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第三話 日本のMRCA

ドキュメンタリー第二弾の成功は、プロデューサーをさらに熱狂させた。


「次は日本だ、黒木くん!チンギス・ハンも凄いが、もっと視聴者の身近な話になる。絶対に当たる!」


涼介は杏奈と顔を見合わせた。彼らも、同じことを考えていた。世界、そして大陸の壮大な物語を見てきた今、この「日本」という括りは、一体何を意味するのだろうか。


再び、あの埃っぽい研究室の扉を叩く。老教授は、二人の来訪を予期していたかのように、にこやかに言った。


「日本かね。面白いテーマだ。大陸とは、また少し事情が違うからな」


教授は、日本地図を広げた。


「まず第一に、この国は島国だ。大陸と地続きの国々に比べれば、遺伝子の出入りは遥かに少ない。つまり、より限定された集団の中で、何世代にもわたって交配が繰り返されてきたということだ。これは、MRCAが存在する年代を、さらに現代へと引き寄せる要因になる」


「より最近になる、ということですか?」杏奈が尋ねる。

「その通り。劇的に、だ。世界のMRCAが古代ギリシャの時代まで遡るのに対し、日本人に限定すれば、最新の統計モデルではわずか600年ほど前…世代にして20数代を遡るだけでいい。室町時代の頃には、すでに存在したと推定されているんだよ」


涼介は息を呑んだ。「600年前…たった20数代前ですか。応仁の乱とか、そのくらいの時代ですね?」


「まさに。戦乱で人の移動が激しくなり、古い身分制度が崩れ始めた時代だ。遺伝子が、日本という坩堝の中で激しく混じり合った。そして、もう一つ、強力な要因がある」。教授は、歴史書の一葉を指差した。「権力者が多くの子孫を残すことだよ。もちろん、これは日本だけの現象ではない。だが、遺伝子の出入りが少ない島国という環境が、その影響を極めて大きくしたんだ」


ページには、歴代天皇や、藤原氏、源氏、平氏といった名だたる権力者たちの系図が描かれていた。

「古代や中世の権力者、特に頂点に立つ天皇や将軍は、多くの妻や側室を持ち、非常に多くの子をなした。彼らの遺伝子は、一般の農民や商人とは比較にならないほどの速さと広がりで、社会の隅々にまで浸透していったんだ」


教授の言葉は、涼介の頭の中に、具体的なイメージを結ばせた。例えば、源頼朝。その子孫が、次の世代、また次の世代へと枝分かれしていく。ある者は武士になり、ある者は農民となり、またある者は商人として、歴史の中に溶け込んでいく。その無数の末裔たちが、今、この国に生きている。


「君が今、東京の街を歩いていて、すれ違う人々がいるだろう」と教授は続けた。「そのサラリーマンも、あの店の店員も、君自身も。極めて高い確率で、君たちは皆、源頼朝の子孫であり、同時に平清盛の子孫でもある。さらに遡れば、天智天皇や、聖徳太子にだって行き着くかもしれない」


衝撃、という言葉では足りなかった。それは、日本の社会に根深く存在する、見えない階級や家柄といった概念を、根底から覆す思想だった。自分のようなごく平凡な男の血管に、歴史上の偉人たちと同じ血が流れている?


「つまり…」涼介は言葉を絞り出した。「今の日本にいる一億二千万人は、ほとんど全員が、遠い親戚みたいなものだということですか?」

「『みたいなもの』じゃない。その通りなんだよ、黒木くん」


取材が始まった。京都御所を訪れ、千年の都の歴史に触れた。鎌倉の大仏の前で、武士の世を築いた人々の血が、今も自分たちに受け継がれていることを実感した。番組では、ごく普通の人々にインタビューを行った。八百屋の店主、若いカップル、タクシーの運転手。彼らに、あなたも藤原道長の子孫かもしれない、と告げると、誰もが最初は笑い、やがて驚き、そして不思議な感慨に満ちた顔になった。


それは、自分という存在が、ただの点ではなく、壮大な歴史という線の一部なのだと気づく瞬間の顔だった。


「私たちは、血筋や家柄で人を判断しがちです」と、杏奈はカメラの前で語った。「でも、遺伝子のレベルで見れば、その区別はほとんど意味をなさない。私たちは皆、勝者と敗者、支配者と民衆、その両方の遺伝子を受け継いでいる。日本の歴史そのものが、私たちの体の中に刻まれているんです」


涼介は、編集室のモニターに映る、様々な日本人の顔を見つめていた。都会的な若者、東北の訛りが残る老人、沖縄の血を引く女性。容姿も、話す言葉も、生き方も違う。だが、彼らの家系図を数百年、千年と遡れば、それらは必ずどこかで交わり、一つの太い幹へと繋がっていくのだ。


自分たちを隔てているものは、あまりにも些細な、ごく最近の出来事に過ぎない。


完成したドキュメンタリー第三弾は、多くの日本人にとって、自らのアイデンティティを、そして「日本人」という共同体の意味を、改めて問い直すきっかけとなった。


番組の最後、涼介は伊勢神宮の広大な森の中に立っていた。木漏れ日が、静かに彼の顔を照らす。


「私たちは、歴史を教科書の中の遠い物語として学びます。しかし、本当はそうではない。歴史とは、今この瞬間も、私たちの中で生き続けている記憶です。この国の土を最初に踏んだ祖先から、連綿と受け継がれてきた、見えない糸。その糸を辿れば、私たちは、隣にいる見知らぬ誰かの中に、自分自身のルーツを見出すことができるでしょう」


涼介は、森の向こうに広がる空を見上げた。孤独感は、もうどこにもなかった。自分は、この国の過去、現在、未来を繋ぐ、無数の糸の一本なのだ。その確信が、彼の心を、深く、静かに満たしていた。

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