第一章-1 入学
エストリア共和国。正式には、評議制都市連合共和国――海に面した大陸の玄関口として栄えてきた商業国家である。
王や皇帝が統べる国ではなく、複数の都市がそれぞれの利害を持ち寄り、評議によって国を動かしている。首都ソルフランを束ねる現首相は、ユリウス・アルタイル。その才覚と実績、そして人々からの支持によって、この国の舵を取る男だった。
そのユリウスが、かねてより構想し、開設へと漕ぎつけたのが、ソルフラン国際学園である。各国の若者たちが身分を越えて集い、互いを知り、理解し、交流を深めること。それが、この学園の掲げる理念だった。
もっとも、その建前の裏に、もうひとつの意図があることは明らかだった。未来の統治者候補たちを若いうちから同じ場に集め、小さな箱庭の中で国家間交流を学ばせること。教養と相互理解を育む場であると同時に、ここは各国の未来を静かに結びつけるための場所でもあった。
入学を許されるのは、王族や貴族の子弟が中心である。だが、富豪商人の子や、推薦を受けた平民にも門戸は開かれているという。三年制、完全寮制度。学生たちはその間、寝食を共にしながら学ぶことになる。だが、王族まで他の学生と同じように相部屋というわけにはいかない。防犯上の理由もあり、アルシオには専用の個室が、そして従者であるレックスにも別室が用意されていた。高位貴族の子弟たちにも、概ね同じような配慮がなされているらしい。
セレスティア皇国第一皇子、アルシオ・セレスティアもまた、その第一期生としてこの地を訪れていた。
皇国を離れ、異国で三年を過ごす。傍らには、幼い頃から変わらず付き従ってきた乳兄弟にして従者、レックスの姿がある。
海からの風が、窓の外でやわらかく木々を揺らしている。知らない土地。知らない学び舎。知らない人々。胸の奥に、かすかな緊張があった。けれど同時に――本の中でしか知らなかった広い世界が、今ようやく、自分の手の届く場所へ現れようとしていた。
入学式に備え、アルシオは寮の自室で制服に袖を通していた。
ソルフラン国際学園の制服は、皇国の衣装とはやはり趣が違う。白を基調としたブレザーの襟や袖口には深い青があしらわれ、胸元には学園の紋章が銀糸で刺繍されている。仕立ては上質で、動きやすさにも配慮されていたが、それでも着慣れない服はどこか落ち着かなかった。ワイシャツもズボンも深い青で、全体的に落ち着いた色合いだ。
鏡の前で襟元を整えながら、アルシオは小さく息を吐く。今日から、ここでの日々が始まる。三年という歳月は、決して短くない。しかも此処は皇国ではない。海の匂いを含んだ風も、窓から見える街並みも、すべてが見慣れなかった。
控えめなノックのあと、扉が開く。
「アルシオ、準備できたか?」
入ってきたのは、同じ制服に身を包んだレックスだった。従者とはいえ、彼もまた学生の一人だ。もともと体格のいいレックスのほうが、アルシオよりも制服を着こなしているように見える。茶髪を軽く整えたその姿は、普段よりも少し大人びて見えた。
「……うん、だいたいは」
そう答えながらも、アルシオはまだ袖口を気にしている。レックスはそんな様子を見て、呆れたように笑った。
「なんだよ、珍しく落ち着かない顔してるな」
「別に」
「してるって。昨日の夜から、ちょっと静かだし」
図星を刺され、アルシオは鏡越しにレックスを見た。
「レックスこそ、随分そわそわしてるよ」
「そりゃそうだろ。今日から学園だぞ? 他国のやつらもいっぱい来るんだろうし、どんな連中がいるのか気になるじゃないか」
隠しもしない率直さに、アルシオは少しだけ肩の力を抜いた。こういうところは、昔から変わらない。知らない場所でも、レックスがいるだけで少し空気がいつものものになる。
「……変なのに絡まないでよ」
「それは向こう次第だな」
「もう」
思わず漏れた声に、レックスがにっと笑う。アルシオはもう一度だけ鏡の中の自分を見た。黒髪、茶色の瞳。皇国の皇子としては異質な色彩を映した少年が、見慣れぬ制服を纏って立っている。
「……行こうか」
小さく呟くように言うと、レックスは力強く頷いた。
「ああ」
二人は並んで部屋を出た。長い廊下の先には、まだ見ぬ学園の日々が待っている。誰と出会い、何を知り、何を選ぶことになるのか――アルシオはまだ、何ひとつ知らなかった。
学園の門をくぐると、同じ制服を着た同年代の若者たちが、あちこちにあふれていた。談笑する者、緊張した面持ちで辺りを見回す者、すでに打ち解けた様子で笑い合う者――その誰もが、これから始まる新しい日々への高揚を滲ませている。
その中で、アルシオの姿は否応なく人目を引いた。この学園に在籍する皇族は、アルシオただ一人だった。落ち着いた雰囲気と整った容姿に加え、常に従者であるレックスを伴っていることもあって、学園に姿を見せた直後から、彼の行く先には自然と視線が集まった。
もっとも、アルシオ自身はそうした視線には慣れていた。廊下のあちこちから向けられる好奇の眼差しも、ひそやかな囁きも、今さら気に留めるほどのものではない。後ろから女生徒たちの弾んだ声が聞こえてきても、振り返ることなく、そのまま歩みを進める。
アルシオたちに声をかける者はいない。皆、遠巻きに視線を向け、内輪で何事かを囁いている。だが、それを不思議だと思ったことはなかった。最初から、そういうものだったからだ。




