊ることになっていた。

 アルシオはアエラへ向き直る。淡い橙のドレス。黒いリボン。少しだけ強張った表情。けれどその奥には、隠しきれない熱がある。

 アルシオは手を差し出す。


「踊ってくれる?」


 アエラは一瞬だけ目を伏せ、それからそっと微笑んだ。


「ええ」


 大広間の中央へ出ると、視線がいっそう集まるのが分かった。けれど、もう不思議と怖くはなかった。隣にいるのが彼女だからかもしれない。音楽に合わせて一歩目を踏み出す。楽の音に合わせて、二人はゆるやかに大広間の中央を回っていた。

 歓迎社交会の時とは違う。あの時はただ、アエラが半ば強引にアルシオを表へ引っ張り出しただけだった。けれど今は、互いに相手の歩幅を知っている。どこで呼吸が重なり、どの瞬間に手を添えれば自然に次の一歩へ移れるのかも、もう身体が覚え始めていた。

 ひとつ旋回した拍子に、アエラの視線がふとアルシオの胸元へ落ちた。白を基調とした礼装。皇国の色である紫。揺れるたびに覗くマントの裏地。金糸の刺繍。そこへ、ごく控えめに忍ばせたハンカチーフの端。その縁に、淡い緑が見えた。


「……え」


 思わず零れた声に、アルシオが目を落とす。


「どうしたの?」


「それ……」


 アエラの視線はアルシオの胸元へ釘付けになっている。やっと気がついてくれた。アルシオを見上げたアエラに微笑みを向ける。返答するかわりに、腰へ回した手に、わずかに力をこめた。


「アルシオ……っ」


「なに?」


 落ち着いた声音だった。けれどその目は、どこか楽しそうに揺れている。


「反則だわっ!」


 アルシオはふっと笑った。


「リーナもでしょ?」


 その一言で、黒いリボンのことだと分かった。髪に結んだ小さな黒。気付いていないと思っていた。けれど、彼はちゃんと見つけていたのだ。

 アエラの頬がみるみる赤くなる。耳まで熱を持っていくのが、自分でも分かった。逃げたいのに、今は彼の腕の中で踊っている最中で、どうしようもない。


「嬉しいな」


 やわらかく落ちてきたその言葉に、胸の奥がきゅうと締まる。


「……気づいてたの」


「そりゃね、わかるよ」


 あまりにも自然に返されて、アエラはますます言葉を失う。


「じゃあ、なんで今まで何も言わなかったのよ」


 少しだけ睨むように言えば、アルシオはその顔ごと愛しむみたいに目をやわらげた。


「リーナが気づくのを待ってた」


 その瞬間、アエラはもうまともにアルシオを見ていられなかった。こんなの、ずるい。自分だけがこっそり忍ばせたつもりでいたのに、彼も同じように自分の色を身につけていたなんて。指先に力が入る。アルシオの肩へ置いた手を、無意識にきゅっと掴んでしまう。


「……ほんと、ずるい」


「そうかな」


「そうよ」


 拗ねたように言い返すのが精一杯だった。けれどアルシオは、困ったように笑うどころか、むしろその反応をひどく大事そうに見つめている。

 大広間の灯りが揺れる。音楽はまだ続いている。周囲には大勢の人がいるはずなのに、その瞬間だけは、二人のあいだにある空気だけがひどく甘く、やわらかかった。

 最後の音が静かに流れ落ちると、二人は自然な所作で一礼し、そっと手を離した。普通なら、ここで一度別れる。次の曲は別の相手と踊る。少なくとも舞踏会という場では、それが自然な流れだった。

 けれど、――少し待っても、誰も来ない。視線だけは感じる。けれど、二人の間へ割って入ろうとする者は、一人もいなかった。アエラが先に、小さく苦笑する。


「……誰も来ないわね」


 アルシオも周囲を見渡してから、わずかに息をついた。


「……もう一回踊る?」


 その言葉に、アエラは一瞬だけ目を丸くした。けれど次の瞬間には、どこか吹っ切れたように肩の力を抜く。


「……ま、いっか」


 そう言って、また彼の手に自分の手を重ねる。


 二曲以上、同じ相手と踊ることの意味など、二人とも知っていた。それでも今は、もうそれを気にする方が遅すぎる気がした。建前に守られて、ほんの少しだけ本音に触れられる夜。そのはずだったのに、たぶんもう、建前だけでは隠しきれていない。

 それでも誰も何も言わないのは、皆、分かっていて触れないでいてくれるからだろう。公然の秘密になっている。――けれど悪くない、とアルシオは思った。少なくとも今夜だけは、こうして彼女と並んでいられることの方が、何より大事だった。






挿絵(By みてみん)







 壁際からその様子を見ていたレックスは、ふっと小さく息を吐いた。灯りの下で向かい合う二人は、あまりにも自然だった。周囲の目を引くのは、皇子と首相令嬢という肩書きだけではない。視線の交わし方も、触れ合う指先も、互いへ向ける表情も、もう隠しようがないほど柔らかい。

 幼い頃から、アルシオを見てきた。静かで、理性的で、何事にも感情を大きく表へ出さない主だった。笑うことはあっても、今のような顔は見たことがない。あんなふうに、甘く穏やかな目で誰かを見るのか。その事実が、レックスにはどこか感慨深かった。皇子として求められるものは多い。これから先、アルシオはきっと今以上に多くのものを背負っていく。それでも、ああして誰かと並び、心から安らいだような顔をできるのなら、それはきっと悪いことではないのだろう。

 守るべきものが、また一つ増えたのだと、レックスは静かに思った。



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