第三章-4 ランスの問い
表彰が終わり、会場の熱気がゆっくり散り始めた頃。アルシオは少しだけ喧騒を離れ、実技場脇の回廊へ足を向けた。熱を持った空気から抜け出したかったのか、それとも別の理由があったのか、自分でもよく分からない。石造りの回廊には、夕方の風が涼しく抜けている。
「皇子殿下」
不意に呼ばれ、アルシオは足を止めた。振り返ると、そこにいたのはランスだった。表彰台の上にいた時と同じ、まっすぐな姿勢。だが人目の届かない場所に立つ今の方が、かえってその圧は濃く感じられた。ランスは静かに一礼する。
「ガルデ国オルトリアン公爵家次男、ランス・オルトリアンと申します。遅ればせながら、ご挨拶を」
アルシオもまた小さく礼を返した。
「セレスティア皇国第一皇子、アルシオ・セレスティアです。こちらこそ」
「本日の競技、観戦いただきありがとうございました」
「本当に強かった」
率直にそう言うと、ランスはほんのわずかに目を細めた。
「……そう言っていただけるのは光栄です」
だが、そのまま去る気配はない。短い沈黙のあと、ランスは静かに言葉を継いだ。
「ですが、私が気になったのは、むしろ貴方の方です」
アルシオは少しだけ目を瞬いた。
「僕?」
「ええ」
声音は落ち着いている。けれど、その奥に抑えた熱があるのが分かった。
「剣を握っている時の貴方には、確かに熱があった。あれほどのものを持っているのに、どうして普段は何も持たぬような顔をしているのです」
アルシオは答えなかった。ランスはその沈黙ごと見据えるように続ける。
「社交会でも見ていました。求められれば応じておられた。だが、自ら前へ出ようとはしない。従者もまた、貴方を波風から遠ざけるように付き従っている」
その言葉に、反射的にレックスの顔が浮かぶ。
「……何が言いたいの?」
問い返すと、ランスは真っ直ぐアルシオを見た。
「貴方は王になる方だ」
静かな一言だった。けれど、重かった。
「であれば、貴方自身の意思がどこにあるのか、私には見えない」
胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
「貴方は何を望んでいるのですか」
風が、二人のあいだを抜ける。すぐには答えられなかった。ランスはそれ以上追い詰めることはせず、わずかに頭を下げた。
「差し出がましいことを申しました。ですが、あれほどの剣の腕を持ちながら、何も背負う気がないように見えるのは、私には理解しがたかった」
そう言って踵を返しかけ、最後に一度だけ振り向く。
「……もし意思があるのなら、いずれはっきり示していただきたい」
そのまま去っていく背を、アルシオはただ見送ることしかできなかった。競技会で負けた悔しさとは違う痛みが、胸の奥へ沈んでいく。自分はセレスティア皇国を継ぐ。そう思っている。それが自分の意思ではないのか。なぜ、即答できなかったのか。何を望んでいるのか。すぐには答えられない問いだけが、静かに、深く刺さっていた。その場に立ち尽くしていると、遠くから聞き慣れた声が飛んできた。
「――いた!」
顔を上げると、回廊の向こうからアエラが駆けてくるところだった。陽の傾きかけた光を受けて、赤みを帯びた茶の髪が揺れる。その後ろでは、ユフィーリアがやや呆れた顔で歩いてきていた。
「急にいなくなるんだもの。探したのよ」
「ごめん。少し、風に当たりたくて」
そう答えると、アエラはじっとアルシオの顔を見た。
「……ふうん?」
何か言いたげな声音だったが、そこへ後ろからレックスの声が重なった。
「おい、遠くへ行くなよ」
表彰のあと、まだ人に捕まっていたらしい。わずかに鬱陶しそうな顔をしながらも、手には模擬剣優勝の記章が握られている。ゲイルもその後ろにいて、腕を組んだままこちらを見ていた。
「悪かったね」
「悪かったで済むか。何かあったらどうする」
ぶっきらぼうに言いながらも、本気で怒っているわけではない。その声音に、アルシオは少しだけ肩の力を抜いた。
「それより」
アエラがぱっと表情を明るくする。
「見た? 私の馬術」
「見たよ」
「どうだった?」
緑の瞳が期待に満ちていて、アルシオは思わず笑った。
「すごく楽しそうだった。馬と一つになってるみたいだったよ」
一瞬、アエラが目を瞬かせる。それから、ぱっと顔を綻ばせた。
「でしょう?」
誇らしげな声だった。
「最後の直線なんて、最高だったんだから。まあ、勝てなかったのは悔しいけど」
「かなり上位だったじゃない」
ユフィーリアがやわらかく言うと、アエラはむっと唇を尖らせる。
「ランスはすごかったわ。馬を信頼してるのがわかるし、馬上の体の使い方もダントツだった」
その名が出た瞬間、胸の奥にさきほどの言葉がよみがえりそうになって、アルシオはわずかに目を伏せた。しかも、アエラが純粋に彼を褒めている。アエラは気づいていないのか、そのまま明るく続ける。
「でも、次は負けないわ。馬と仲良くなるのなら私は負けないもの」
「すごい自信だな」
「当たり前でしょう?」
そう言って笑うアエラの横顔は、夕方の光の中でひどく眩しく見えた。風を切って駆けていた馬上の姿が、ふと脳裏に重なる。同じ一日を過ごしていたはずなのに、彼女はこんなにもまっすぐだ。負けてもなお、次を見ている。その軽やかさが羨ましいのか、眩しいのか、自分でもよく分からなかった。
「皇子殿下?」
呼ばれて顔を上げると、アエラが少しだけ首を傾げていた。
「……何でもない」
「そう?」
まだ少し不審そうではあったが、それ以上は問わず、アエラはふっと息をついた。
「まあいいわ。今日はみんな頑張ったもの。ユフィもすごかったし、ゲイルも惜しかったし、レックスなんて優勝だし」
「“なんて”は余計だ」
レックスがすかさず眉をひそめる。
「うそうそ。圧巻だったわー」
「調子のいい」
「嬉しいくせに」
「うるさい」
いつものやり取りに、ユフィーリアがくすりと笑った。ゲイルも呆れたように息をついている。その光景を見ていると、胸の奥にひっそり沈んでいた重さが、ほんの少しだけ薄らぐ気がした。
実技場を出る頃には、空は茜に染まり始めていた。競技会を終えた生徒たちがそれぞれに感想を語り合いながら寮へ戻っていく。勝った者の高揚も、負けた者の悔しさも、夕暮れのざわめきの中に少しずつ溶けていくようだった。
その帰り道、アエラは馬場での出来事を身振り手振りで語り続け、ユフィーリアが時折たしなめ、ゲイルがぼそりと口を挟み、レックスが呆れながらも付き合っていた。アルシオはその少し後ろを歩きながら、皆の背を静かに見つめていた。
レックスの強さ。
ランスの問い。
風を切って駆けるアエラの姿。
今日一日で見たものは、どれも鮮やかだった。そして、そのどれもが、自分の中に何かを残していた。寮の灯りが見え始めたころ、アエラがふいに振り返る。
「皇子殿下、何そんなに静かなの?」
からかうような声音だった。けれど、その瞳はどこかまっすぐだった。
「今日は疲れたんだよ」
「……それだけ?」
ほんの一瞬だけ、返す言葉に詰まる。レックスが横目で見ているが、何も言わない。
「それだけだよ」
アルシオは小さく息をつき、曖昧に笑った。結局、その日最後まで、ランスの言葉を誰かに話すことはなかった。
夜、部屋へ戻って一人になると、競技会の喧騒がようやく遠のいていく。けれど静かになればなるほど、胸の奥に残った問いだけが、かえって鮮明になった。
――貴方は何を望んでいるのですか。
窓の外には、群青に沈み始めた空が広がっている。剣を握り真剣に向き合う時の高揚感、それは確かに自分の中にあるものだ。そして、普段はそれがどこにあるのか、そんなもの自分すらわからない。
そして思い出すのは、風を切って駆けるアエラの姿だ。あんなふうに、ただ真っ直ぐに前へ進めたなら。そう考えた瞬間、自分の胸に浮かんだ思いに、アルシオはそっと目を閉じた。




