第4章-3 夕暮れの教室
放課後の教室には、斜めから差し込む夕陽が長く影を落としていた。
模擬評議会の準備が本格化してからというもの、こうして居残ることも珍しくなくなった。けれど今日は、いつもと少し違う。
少し前、ノアに呼ばれて、ユフィーリアとゲイル、それに付き合ってレックスまでもが席を外してしまったのだ。書類の確認だとか、各クラスの進捗に関する確認だとか、そんな用件だったらしい。
教室に残ったのは、アルシオとアエラだけだった。静かだった。
昼間はあれほど賑やかな場所なのに、人がいなくなるだけで、こんなにも空気の温度が変わるのかと思う。窓の外では、夕暮れの風が木々を揺らしている。机の上には資料が広げられたままで、さっきまで交わされていた議論の名残がそこかしこに残っていた。
アルシオは手元の紙へ視線を落としたまま、ふと違和感を覚える。いつもなら、少しでも沈黙が続けばアエラが何かしら口を開くはずだった。だが、今日はやけに静かだ。顔を上げると、数列向こうの机に突っ伏したまま、アエラが眠っていた。
アルシオは少しだけ目を見開く。どうやら、待っているうちに眠ってしまったらしい。頬を片腕に埋め、もう片方の手は開いたままの資料の上に置かれている。普段はまっすぐ前を向いて、次から次へと言葉を投げてくるのに、こうして黙っていると驚くほど静かで、年相応の少女らしさがあった。
夕陽が窓から差し込み、赤みを帯びた茶の髪をやわらかく照らしている。長い睫毛が頬へ影を落としていた。
――こんなふうに、眠るんだ。
妙なことを考えながら、アルシオはそっと席を立った。起こすつもりだった。たぶん。けれど気づけば、足は自然とアエラの机の前まで進んでいる。そして、なぜだかそのまま、彼女の正面にしゃがみ込んでいた。
閉じられた瞼。少しだけ開いた唇。寝息はひどく静かで、けれど確かに生きている気配だけが、夕暮れの教室の中でそこにあった。
アルシオは知らず、息を詰める。
いつも動き回って、笑って、怒って、言いたいことをまっすぐぶつけてくるアエラが、今は無防備に眠っていた。そもそも、こんなに近くでじっと顔を見たことはなかった。
そのときだった。長い睫毛が、ふるりと震える。
「……ん……」
小さな声が漏れ、アエラの瞼がゆっくりと開いた。緑の瞳が、真っ先にアルシオを映す。近すぎる距離のまま、ぱちりと目が合った。
数拍、沈黙が落ちる。
それから、みるみるうちにアエラの頬が赤くなった。
「――っ!?」
飛び起きるように身を起こした拍子に、椅子の脚ががたんと大きな音を立てる。勢い余って、身体がそのまま後ろへ傾いた。
「アエラ!」
咄嗟にアルシオが腕を掴む。
だが、急に引いたせいで今度は自分の体勢まで崩れた。机の脚に膝がぶつかり、支えきれない。
倒れる。
そう思った瞬間、アルシオは反射的にアエラの頭へ腕を回していた。次の瞬間、二人まとめて床へ倒れ込む。鈍い音がして、息が詰まった。けれど、アエラの頭は打っていない。アルシオの腕が、どうにかその後ろへ入っていた。
ただ、その代わりに。覆い被さるような格好で、二人は床の上に固まっていた。密着した身体の感触。見た目通りに華奢で柔らかい胸。息がかかるほどの距離で、互いの顔がある。アエラの瞳は驚きに大きく見開かれたままで、その頬は夕陽よりも赤い。アルシオもまた、自分の心臓の音が耳元で鳴っているように感じていた。
無言だった。
何秒そうしていたのか、自分でも分からない。ようやく、アルシオがかすれた声で言う。
「……ごめん」
するとアエラは、そこでようやく我に返ったらしい。
「な、何してんのよ――!」
悲鳴に近い声だった。アエラは慌ててアルシオを押しのけるようにして身を起こすと、そのまま立ち上がり、ほとんど逃げるように窓辺へ駆けていく。
「アエラ」
「来ないで!」
きっぱり言い切ると、アエラは長いカーテンの陰へ半ば飛び込むように身を隠した。夕陽に透けた薄布の向こうに、赤くなった輪郭だけがぼんやり映る。アルシオは床に片膝をついたまま、しばらく動けなかった。
何が起きたのかは分かっている。けれど、心がまだついていかない。頭を打たせまいとしたことも、咄嗟だったことも本当だ。けれど、それだけではない何かが、今の一瞬に確かにあった気がしてならなかった。
「……大丈夫?」
ようやくそう声をかけると、カーテンの向こうでアエラがぴくりと動く。
「大丈夫じゃないわよ!」
「え」
「なんであんな近くにいるのよ!」
その声音は怒っているようでいて、いつもの勢いとはどこか違っていた。むしろ、ひどく動揺しているように聞こえる。アルシオは思わず口をつぐむ。だが、そのあとに出てきたのは、言い訳にもならない本音だった。
「……起こそうと思って」
「起こすのに、あんな近づく必要ないでしょう!?」
「それは……」
ない、はずだった。そう言おうとして、言葉に詰まる。なぜ近づいたのか。なぜしゃがみこんでまで寝顔を見ていたのか。自分でも、うまく説明ができない。
その沈黙が答えになったのか、カーテンの向こうでアエラがさらに小さくなる気配がした。
「もう……知らない」
消え入りそうな声だった。アルシオはようやく立ち上がる。けれど、カーテンへ近づくことはできなかった。
教室にはまた静けさが戻っていた。けれどさっきまでとはまるで違う。どこか、空気そのものが熱を持っているようで、夕暮れの光さえ落ち着かない色に見える。しばらくして、扉の外から複数の足音が近づいてくる。
「あれ、まだ終わってないのか?」
レックスの声だ。アルシオが振り向くのと、扉が開くのはほとんど同時だった。戻ってきたレックスの後ろには、ユフィーリアとゲイルの姿もある。
「……何してるんですか?」
最初に異変に気づいたのは、やはりユフィーリアだった。床に落ちた椅子、乱れた紙、そして窓辺のカーテンに半ば隠れるアエラ。そこから教室の中央に立ち尽くすアルシオへ視線が移る。レックスが眉をひそめる。
「なんだ、この状況」
「ち、違うのよ!」
カーテンの向こうから、真っ赤な声が飛んできた。
「何が違うんだよ」
「うるさい!」
レックスがますます訳が分からない顔になる。その横で、ゲイルは一瞬だけアエラを見、それからアルシオへ視線を移した。
何かを察したような、けれど口にはしない苦い目だった。ユフィーリアはそんなゲイルを横目で見て、何も言わずに小さく息をつく。
「……とりあえず、椅子を直しましょうか」
結局、そう言って場を収めたのも彼女だった。アルシオは黙って椅子を立て直しながら、まだ胸の奥が落ち着かないのを感じていた。カーテンの向こうに隠れたままのアエラも、しばらくこちらを見ようとしなかった。たった一瞬の出来事だったはずなのに、その前と後とでは、何かが確かに変わってしまった気がした。
結局、そのあとの教室では誰も露骨に何かを言わなかった。ユフィーリアは静かな顔で散らばった資料を整え、ゲイルも必要最低限のやり取りしかしない。けれど、二人ともアエラの様子から何かしら察しているのは明らかだった。アエラは最後までどこか落ち着かず、アルシオとまともに目を合わせようとしなかった。
放課後の空は、すでにやわらかな茜色へ傾いていた。寮へ戻る道すがら、アルシオとレックスは並んで歩いていた。石畳の上に二人の影が長く伸びている。風は涼しいのに、アルシオの胸の内だけが妙に熱を持ったままだった。隣を歩くレックスは、珍しくしばらく何も言わなかった。その沈黙が、かえって落ち着かない。やがて、前を向いたまま、ぽつりと口を開く。
「……で?」
アルシオは顔を上げた。
「何が?」
「とぼけるなよ」
レックスは呆れたように息をついた。
「さっきの教室だよ。お前、明らかに変だった」
そこで初めて、アルシオは言い返せなかった。変だった。それは、自分でも分かっている。
「別に……」
「別に、で済む顔してない」
きっぱり言われ、アルシオは小さく黙り込む。レックスは歩調を少し緩めた。責めるでもなく、ただ言葉を選ぶような間がある。
「お前がアエラのこと、どう思ってるのかって話だ」
その言葉に、胸の奥がひどく静かになった気がした。
「どうって……」
「気になるならなるでいいし、特別なら特別でいい。けど、お前、自分でもはっきりできてないだろ」
痛いところを突かれて、アルシオは視線を落とした。恋だとか、そういうものはまだわからない。けれど、他の誰かと同じかと問われれば、それは違うと分かる。
「……よく分からない」
ようやく出たのは、そんな曖昧な答えだった。レックスは笑わなかった。ただ、予想通りだと言いたげに眉を動かす。
「分からない、ね」
「でも、――特別じゃないのかって聞かれたら、それも違うと思う」
レックスがちらりと横を見る。アルシオは前を向いたまま、言葉を継いだ。
「他の子とは違う。話してると、気になるし……今日だって、あんなふうに顔を赤くされたら、ずっとそれが頭から離れなくて」
言葉にするほど、胸の内の何かが少しずつ輪郭を持っていく気がする。だが、それをまだ“恋”と呼ぶには、どこかためらいがあった。
「……ふうん」
レックスはそれだけ言った。からかいも茶化しもない。むしろ、思っていた以上に真面目な声音だった。
「じゃあ、もう答えは出かけてるんじゃないのか」
「え?」
「少なくとも、どうでもいい相手にそんな顔はしないだろ」
そう言われて、アルシオは何も返せなくなる。夕暮れの風が、二人のあいだを抜けていった。レックスは少しだけ先を見て、それから、いつもより低い声で言う。
「……ただ」
「ただ?」
「もしお前が本当にアエラを特別に思うなら、今後どうしたいのかは、そのうちちゃんと考えろよ」
その言葉は、静かだったぶん重かった。
「今後……」
「お前は皇子なんだから」
レックスの声に責める響きはなかった。ただ、幼い頃からずっとそばにいた者だけが知っている現実があった。アルシオはすぐには答えられない。けれど、その問いが胸の奥に残ったまま、簡単には消えないだろうことだけは分かった。
寮の灯りが見えてくる。隣でレックスは、それ以上何も言わなかった。それがかえって、ありがたかった。
*
翌朝、教室へ向かう足取りは妙に重かった。別に体調が悪いわけではない。眠れなかったわけでもない。ただ、扉を開けた先にアエラがいるかもしれないと思うだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。こんなことは初めてだった。
「ほら、止まるなよ」
レックスに軽く肩を押されて、アルシオはようやく教室の扉を開けた。朝の教室には、すでに何人かの生徒が来ていた。いつものざわめき。いつもの朝。けれど、その中に、見慣れた赤みがかった茶の髪を見つけた瞬間、心臓がどくりと鳴る。アエラもまた、入ってきた二人に気づいたらしい。ぱちりと目が合う。
それだけなのに、昨日の夕暮れの教室が一気によみがえってきた。近すぎた距離。熱を持った頬。カーテンの陰に逃げ込む姿。
「……お、おはよう」
先に視線を逸らしたのは、アエラの方だった。しかも、どこか不自然に早口だ。
「おはよう」
アルシオも返す。返したつもりなのに、自分でも少し声が硬いと思った。そこへ、ユフィーリアが何事もなかったように微笑んだ。
「おはようございます、お二人とも」
「おはよう、ユフィーリア」
その穏やかさに少しだけ救われる。だが、ゲイルは机に肘をついたまま、じろりと二人を見たあと、わざとらしく視線を外した。何も言わない。言わないけれど、それがかえっていろいろ分かっているようで落ち着かない。レックスだけは、自分の席に着きながら、ちらりとアルシオを見た。何も言わない。だが、その目だけで「ほらな」と言われた気がして、アルシオは余計に居心地が悪くなる。
講義が始まるまでの短い時間、アエラはいつもよりずっと大人しかった。机に頬杖をつくこともなく、アルシオの席までずかずか来ることもない。ノートを開いたり閉じたりしながら、時々こちらを見そうになっては、すぐに視線を逸らしている。それはアルシオも同じだった。
気になるけれど、どう話しかければいいのか分からない。昨日のことを何もなかったように流すべきなのか、それとも一言何か言うべきなのか。考えれば考えるほど、ますます身動きが取れなくなる。
結局、そのぎこちなさが破れたのは、一時限目の終わりだった。休み時間のざわめきが戻った頃、アエラが席を立つ。何か言おうとしているのは分かるのに、なかなかこちらへ来ない。いつもの彼女なら考えるより先に動くのに、今日は明らかに違っていた。その様子を見ていたユフィーリアが、ふっと息をつく。
「アエラ」
「な、なによ」
「行くなら行ったら?」
「別に、行こうとしてるわけじゃ……」
「そうですか」
にっこり微笑まれて、アエラは言葉に詰まる。そして半ば勢いのまま、アルシオの席までやってきた。
「……昨日は、その」
珍しく、言い淀む。アルシオは思わず背筋を伸ばした。
「うん」
「さ、叫んだのは……ごめん」
最後の方はほとんど小声だった。それでも、アエラがちゃんと謝ろうとしているのだと分かる。アルシオは少しだけ目を丸くしたあと、首を振った。
「僕の方こそ、ごめん。起こそうとして、あんな近くにいたのは……その……」
言い訳を探そうとして、結局見つからない。アエラはそんなアルシオを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「やっぱり変な人」
「ごめん。自分でもわからない」
ようやく交わせた、少しいつもに近いやり取りだった。けれど、完全に元通りではない。言葉の間に、どこか意識してしまう空白が残っている。
一方、レックスは腕を組んだまま、二人の様子を眺めていた。昨日まではまだ、ぼんやりとした違和感だった。だが今は、もっとはっきりしている。アルシオにとって、アエラの存在がかけがえのないものになってることに。それを止めるつもりはない。ただ、その先にあるものの重さを知っているからこそ、胸の奥にわずかな緊張が残る。
教室の窓から、朝の光が差し込んでいた。いつものようでいて、昨日までとは少しだけ違う一日が、静かに始まっていた。




