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第二話 覇者の血脈

「黒木くん!大ヒットだ!次はもっとセンセーショナルに行くぞ!」


プロデューサーは、視聴率のグラフを叩きながら叫んだ。「『見えない祖先』はもう分かった。視聴者は、もっと分かりやすい『顔』が見たいんだよ。そうだ、歴史上の有名人で、今も子孫がウジャウジャいるような奴を探してこい!」


下品な物言いに涼介は顔をしかめたが、杏奈は面白そうに目を輝かせた。


「そのテーマ、科学的にも非常に興味深いものがあります。MRCAのような理論的な祖先ではなく、実在した一人の人物が、どれほど遺伝的な影響を後世に与えたか。最高のケーススタディがありますよ」

「ほう、誰だね?」

「チンギス・ハンです」


研究室を訪れると、教授は二人の顔を見るなり、書庫からモンゴル史の分厚い本を取り出してきた。


「覇王の血脈、かね。これほど劇的な実例は他にないだろう。MRCAが全人類を繋ぐ『愛』の物語だとすれば、これは一人の男の『力』が、いかに大陸の遺伝子地図を塗り替えたか、という物語だ」


教授は、一枚の巨大なアジアの地図を広げた。


「まずは、最も分かりやすい証拠から話そう。Y染色体だ。父から息子へ、ほぼそのまま受け継がれるこの遺伝情報は、いわば『姓』のようなものだね。数年前、ある遺伝学者のチームが、アジア大陸の男性たちに、極めて特徴的なY染色体が驚くほど高い頻度で見られることを発見した」


「チンギス・ハンのものですか?」

「断定はできない。なにしろ、彼の遺体は見つかっていないからな。だが」と教授は地図を指した。「このY染色体を持つ人々が最も多く住む地域、そしてその遺伝子が生まれたと推定される年代と場所。それが、800年ほど前のモンゴル高原と、ぴったり一致する。そして、この遺伝子の分布図は、モンゴル帝国の最大版図と、不気味なほど重なり合うんだよ」


杏奈が、具体的な数字を挙げて補足した。

「現在、この特徴的なY染色体を受け継いでいる男性は、世界に約1600万人いると推定されています。これは、世界の男性人口の約0.5%、200人に1人に相当します」


1600万人。涼介は、その数字の重みに眩暈がしそうだった。東京の人口を遥かに超える数の人々が、たった一人の男の、父から息子へと続く直系の血を引いている。


「彼の息子や孫たちは、広大な領地の支配者となった。そして、その地位と富が、彼らに多くの子孫を残すことを可能にした」と教授は続けた。「その結果、チンギス・ハンのY染色体は、まるで遺伝子レベルの征服のように、大陸全土へ爆発的に広がった。旧モンゴル帝国の中心部では、男性の約8%がこの血を引いている、とさえ言われているんだ」


教授はそこで一息つき、涼介の目を見つめた。


「だがね、黒木くん。この話は、Y染色体だけでは終わらない。むしろ、ここからが本題だ。これは、チンギス・ハンという男が、いかにしてこの地域の『MRCA』、つまり最近共通祖先の一人になったか、という話でもあるんだ」

「MRCA…ですか?」

「そうだ。Y染色体は父から息子への一本道だ。だが、チンギス・ハンには娘もいただろう。彼の息子たちも、娘をもうけたはずだ。その娘たちが嫁ぎ、子を産めば、チンギス・ハンの遺伝子(Y染色体以外)は、母方の家系からも爆発的に広がっていく。そうだね?」


涼介はハッとした。父方だけの直線ではない。母方を経由して、クモの巣のように広がっていくものだった。


「Y染色体を受け継いだ1600万人は、いわば氷山の一角だ」と教授は断言した。「チンギス・ハンを先祖の一人に持つ人々は、父方、母方あらゆる家系を辿れば、おそらく何億という数にのぼるだろう。彼はもはや、単なる一人の英雄ではない。ユーラシア大陸の広大な範囲において、そこに住む人々の血そのものに溶け込んだ、巨大な存在なんだよ」


涼介と杏奈の新たな旅は、果てしなく広がるモンゴルの大草原から始まった。馬に乗り、風を切って走ると、800年前にこの地から世界を席巻した男の、圧倒的なエネルギーが伝わってくるようだった。


彼らは、ウズベキスタンの古都サマルカンドを訪れた。青いタイルが美しい壮麗なモスクの傍らで、ナンを焼くパン職人の男性と話をした。涼介がY染色体の話をし、さらにMRCAの概念を説明すると、彼は目を丸くした。


「俺のひいひい爺さんの、そのまた母方の婆さんが、もしかしたらチンギス・ハンの血を引いていたかもしれないってことかい?…考えたこともなかったな」と彼は笑った。

「俺たちは、征服された側の人間だと思っていたが…面白いもんだ」

彼の力強い眼差しには、どこか草原の覇者の面影が宿っているようにも見えた。


番組は、MRCAの時とは違う、複雑な問いを投げかけた。

「もし、あなたの体に、歴史上最も広大な帝国を築いた征服者の血が流れているとしたら? あなたはそれを、誇りに思いますか? それとも…」


涼介は、取材を通して出会った、ごく普通に暮らす人々の顔を思い浮かべていた。彼らは皆、善良で、日々の生活に追われる市民だった。彼らの体内に眠る遺伝子は、彼らの人生に何の影響も与えてはいない。だが、その血が持つ物語は、あまりにも壮大で、そして残酷だった。


「MRCAは、私たち全員を繋ぐ、温かい『共有』の物語でした」と、杏奈はカメラの前で語った。「でも、チンギス・ハンの物語は、もっと複雑です。一人の人間の意志と力が、何億もの人々の『起源』の一つとなり、歴史を上書きしていく。それは、美しいだけではない。暴力と支配という、人類のもう一つの側面をも、私たちのDNAに刻み込んでいるのです」


番組の最後、涼介はモンゴルの草原に沈む夕陽を見つめていた。


「一人の男の人生が、大陸の遺伝地図を塗り替えた。私たちは、歴史を読むのではない。私たちは、歴史そのものを、生きているのだ。その体の中に、征服者の血と、征服された無数の人々の血を、同時に受け継ぎながら」


空が、血のように赤い。涼介は、自分の中にも眠る、名もなき祖先たちの無数の声を聞いた気がした。その声は、決して一つではなかった。

ただし、祖先でも遺伝的祖先ではない可能性が結構高いです。メンデルの法則。

確率は低いですが最短で、ひ孫の代から遺伝的寄与度がゼロになる場合があるそうです。


以下のようなものもあります。

mtDNA・Y-DNA → 一本のラインに限定されるため「特定の祖先しか見えない」。系統樹は細い。

ポリジェニック形質 → 多遺伝子由来なので完全消失しにくいが、個人レベルでは希釈されやすい。

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