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プロローグ

皇国のアリーシャの続編です。

また徐々に投稿していきますので、よろしくお願いします。

 ――書庫は、今日も静かだった。

 窓から差し込む光は、厚いカーテン越しにやわらかく拡がり、整然と並ぶ本棚と、古い木の机を淡く照らしている。

 室内の一角、備え付けの卓上には、読みかけの書物がいくつも高く積まれていた。まだ幼い少年の細い腕には少し重たそうな革表紙の本ばかりだ。その山に埋もれるようにして、ひとり黙々と頁をめくっているのは、黒髪に茶色の瞳を持つ、セレスティア皇国の第一皇子――アルシオだった。

 もう長いこと、そこに腰掛けたまま本を読んでいる。けれど、アルシオにはそれは少しも苦では無かった。周りの喧騒から離れ、一人没頭できるこの空間が何よりも大好きだった。

 ――しかし、それを壊しにやってくるのも、いつもの人物だ。足音が聞こえてきたと思えば、勢いよく扉が開かれる。


「やっぱりここにいた!アルシオ!」


 乳兄弟のレックスだ。息を切らし、今日はいつになく興奮した様子である。


「行くぞ!今日は王配殿下だけじゃなくて、ジーク様も稽古に付き合ってくれるって!」


 アルシオの顔がわずかに歪む。面白いところだったのに、この乳兄弟はいつもこうして邪魔しにやってくるのだ。だが、アルシオが拒んだところで、この乳兄弟は決して引かない。結局、折れるのはいつもアルシオの方なのだ。


 小さくため息をつき、アルシオは本を閉じた。


 ジークハルトが稽古をつけてくれる日は、父もいつも以上に熱が入る。それに、二人の打ち合いを間近で見られるのは、アルシオにとっても嫌いではない。むしろ、少し楽しみなくらいだ。

 父の剣は静かだ。強引に押し込むのではなく、相手の動きに合わせて受け流し、ほんのわずかな綻びを拾って繋げていく。対するジークハルトの剣は、もっと自由だった。鋭く、速く、時に型を外れたように見えるのに、不思議と崩れない。次にどこから来るのか分からない、その読めなさが見ていて面白い。

 まるで違う二人なのに、剣を交えるたびに互いの呼吸を噛み合わせていく。その打ち合いを眺めるのは、純粋に楽しい。

 けれど、そんな気持ちを悟られるのは癪で、アルシオは何でもない顔を装ったまま立ち上がる。


「……少しだけだからね」


「よしっ!」


 ぱっと顔を輝かせたレックスに手を引かれ、アルシオは書庫をあとにした。


 向かった先の中庭には、すでに王配であるルークと、ルークの侍従のジークハルトの姿があった。二人のそばでは、アルシオの弟・エクシオが木剣を握って待ちきれない様子で立っている。少し離れた場所には、幼い妹ルナーリアがちょこんと腰を下ろし、侍女らと共にルークたちを大人しく見つめていた。

 先にルナーリアが二人に気づき、ぱっと顔をほころばせた。


「お兄様! レックス!」


 金色の髪を揺らしながら駆け寄ってくる。紫の瞳をきらきらと輝かせたその姿は、幼い頃の母によく似ていると皆が口を揃えるだけあって、愛らしさのかたまりのようだった。末の妹であるルナーリアを、アルシオもエクシオも目に入れても痛くないほど可愛がっている。ルナーリアの方もまた、兄たちのことが大好きで、こうして姿を見つけるたび嬉しそうに駆け寄ってくるのだった。

 ルナーリアはアルシオの胸に飛び込み、満面の笑みで見上げてきた。


「お兄様も稽古するの?」


「うん。レックスに誘われたからね」


「アルシオが本の虫になってたからな!」


「レックス、お兄様を連れてきてくれてありがとう!」


 ルナーリアは、レックスへもにこりと微笑みかける。そこへ侍女たちが歩み寄ってきた。


「姫様。さ、お邪魔になりますから、あちらで見ていましょうね」


 ルナーリアは名残惜しそうにしながらも、侍女に手を引かれて元いた場所へ戻っていった。


 アルシオとレックスは、ルークとジークハルト、そしてエクシオの待つ方へ歩み寄る。


「来たか、アルシオ」


 父であるルークは、やわらかく微笑みながらアルシオの頭を撫でた。父の大きな手に触れられると、少しだけ気恥ずかしくて、それでも嬉しい。安心するような、守られているような気持ちになるからだ。すると案の定、エクシオがすぐに身を乗り出す。


「父上! 僕も!」


 負けじと頭を差し出す弟に、ルークは小さく笑い、今度はエクシオの髪をくしゃりと撫でた。エクシオは嬉しそうにぱっと顔を輝かせる。


「兄様! 一緒に稽古をつけてもらいましょう!」


 アルシオは少し体をほぐしてから木剣を受け取った。構えれば自然と背筋が伸び、意識がすっと研ぎ澄まされていく。


「では、まずは軽く打ち合ってみましょうか」


 ジークハルトが口元に笑みを浮かべながら言った。今日は稽古着姿で、いつもの飄々とした空気はそのままなのに、木剣を握った途端に纏うものが変わる。


「よし。レックス、来い」


「はいっ!」


 真っ先に返事をしたのはレックスだった。勢いよく前へ出るその姿に、ジークハルトは苦笑する。


「気合いは十分だな。だが、がむしゃらに振るなよ。相手の動きをよく見ろ」


「……はい!」


 返事は立派だが、顔には隠しきれない興奮が浮かんでいる。そんな乳兄弟を見て、アルシオは小さく息をついた。


「レックス、肩に力が入りすぎだよ」


「お前が落ち着きすぎなんだよ!」


 即座に返されて、アルシオは少しだけ口元を緩めた。


 一方、エクシオはもう待ちきれない様子で、木剣を胸の前でぎゅっと握りしめている。


「父上! 僕は!? 僕は兄様とやりたいです!」


「焦るな、エクシオ」


 ルークが静かにたしなめる。けれどその声音は厳しすぎず、むしろどこか楽しんでいるようだった。


「まずはアルシオからだ。見ていなさい」


「……はい」


 頬を少し膨らませながらも、エクシオは素直に下がった。


 先に始めたのはレックスだった。ジークハルトの前に立つと、勢いのまま打ち込む。悪くはないが、真っ直ぐすぎる。ジークハルトはそれを軽々と受け流し、木剣の先で足元を軽く叩いた。


「うわっ」


「今の一歩が大きい。踏み込みすぎると戻れなくなる」


「っ……もう一回!」


「元気だなぁ」


 ジークハルトは笑いながらも、今度は少しだけ真面目に構える。その横で、ルークはアルシオへ視線を向けた。


「アルシオ」


「はい、父上」


「お前もやってみろ」


 アルシオは頷き、一歩前へ出る。向かい合ったのは、ルークだった。


 父と向き合うと、それだけで空気が変わる。優しい眼差しのままなのに、隙がない。アルシオは木剣を構え、呼吸を整えた。


「来い」


 アルシオは迷わず踏み込んだ。斜めに打ち込み、すぐに引く。受けられることは分かっている。けれど、その次を考えながら動くのは嫌いではない。木剣が乾いた音を立てる。すぐさま二手目を入れようとしたが、その前に軽く打ち返され、構えがわずかに崩れた。


「……っ」


「悪くない」


 ルークが言う。


「だが、考えるのが少し早いな。次を読むのはいい。だが、今の一太刀がおざなりになっている」


 その言葉に、アルシオは息を整えた。もう一度、踏み込む。今度は一撃に集中する。木剣がぶつかり、手のひらにびり、と痺れが走った。

 少し離れたところで見ていたルナーリアが、小さく声をあげる。


「お兄様、すごい……!かっこいい!」


 その無邪気な声に、エクシオも負けじと身を乗り出した。


「兄様! そこです!」


「エクシオ様がやってるわけじゃないだろ」


 ジークハルトがレックスの相手をしながら笑う。


 アルシオは呼吸を整えながら、もう一度木剣を構え直した。父の前では、気を抜けない。けれど同時に、この時間が嫌いではなかった。頁をめくるときとは違う、身体の奥が少し熱を帯びる感覚。きっと、自分は剣も好きなのだ。ただ、ーー本の中へ沈むほど深くは、のめり込めないだけだ。


 数度打ち合ったあと、ルークが木剣を下ろした。


「ここまで」


 アルシオも剣を下ろし、小さく息を吐く。掌はじんわりと熱を持ち、額にはうっすら汗が滲んでいた。


「筋は悪くない。お前はよく見えている」


 ルークの言葉は短い。けれど、その一言だけで十分だった。アルシオがわずかに目を伏せると、すぐ横からエクシオが飛び込んでくる。


「兄様、次は僕とやりましょう!」


「……少し休ませて」


「えー!」


「エクシオ、その前に父様に来なさい」


 そのやり取りに、ジークハルトもレックスも笑い、ルナーリアは嬉しそうに小さな手を叩く。中庭には、やわらかな陽射しと、子どもたちの明るい声が満ちていた。


 しばらくすると、母アリーシャ付きの侍女であるネリーが、アルシオとレックスを呼びにやって来た。アリーシャはこのセレスティア皇国の女皇である。今日は来客があるのだと、朝にアリーシャは言っていた。だが、そこへ自分たちまで呼ばれる理由が、アルシオには分からない。


「ネリー、何かあったの?」


 そう尋ねてみたものの、ネリーはいつもの静かな表情のまま、わずかに目を和らげただけだった。


「お母様にお尋ねくださいませ、アルシオ様」


 それ以上は教えるつもりがないらしい。その返答に、アルシオは小さく首を傾げた。


 向かった先は、王城の貴賓室だった。

 来客は、隣国エストリア共和国の首相、ユリウス・アルタイルである。アリーシャの正面に座るその男は、ゆったりとした異国風の衣装を纏い、どこか肩の力の抜けた優雅さを漂わせていた。柔らかな笑みを浮かべながら、アルシオたちへ視線を向ける。


「こんにちは、アルシオ皇子殿下。それに、そちらの従者くんも」


 穏やかな声音だった。けれど、次いで口元に少しだけいたずらっぽい笑みを乗せる。


「……はじめまして、ではないんだよね。実は君の生誕祝賀のときに、一度会っている。もっとも、覚えているわけはないだろうけれど」


 ユリウスは、王城の重臣たちとも、皇国の貴族たちとも少し違う。偉い人のはずなのに、威圧感がない。けれど、笑っているだけで、人をよく見ているのが分かる。アルシオは背筋を伸ばし、手を胸に当て礼をする。


「アルシオ・セレスティアです。僕の生誕の折にご参列くださったのですね。その節は、ありがとうございました」


 ユリウスはその返答に、一瞬きょとんとしたような顔を見せた。けれど次の瞬間、堪えきれないように声を上げて笑いだす。


「あっはっは!すごいね!そんな返し方ができるなんて。末恐ろしいな!うちの娘と大違いだ!」


 腹を抱えて笑っているユリウスに驚いて、母を見ると、少し苦笑いして、ソファーの横の席へと促された。隣に座るとふわりと香るアリーシャの存在に少しホッとする。ひとしきり笑ったユリウスが本題を切り出す。


「さて、今日は将来が楽しみな君に、面白い話を持って来たんだ」


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