第四章-1 模擬評議会に向けて
親睦競技会が終わっても、学園の空気にはほんの少しだけあの日の高揚が残っていた。少しずつ日常に溶けていくのと引き換えに、アルシオの中にはまだ、競技会の余韻が残っていた。
レックスに敗れた悔しさ。ランスに突きつけられた問い。風を切って駆けるアエラの眩しさ。どれも胸の奥に沈んだまま、まだ完全には形を持たない。
そんなある日のことだった。講義を終えたホームルームの時間、ノア・ヴェルデンはいつものように出席簿を閉じると、片眼鏡を指先で押し上げた。
「さて、諸君。少し先の話になりますが、来月、第一期生による模擬評議会を実施します」
その一言で、教室に小さなざわめきが広がった。
「模擬評議会?」
「また面白そうなことを……」
「何をするの?」
そんな囁きを一通り受け流してから、ノアは穏やかな声のまま続ける。
「皆さん。再来月には、この学園の創設祭が催されるのはご存知ですね」
いきなりの話の転換に半ばついていけない者もいる。しかし、ノアは構わず続ける。創設祭――ソルフラン国際学園創設を祝う催しであり、学園がこの日だけ広く外へ開かれる特別な一日だ。公開講義、展示、実技の披露が企画されている。来賓も多く訪れ、創設者であるユリウス・アルタイルをはじめ、各国の関係者や有力者も顔を揃える予定だ。皇国からも、誰か来るのだろうか。母は国を離れられないだろうから、父か、宰相あたりだろうかーーそう考えながら頭の中には家族の顔が浮かぶ。
「議題は、創設祭によって得られた収益を、どのように活用するべきか、です」
アルシオは少し意識を戻した。
「各クラスで意見をまとめ、代表者が評議会の場で議論していただきます」
ノアは教壇へ手を置いた。
「無論、ただ理想を述べればよいというものではありません。実現性、継続性、そして他者をどれだけ納得させられるかも含めて評価の対象となります」
教室の空気が、そこで少しだけ変わる。
最初は面白そうな催し程度に思っていた者たちも、どうやら単なるディベートでは済まないらしいと察したのだろう。
「代表一名、副代表一名のほか、庶務、書記、監査などの役割は各クラスで決めてください。なお、事前交渉は認めます。他クラスとの接触も禁じません」
その言葉に、ざわめきが一段深くなる。
「え、それって根回しありってこと?」
「交渉次第で票も動くのか」
「そこまで含めて、ってことか……」
ノアはそこで一拍置き、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「もっとも、規定違反までを才覚とは呼びませんので、その点は各自の良識に委ねます。……良識が足りないと判断した場合はこちらで補いますが」
柔らかな言い方なのに、最後の一言だけは妙に冷えていた。教室のあちこちで、くすりと笑う者と、わずかに身を固くする者が入り混じる。
「なお、最終的な勝敗は、評議内容を聞いたうえでの投票によって決します。投票権は第一期生全員にあります。壇上での議論も重要ですが、その前段階でどれだけ支持を得られるかもまた、軽視できないということですね」
そう言ってノアは教室を見渡した。
「時間は、思っているより早く過ぎます。役割決めと意見の集約は、なるべく早いうちに進めるように」
それだけ告げると、彼はいつもの静かな足取りで教室を出ていった。扉が閉まった瞬間、教室の空気が一気に弾ける。
「面白そうじゃない!」
真っ先に声を上げたのは、やはりアエラだった。机へ身を乗り出し、緑の瞳を輝かせている。
「創設祭の収益をどう使うかなんて、第一期生にぴったりの議題だわ」
「君ならそう言うと思った」
アルシオが苦笑すると、アエラは当然と言いたげに顎を上げた。
「だって、学園がこれからどうなっていくのか、自分たちで考えられるのよ?こんなの、面白くないはずないじゃない」
「面白いかどうかはともかく、かなり本格的だよな」
レックスが腕を組み、少しだけ眉を寄せる。
「交渉あり、根回しあり、投票ありって……授業の範囲超えてるだろ」
「でも、だからこそ意味があるんじゃない?」
アエラがすぐに返す。
「模擬とはいえ評議会なんて名前がつくくらいだもの」
「綺麗事だけで勝てるとも思えないけどな」
ぼそりと口を挟んだのはゲイルだった。彼は肘をついたまま、前を見ている。
「収益なんて限られてるんだ。何を優先して、何を後回しにするか、ちゃんと決めなきゃ意味がない」
「だから話し合うのよ」
「その前に」
ユフィーリアが穏やかに手を上げる。
「役割を決めてしまいませんこと?誰がまとめ役になるのかも決まっていないままでは、意見だけ散って終わりますわ」
それはもっともだった。
実際、もう教室のあちこちでは小さなグループができ始め、思い思いに話し出している。このままでは、たしかに収拾がつかないだろう。アルシオがどう切り出すべきか考えた、その時だった。不意に、教室中の視線が集まる。――自分に、だ。
「え?」
思わず声が漏れる。
「妥当だろ」
「新入生代表だったし」
「説明とか、こういうの得意そうだし」
前の席からも、後ろからも、自然とそんな声が上がっていく。アルシオは一瞬、本気で困った。
「僕が代表って、少し目立ちすぎない?」
「何を今さら」
アエラが呆れたように言った。
「目立って上等よ。クラスの顔ですもの」
言い方は相変わらず遠慮がない。けれど、その声にははっきりと信頼があった。
「少なくとも、適当に騒ぐやつがやるよりはいい」
ゲイルもぶっきらぼうに言う。
「皇子殿下が前に立って、アエラが横から口を出すくらいが、ちょうどよさそうですものね」
ユフィーリアの補足に、教室のあちこちで小さな笑いが漏れた。
「ちょっと、何その言い方」
「否定できるか?」
「……できなくはないわよ」
むっとしながらも、アエラの声音はそこまで強くない。結局、それ以上の異論は出なかった。アルシオはその空気を見回し、わずかに息を吐く。
「……分かった。僕でいいなら、引き受ける」
その言葉と同時に、教室のあちこちから拍手が起こる。
「じゃあ、決まりね」
アエラがすぐに言う。
「副代表は、アエラね」
今度はアエラの方が目を瞬かせた。
「私?」
「推進力があるし、意見を引っ張っていける。たぶん、僕一人だとインパクトが弱いから」
「……あまり褒められてる気がしないのはなぜかしら?」
「褒めてるよ」
アルシオが答えると、アエラは一瞬だけ黙り込んだあと、ふっと笑った。
「いいわ。引き受ける」
「庶務はユフィーリアで異論ないだろ」
ゲイルが言うと、今度もあっさりと周囲が頷く。
「監査はゲイルがいいと思うけど」
ユフィーリアがそう言えば、ゲイルは露骨に嫌そうな顔をした。
「なんで俺なんだ」
「一番細かいところにうるさいもの」
「うるさいって何だ」
「褒めてますわ」
ユフィーリアはにこやかに言い切る。
そのやり取りにまた笑いが起こり、ゲイルは不本意そうに眉をひそめながらも、最終的には何も言わなかった。最後に残った視線が、レックスへ向く。
「俺はいいよ。向いてない」
そう言った途端、アエラがいけしゃあしゃあと答えた。
「大丈夫!ぴったりの役があるわ!」
「なんだよ」
「やかまし係」
「は?」
「時々、妙に核心だけ突くじゃない」
「絶対面白がってるだろ」
レックスがますます顔をしかめる。けれど、その場にいた何人かが妙に納得したように頷いているのを見て、余計に不満そうな顔になった。
「納得するなよ!そこ」
「でも、案外合ってるかもしれない」
アルシオが口元を緩めると、レックスは心底不服そうに肩をすくめた。
「……もう何でもいい」
そうして、ようやく役割が決まった。
代表、アルシオ。
副代表、アエラ。
庶務、ユフィーリア。
監査、ゲイル。
そして、やかまし係――レックス。
肩書きの格はともかく、妙にしっくりくる布陣だった。窓の外には、午後の柔らかな光が差している。これから、意見をまとめ、他クラスの動きを探り、来月の模擬評議会へ向けて準備を進めていかなければならない。けれどその最初の一歩としては、悪くない始まりだった。
「じゃあ、さっそく意見を出し合いましょう」
ユフィーリアが静かにノートを開く。アエラはすでに言いたいことが山ほどある顔をしている。ゲイルは面倒そうに見えて、その実きちんと残るつもりらしい。レックスは腕を組みながらも席を立たなかった。しばしの沈黙のあと、最初に口を開いたのは、やはりアエラだった。
「私は、この収益を“今後この学園がもっと必要とされるためのこと”に使うべきだと思うわ」
いきなり核心から入るあたりが、いかにも彼女らしい。教室のあちこちで、何人かが顔を上げる。
「必要とされるため?」
前列の席の男子生徒が聞き返した。
「そうよ」
アエラは頷いた。
「この学園はまだできたばかりでしょう。中にいる私たちは、ここがどれだけ面白くて価値のある場所か少しずつ分かってきてる。でも、外から見ればまだ“新しい学校”でしかないわ。だったら創設祭を、ただのお祝いじゃなくて、この学園がどんな場所で、どんな人たちを育てていくのかを示す場にするべきじゃない?」
その言葉に、アルシオは少しだけ目を見開いた。
目の前のことだけではなく、その先を見ている。
アエラの強みは勢いだと思っていた。けれど今の言葉には、それだけではない視野の広さがあった。
「つまり、見せ方を整えるってことか?」
別の席から声が上がる。
「ええ。公開講義をもっと分かりやすくしたっていいし、展示の内容を充実させてもいい。来賓向けの案内や記録を整えて、来年以降にも“今年の創設祭は価値があった”って思わせることが大事だと思うの」
「外向けってことね」
ユフィーリアが静かに確認するように呟いた。だが、そこでゲイルが口を挟んだ。
「……それ、外面ばっかりじゃないか」
教室の空気が少しだけ張る。アエラの眉がぴくりと動いた。
「どういう意味?」
「そのままの意味だ」
ゲイルは肘をついたまま、淡々と続ける。
「見せ方を整えるのは悪くない。でも、まず学園の中身が伴ってなきゃ意味ないだろ。図書館だってまだ蔵書が足りない分野があるし、実技場だって整備が必要だ。来賓の目を気にして表だけ綺麗にしても、肝心の学ぶ側が不便なままなら本末転倒だ」
「表だけ綺麗にしようなんて言ってないわ」
アエラが即座に返す。
「でも、内側だけ整えて満足してたら、この学園は広がらないでしょう?」
「広がる前に足元が崩れたら終わりだ」
「あなた、ほんと夢がないわね」
「そっちは現実が足りない」
ぴしゃりと応酬が交わされる。今にもまた言い合いが激しくなりそうな空気に、レックスが腕を組んだまま低く言った。
「まあ、どっちも言ってることは分かるけどな」
皆の視線がそちらへ向く。
「見栄えだけ良くてもだめだし、内輪だけで完結してても広がらないだろ。どっちかだけじゃ駄目なんじゃないのか」
「……やかまし係、さっそく仕事してるじゃない」
アエラが半ば呆れたように言うと、レックスは顔をしかめた。
「その呼び方やめろ」
小さな笑いが起こる。張りつめかけていた空気が、少しだけ和らいだ。そのタイミングで、ユフィーリアがノートへさらさらと何かを書き込みながら口を開く。
「今出た意見は、大きく分けると二つですわね。ひとつは、創設祭を通して外へ価値を示すために使うべき、という案。もうひとつは、学園内部の基盤や設備を整えるために使うべき、という案」
「あと、継続性もあると思う」
アルシオは自然とそう言っていた。
「継続性?」
アエラが首を傾げる。
「うん。一度きりで使って終わるのか、それとも来年以降にも繋がる形で残すのか、ってこと」
自分で言葉にしながら、アルシオは机の上へ一枚の紙を引き寄せた。そこへ、今出た意見を簡単に書き分けていく。
外へ示す価値。
学園内部の充実。
継続性。
「なるほど」
ユフィーリアが小さく頷く。
「たしかに、それは分けて考えた方がよさそうですわね」
「でも、結局どれを優先するの?」
アエラが問う。緑の瞳はまっすぐだった。いつものように勢いだけで急かしているのではない。ちゃんと答えを求めている目だ。アルシオは少しだけ考えた。
「まだ決めるのは早いと思う」
「また丁寧にやるのね」
「丁寧にしないと、通る案にはならないから」
そう返すと、アエラは一瞬だけ黙り、それからふっと息をついた。
「……まあ、そうだけど」
完全には納得していない顔なのに、引き下がる。その様子に、アルシオは少しだけ口元を緩めた。
「たとえば、創設祭で得た収益を使って何をしたいのか。そこを具体的に出した方がいいと思う。公開講義を充実させるのか、展示記録を残すのか、図書館や実技場の整備なのか、それとも別のことか」
「奨学生の受け入れ枠を広げるのも、学園の理念には合っていそうですわね」
ユフィーリアが言う。
「たしかに」
誰かが頷いた。
「それなら“この学園が開かれている”ことも示せる」
「でも創設祭一回の収益でそこまで賄えるのか?」
「継続的な資金にならなきゃ厳しいだろ」
議論はそこでまた広がっていった。奨学生の拡充。図書館蔵書の増強。実技場の設備改善。来賓向け記録冊子の整備。公開講義の充実。創設祭を来年以降へ繋ぐための基金化。意見は散っていた。けれど、散っているからこそ、それぞれがこの学園の何に価値を感じているのかが見える。アルシオはそのひとつひとつを聞きながら、言葉を紙の上へ書き留めていった。前へ出て強く言う者もいれば、ぽつりと重要な指摘をする者もいる。理想を語る声も、現実を突きつける声もある。そのどれもが、ここでは無駄ではない気がした。
「……ねえ」
不意に、アエラが少しだけ身を乗り出す。
「あなたはどう思うの?」
「僕?」
「代表なんだから、ただ書き留めてるだけじゃなくて、自分の考えも言って」
促されて、アルシオは手元の紙を見下ろした。外へ価値を示すこと。内側を支えること。今だけで終わらせないこと。どれも間違っていない。だからこそ、まだ答えはひとつに絞れない。
「……今は、まだ決めきれない」
正直にそう言うと、アエラは少しだけ呆れた顔をした。
「優柔不断」
「慎重って言ってほしいな」
「同じようなものじゃない?」
そこへゲイルが鼻を鳴らす。
「いや、違うだろ。今適当に決める方が危ない」
「ゲイルが庇うなんて珍しいわね」
「庇ってない。ただ、ここで勢いだけで決めるのはまずいって話だ」
そのやり取りを聞きながら、ユフィーリアはノートを閉じた。
「でしたら今日は、まず各案の利点と欠点を洗い出すところまでにしません? 意見の軸が見えてきましたもの」
その提案に、教室のあちこちで同意の声が上がる。アルシオも頷いた。
「そうしよう。次までに、各自でもう少し考えてきてもらえると助かる」
代表らしいことを言った、と思った瞬間、アエラがにやりと笑った。
「少しは板についてきたじゃない、代表殿」
「からかわないでよ」
「褒めてるのよ」
本当にそうなのかは怪しかったが、その声に悪意はなかった。放課後の教室には、まだやわらかな光が差している。窓の外では風が木々を揺らし、昼間の喧騒が少しずつ遠のいていく。
最初はただ新しい催しの告知だと思っていた。けれどこうして意見をぶつけ合ってみると、模擬評議会はただの授業ではないのだと実感する。この学園が何を目指し、何を価値あるものとするのか。その一端を、自分たちの言葉で決めようとしている。アルシオは机の上の紙へ視線を落とした。まだ、まとまってはいない。けれど、ここから形になっていくのだろう。そしてその過程を、なぜだか少しだけ楽しみにしている自分がいた。




