第五話 15次の血脈
全四回のドキュメンタリーシリーズ『見えざる糸』は、社会現象と呼べるほどの大きな反響を呼んだ。最終話の放送を終えた夜、涼介と杏奈、そして教授は、研究室でささやかな打ち上げを開いていた。古いレコードのジャズが、達成感と心地よい疲労に満ちた空気を静かに揺らしている。
「それにしても」と、涼介がグラスを傾けながら呟いた。「昔、『六人を介せば世界中の誰とでも繋がっている』というシックスディグリー理論を聞いて、面白いけれど、どこか他人事のように感じていました。知り合いの知り合いなんて、結局は他人ですから。繋がりと言っても、その程度かと」
その言葉に、教授は楽しそうに目を細めた。
「黒木くん、君はついに最後の扉の前に立ったようだね。社会的ネットワークと、血縁ネットワークの違い。そして、その驚くべき『近さ』の扉だ」
「近さ、ですか?」
「友人の繋がりは、言ってみれば借り物の糸だ。いつ切れてもおかしくない」と教授は言った。「だが、血縁の繋がりは違う。それは君自身の体の一部であり、決して断ち切ることはできない。そして、その繋がりは、君が思うよりずっと、ずっと密なんだよ。ひとつ、面白い思考実験をしてみようか。フェルミ推定だ」
「フェルミ推定?」涼介は聞き返した。「シカゴにピアノの調律師は何人いるか、みたいな、あれですか」
「その通り。一見、見当もつかないような数量を、いくつかの手がかりを元に論理的に概算する手法だ。これで、『日本人同士の血縁の平均次数』を推定してみようじゃないか」
教授は、白衣のポケットからペンを取り出し、ナプキンに図を描き始めた。
「まず、社会的ネットワークの『六人』という数字を一旦忘れよう。我々が知っている確かな事実から始める。一つ、日本人のMRCAは約600年前、世代にして25代ほど前に存在する。これが、どんなに遠い人でも絶対に繋がる最終保証ルートだ。つまり、あなたからMRCAまで25ステップ、MRCAから相手まで25ステップ。最大でも50ステップだ」
「はい。それは番組でもやりました」
「だが、それはあくまで最大値だ。平均値はもっとずっと小さいはずだ。では、どのくらいか? ここでフェルミ推定の出番だ。重要なのは、歴史上の『遺伝子が混じり合ったポイント』をどう設定するかだね。例えば…そうだな、明治維新の頃を考えてみよう。約150年前だ」
杏奈が、興味深そうに身を乗り出した。
「身分制度が崩壊し、人々の移動が活発になった時代ですね」
「うむ。世代にすれば、だいたい5〜6世代前。当時の日本の人口は約3千万人。では黒木くん、君の6世代前の先祖は何人いるかね?」
「2の6乗で…64人です」
「そうだ。君には64人の先祖がいる。君が道で会った、全く知らない彼にも、同じく64人の先祖がいる。さて、問題だ。君の64人の先祖と、彼の64人の先祖が、3千万人の人口の中で、一人も被らない確率というのは、どのくらいだと思う?」
涼介は考え込んだ。まるで数学のようだ。
教授は楽しそうに続けた。
「厳密な計算は複雑だが、感覚的に捉えてみよう。まず第一に、袋の中の玉の色は均一じゃない。藤原道長のような『ハブ』となった先祖がいるおかげで、特定の色の玉は、他の玉より遥かに数が多いんだ。これだけでも、君と彼の玉が偶然一致する確率は、ぐっと高くなる」
杏奈が頷いた。
「はい。それは番組でもやりました」
「だが、話はそれだけでは終わらない」教授は人差し指を立てた。「そこにもう一つ、極めて日本的な要素…歴史的な都市への人口集中が、この確率を爆発的に引き上げるんだ」
涼介は息を飲んだ。
「いいかね」教授は身を乗り出した。
「世界史的に見ても十指に入る室町や江戸時代の巨大都市は、単なる人口の密集地じゃない。いわば、袋の中に現れた巨大なミキサーだ。地方という袋の隅々から玉(人々)を吸い上げ、その中で高速でかき混ぜ、新たな組み合わせで再び外へ送り出す。君たちの祖先は、広大な袋の中で偶然出会うのを待つ必要はなかった。同じミキサーに吸い込まれ、その中で出会うことが運命づけられていた、とさえ言えるだろう。その結果…」
「ああ、なるほど…。MRCAを特定する上で一番のボトルネックになるのって、離島みたいな最も孤立した地域ですよね。でも、日本みたいに巨大都市が昔からあった場所では…その『ボトルネック』の影響がずっと小さくなるから、大多数の人に限れば、MRCAがぐっと現代に近くなる、とか…?」
その的確な言葉に、教授は満足げに頷いた。
「そのとおり」
教授はペンを置き、涼介の目を見た。
「シミュレーションによれば、多くの日本人同士の血縁の平均次数、つまり、あなたから共通の祖先まで遡り、そこから相手に下るまでの合計ステップ数は、おそらく10から15程度だろうと推定されている」
「15…ですか」涼介は、グラスを置いた。「社会的ネットワークの『六人』よりは、多い数字ですね。でも…」
彼は言葉を切り、考え込んだ。15世代前。一代を25年で計算しても375年前だ。
「15世代というと…それって、江戸時代の初期か中期ですよね? 生類憐れみの令が出ていた頃とか、赤穂浪士が討ち入りした、あのくらいの時代…」
「ええ。そして、ここが一番大切なポイントです、涼介さん」杏奈が、彼の思考を引き取るように言った。「『知り合いの六人目』は、結局他人です。その繋がりは情報が伝わるかもしれないというだけの、希薄なものです。でも、『血縁の十五人目』、つまり十五世代遡って繋がる相手は、他人じゃない。『親戚』なんです」
「…! 親戚…」
「その通りだ」教授が、深く頷いた。「君は、日本中の誰とでも、江戸時代レベルの近さで血が繋がっているということだ。六人という借り物の糸より、遥かに太く、決して切れることのない糸でね。どうだね、数字は大きくとも、意外と近いだろう?」
涼介は絶句した。数字の大小ではない。繋がりの持つ『質』が、全く違うのだ。遠い知り合いではなく、遠い親戚。その言葉の響きは、世界の意味を根底から変えてしまうほどの重みを持っていた。
長年、彼を縛り付けていた孤独という名の鎖が、音を立てて砕けていくのが分かった。自分と他人を隔てていた壁は、幻だったのだ。それどころか、壁など最初から存在しなかった。
「私たちは…」涼介は、ゆっくりと言葉を紡いだ。「他人じゃ、なかったんですね」
その声は、確信に満ちていた。
数日後、涼介は一人で渋谷のスクランブル交差点に立っていた。
信号が青に変わる。あらゆる方向から、巨大な波のように人々が押し寄せる。以前は彼を窒息させそうだった、顔のない群衆。
だが、今は違った。
彼の目には、その一人ひとりが、かけがえのない個人として映っていた。あの青年も、あの老婦人も、笑いながら走っていくあの少女も。誰もが、数えきれないほどの祖先から命のバトンを受け取り、今この瞬間を生きている。そして、その家系図を江戸時代まで遡れば、必ず自分との交差点が存在するのだ。
見知らずの他人だと思っていた人々は、皆、遠い親戚だった。
涼介は、人混みの真ん中で、静かに目を閉じた。雑踏の喧騒が、まるで壮大な交響曲のように聞こえる。自分はもう、迷子ではない。交換可能な部品でもない。この巨大な家族の物語を未来へ紡いでいく、唯一無二の存在なのだ。
目を開けると、交差点の向こう側に、杏奈が立って微笑んでいるのが見えた。涼介も、自然に笑みを返した。
世界を隔てているのは、六人の他人などではない。
世界を繋いでいるのは、たった一人の共通の祖先から始まる、驚くほど近い親戚たちの、終わらない物語だ。
涼介は、その温かい真実を胸に、未来へと続く人の波の中へ、確かな一歩を踏み出した。
こちらのエピソードで終了です。おまけで日本と世界のシミュレーションを投稿しておきました。




