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第四話 満ちる月、あまねく光

『見えざる糸:日本編』の放送後、テレビ局には視聴者からの手紙やメールが殺到した。


その多くは、自らのルーツに思いを馳せ、番組に感謝を伝えるものだった。中でも、涼介の心を捉えた一通があった。


「私の姓は『佐藤』です。日本で一番多いと言われる、ありふれた苗字です。番組を拝見し、もしかしたら私のような者も、歴史上の偉人の血を引いているのかもしれないと、生まれて初めて思いました。例えば、あの藤原道長のような。そんなことは、あり得るのでしょうか?」


涼介は、その短い文章に、何百万人もの日本人が抱いたであろう、素朴で、しかし根源的な問いを見た。彼はそのメールを杏奈に見せた。


「面白いわ、涼介さん」杏奈は微笑んだ。「抽象的な『権力者』ではなく、藤原道長という、具体的な人物に絞って検証してみる。これは、私たちの次の旅の始まりかもしれない」


四度、教授の研究室を訪れた二人を、老教授は待ってましたとばかりに迎え入れた。


「藤原道長、かね。格好の題材だ。平安時代の貴族社会の頂点に君臨し、『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の…』と詠んだ男。彼の遺伝子が、千年後の今、どれほど広がっているか。考えただけでワクワクするじゃないか」


「先生、それは計算できるものなのでしょうか?」涼介が尋ねる。

「もちろん。コンピュータシミュレーションの出番だよ」。教授は、巨大なモニターの電源を入れた。「道長の記録に残る子供の数、当時の貴族の平均寿命や乳幼児死亡率、そして何より重要な、彼の子孫たちがどの程度の割合で臣籍降下し、武士や庶民になっていったか。それらのデータを入力し、仮想の日本社会で千年間、世代交代を繰り返させてみるんだ」


杏奈が、専門家の顔で付け加えた。「一滴のインクを、きれいな水の入った水槽に垂らすようなものです。最初は濃く固まっていてインクが、時間をかけて、かき混ぜられ、やがて水槽全体の水に溶け込んでいく。道長の遺伝子も、それと同じです」


シミュレーションが始まった。モニターには、平安京を示す光点が現れる。そこから、道長の子孫を示す光が、幾筋もほとばしる。世代を重ねるごとに、光はネズミ算式に増え、鎌倉、室町、江戸と時代が下るにつれて、日本列島の隅々にまで広がっていった。ある光は戦乱で消え、またある光は別の光と交じり合い、さらに数を増していく。それは、まるで夜空に広がる天の川のような、壮大な光景だった。


数時間後、シミュレーションは現代に到達し、最終的な確率が弾き出された。研究室に、静かな沈黙が流れる。


「…これは」涼介は、モニターに表示された数字に言葉を失った。


教授は、満足そうに頷いた。


「驚いたかね。現代の日本人が、藤原道長の子孫ではない確率…それは、天文学的に低い。宝くじの一等に、雷に打たれながら当選するよりも難しいくらいだ」


「つまり…」杏奈が息を呑んで続けた。「ほぼ全ての日本人が、彼の子孫である、と?」

「その通りだよ」。教授は言った。「佐藤さんも、鈴木さんも、高橋さんも。君も、私も。我々は皆、あの満月を詠んだ男の血を、多かれ少なかれ受け継いでいる。彼は、自分が望んだのとは違う形で、この国そのものになったんだ」


その事実は、あまりにも重く、そしてあまりにも温かかった。涼介は、番組の新しいゴールを見出した気がした。


取材の最終日、涼介と杏奈は京都の宇治にある平等院鳳凰堂にいた。道長の子、頼通によって建立された、平安貴族の美意識の結晶。水面に映るその姿は、千年の時を超えて、完璧な美しさを保っていた。


涼介は、鳳凰堂を眺めながら、道長が詠んだ歌を口ずさんでいた。


「この世をば…」


この世のすべてが自分のためにあるのだと、満月を見て確信した男。彼の権勢は、やがて歴史の中に消えた。しかし、彼の遺伝子は、彼自身が知る由もない形で、この国の隅々にまで満ち、あまねく光のように、今を生きる人々を照らしている。


「佐藤さんへの、答えが見つかりましたね」杏奈が、隣で静かに言った。


涼介は頷いた。ファインダーを覗くと、鳳凰堂を背景に記念写真を撮る、ごく普通の家族の姿が見えた。ありふれた苗字を持つ、名もなき人々。彼らもまた、道長の子孫なのだ。いや、道長だけではない。源氏も、平氏も、数多の勝者と敗者の血が、複雑に絡み合い、今の彼らを形作っている。


涼介はカメラを下ろし、夕暮れの空を見上げた。やがて、そこに丸い月が昇るだろう。


それは、千年前、道長が見た月と同じ月だ。そして、その月の下に生きる人々は皆、見えない糸で結ばれた、巨大な家族。


番組の最後のナレーションは、もう涼介の頭の中に出来上がっていた。


「あなたは、誰ですか? その問いに、私たちは自分の名前を答えます。しかし、私たちの体の中には、数えきれないほどの物語が眠っています。栄華を極めた貴族も、戦に敗れた武士も、名もなき農民も。その全てが、あなたであり、私なのです。今宵、月を見上げることがあるならば、思い出してください。その光の下で、私たちは皆、繋がっているということを」


涼介は、隣にいる杏奈に微笑みかけた。もう、孤独を感じることはなかった。彼の心は、千年の時を超えて届く、遠い祖先の温かい光で、満たされていた。

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