或る洋館の窓外に浮かぶ満月の夜
今からちょうど三日前のことである。
邸宅に籠らざるを得ないエトムントは、憂慮と葛藤に満ちていた。
胸中渦巻いて零れ出しそうな気持ちを、無理に抑えて飲み込んだ。
「いっそのことだ。机上は捨てよ、さすれば窓を解き放たん」
閉め切ったカーテンを開き、大きな洋窓も一つだけあけ放つ。
渓谷と清流せせらぐ里山の夏は、夜の帳に涼風が心地よい。
見上げれば山の端より顔を出す、そんな満月の宵の口である。
月の魔力だろうか――ますます月の光が輝き始める時刻であった。
◆
宮廷書記官・エルヴィーラは、公国の機密を持ち出した罪により反逆者となる――そう信頼に値する里の間者より報を受けたエトムントは、焦燥しつつも落胆となった。
「またか……同じ過ちを繰り返さねばならないというのに」
王弟公国の宮廷内に蔓延る欺瞞と隠蔽、そして猜疑心が蔓延っている。同じ穴の狢どもが争い合うも巣食うもの。それはもはや悪習そのものだ。
職責を離れ二十余年。宮廷内で悪評が絶えぬ連中を忌み嫌っていたが、これほどとは。
「是か非でも我らにお任せくださいませ、内務公」
「すまぬ……頼んだぞ、皆の衆」
信望厚い元内務省大臣たるエトムントは、迅速果断が信条である里の者やコビット族が総出で失踪者である我が孫娘・エルヴィーラを奪還せんと敢行して捜索に当たる。
その数日後、無事にエルヴィーラ救出に成功し、厚誼に報いるコビット族の助力を得て、隠れ家での保護と回復はしたものの、未だに意識は混濁しており原因究明には至らず。五里霧中な状態となって今に至る。
「宮廷内に正攻法で打って出ても、証拠がなければ取り扱えまい。ましてや猜疑となれば、厳罰となり得えよう。さらに情報漏洩となれば、より一層に禍根を残す」
ならば自らを囮とせんと、堅固な防御魔法を籠城戦なども視野に、偽装工作用に潤沢な魔力を片時も無駄に放出して策を張り巡らされておいた。もちろん、敵に分かり易いように、精神安定用に使い終わった香の灰も館周辺に撒き散らしてある。
これが精一杯の苦肉の策であった。我が孫娘である彼女の身を護るため、最低限でも一計を案じる他なかったのである。
「来たな……小さき者ならば察するに、ルルミラか」
夕刻、警戒魔法に反応したエトムントは、解除魔法で玄関のドアを開いた。
案の定、執務室に現れたのは、コビット族であり従者を申し出たルルミラだ。
籐で編んだ手提げ籠を持っていた。いつもの夕餉の用意であろう。
「内務公、ルルミラからの報告であります」
「うむ、待たせたな。申せ」
「はい。エルの……エルヴィーラの状態は、今も一向に変わりません」
「……そうか」
いつもは顔に出さないエトムントだが、苦悶の表情を滲ませた。
孫娘の身を案じ、幸せな日々を過ごして欲しいのは、祖父の本懐である。
「ですが、それと……」
「それと?」
「里の方々の噂によると、すっごい長耳がご逗留しているとのことです」
ルルミラの言う「すっごい長耳」とは、世間一般でハイエルフのことである。
「それは、真か?」
「はい。かなりの美少女ヅラした煩さ型で、声が高いとのことです」
誠心誠意なルルミラは丁寧な口調であるが、コビット族特有によって口が悪い。
「里に逗留となると宿屋は、酒場兼宿屋が一軒くらいしかないのだが」
「そのお方が研究中とのことですが、真っ昼間からお酒をかっ喰らっているとか」
「…………」
どう考えてもアーデライードである。エルムントはそう思った。
大酒をかっ喰らうハイエルフと言えば、誰しもが六英雄伝説を知っているものだ。
そのハイエルフをエディンダム王国の宮廷でお目にかかることは、ほんの一度だけ。もう四十余年ほど前のこと。齢六十を超えたエトムントでも、ずっと若き頃の話だ。
「エトムント様、洋館に籠ってはお身体を壊します」
「うむ、しかし最期の砦として、この地を護らねばなるまい」
「そうですね……魔力放出となれば、換気もできない状況ですから」
気になったルルミラがカーテンの隙間を開けると、山の端に夕陽が落ちていった。
「そういえば、まぁるいお月様の日ですね」
ルルミラがポツリと呟いた。今日は満月の日であった。
「それでは、お夜食を用意しますね」
「いつもすまない、ルルミラよ」
丁寧にお辞儀をしたルルミラは、執務室のドアを閉じた。
その夕食後――ルルミラが洋館を後にすると、窓から背中を見送った。
深い溜息を吐くと、肉厚な安楽椅子にどっかりと腰を下ろして身体を沈める。
失踪して助け出されたエルヴィーラを発見し、早三ヶ月になろうか。老齢となったエトムントは孫娘の身を案じる余り、時間を取られ過ぎたか酷く疲弊していた。
「原因の根本……禁忌なる暗黒魔法か、あるいは闇か」
エルヴィーラの意識は朦朧として、依然に杳として知れなかった。
精霊が光を放つと言われている霊的彩光は、精霊使いでなければ見ることができないという。魔法使いであるエトムントや吟遊詩人のルルミラでは見出すことができない、精霊使いのみの技能である基本能力である。
もしエーデルシュタイン公国内で人材枯渇の精霊使いがこの地に現れるとしたならば、これほどまでに喉から手が出るほど貴重な人材に違いはなかった。
「だが、それはまだ仮定に過ぎない。行き過ぎては仕損じよう……だが」
それでもなお、ふと思い出されるのは、四十余年前のあの出来事だ。
エディンダム王国の宮廷魔術師団に配属したばかりの時代を思い出す。
「お前は、何者だ! 何をしている!」
魔法使いへの初級古代語魔法を会得して、より躍起になっていた時期だ。
あの頃のエトムントは、まだまだ経験が乏しく年端もいかず若過ぎた。
「お前は……いや、ハイエルフなのか?」
「そうよ。あなたには分からないかしら、若輩者」
それはエディンダム王城の廊下で出会った、不審であり正体不明の謎の少女。
振り向けば、蜂蜜の様に滑らかな金髪とサファイアの様に輝く碧眼。特徴的な尖った長い耳と白磁の様に白く透き通るような肌――まさしく絶世独立の美少女であった。
「それは失礼した。しかし若輩者とは異なものを」
「そうかしら? あなたよりも長生きしているんだけれど」
十代前半にしか見えないハイエルフだが、エトムントの年齢の倍はあるという。
「それよりも、何をなさっているのです?」
「何って、私は言語学者の端くれなんだけれど」
今しがた王宮から言語学者の叙勲を受けたという。だがそういう話ではない。
「いえ、そうではなくて……今まさに何の状況をしているのですか?」
「今は何かって? それは、王城から外に出るところなんだけれど?」
どう見てもハイエルフは、城郭の回廊窓の縁に足を掛けていた。
回廊窓から首を出せば、王城から堀まで必ずや死ぬまでの高さであろう。
「そこは非常に危険です。正式に王城の門から出るべきです」
「そんなの間怠っこいので嫌よ。それでは、お先に失礼!」
ハイエルフはそう言うと、城郭の回廊窓から宙へと身を躍らせた。
窓から飛び出したまま空中浮揚の効果で自由落下していく。
足元をよくよく見れば、レビテーション・ブーツを履いていたようだ。
何もできないエトムントは、ただただ呆気にとられてしまった。
それが脳裏に焼きこまれた、ほんの一瞬であり、最後の出来事であった。
「むぅ……我としたことが、不甲斐ないものだな」
疲弊していたエトムントは、肉厚な安楽椅子に微睡んでしまったようだ。
椅子からゆっくりと立ち上がると、おもむろに窓際へと歩み寄った。
追懐に浸って緊張が解れたか、もしくは気が動転してしまったのだろうか。
「ハイエルフと窓、か……」
邸宅に籠らざるを得ないエトムントは、憂慮と葛藤に満ちていた。
胸中渦巻いて零れ出しそうな気持ちを、無理に抑えて飲み込んだ。
「いっそのことだ。机上は捨てよ、さすれば窓を解き放たん」
閉め切ったカーテンを開き、大きな洋窓も一つだけあけ放つ。
渓谷と清流せせらぐ里山の夏は、夜の帳に涼風が心地よい。
見上げれば山の端より顔を出す、そんな満月の宵の口である。
月の魔力だろうか――ますます月の光が輝き始める時刻であった。
「ふっ……軽率なれど、それも悪しからずだ」
郷愁めいたエトムントは、苦笑いを浮かべた。
ランプに火を灯し、おもむろに執務室の机に着く――その時であった。
「あら、やっぱり窓が開いているじゃない。開いているという事は、お屋敷の中に入っていいって言うことじゃないかしら?」
突然に窓から入って無粋にも現れた、不審であり正体不明の謎の少女。
紛れもなく蜂蜜色の金髪とサファイア色の碧眼。長い耳と白磁の様な肌。
まさしく絶世の美少女そのもの、聞きしに勝ると呼び声高きハイエルフ。
「これはこれは、お久しぶりですな。六英雄たるアーデライード殿」
「そう? 久しぶりかは分からないけれど、エルヴィーラのお爺様」
「如何にも。よくぞ、私をご存じで」
腰に腕を当てて堂々と立つ、その名は六英雄の一人・アーデライード。
しかし不作法というか不敬極まりないというか、図々しいにも程があろう。
「私の召使いたちがお世話なってね。あなたは内務公だって」
「これはしたり。里の者にやられましたな」
「いいえ、それは私の美貌と高名に対するお礼だわ」
これもまた歯に衣着せぬアーデライード殿である。
「そもそもおかしいんじゃない? 膨大な魔力を目立たせたり、お香の灰を撒いたりするなんて。わざわざ隠さないように大胆に工夫を凝らすなんて、尋常じゃないわ!」
「フフ……不肖にて及ばずながら、老骨にて面目御座らん」
皴がますます増えたものだと、エトムントは老骨と併せて自虐する。
エトムントは愚才なれど状況を簡単に整理し、纏め上げてアーデライードと話した。
「あなた慧敏ね……よく分かったわ。あとは私に任せなさいな、お爺様」
アーデライードが窓の縁を腰掛けると、人差し指で一つの提案を出した。
「ついでに、あなたは雷撃が得意だと聞いていたけれど、本当かしら?」
「まぁ、そうですな……僭越ながら、他の者より負けた試しはありません」
「ならいいわね。だったら得意の雷撃を派手にやって頂戴な!」
無理を承知のハイエルフは、無茶と無謀をあっさりと言い放つ。
「それはまた異なことを……すぐにはできませんぞ」
「いいえ、今に見せるべきだわ。彼は、まだ勇者見習いだけれど!」
どうしても彼の経験値のために、雷撃を見せつけたいのだという。
「ほう、その彼とは、仲間の少年のことですかな?」
「そうよ! この少年は、のちに勇者になる男よ!」
アーデライードは明け透けに断言すれば、開いた口が塞がらない。
だがしかしどうしたことか、未来の糧と未知の興味が湧いてきた。
「ふむ……では、若者の将来像を描く橋渡しでしょうな」
「そ。手っ取り早いのが好きなのよ。それでは、お先に失礼!」
「む、しかしそこは三階ですぞっ!? アーデライード殿ーっ!!」
座ったままのアーデライードは、そのまま後ろから倒れて落ちていった。
慌てて窓から乗り出せば、身軽なハイエルフが木から木へと飛び去ったのだ。
「やれやれ、これほどまでに驚かせるとは。恐れ入る御仁よな……」
年甲斐もなく慌てふためく自らを鑑みて、エトムントは心の底から笑壺に入った。
己が若かりし頃のハイエルフと、今のまま変わらずに進み続けるハイエルフ。自らの青春と現在の群像を重ね合わせているかのようだ。情熱のままに、年齢など関せずに。
「嗚呼、ついに時は満ちた。満ちた月と同じように」
エトムントは、空を見上げた。きっと満月が微笑んでいるのだ。
ようやく籠りざるを得ない屋敷より、外へと打って出るべく解放の時。
善は急げだ。翌日は里の者たちと作戦の立案を組み直さねばなるまいて。
「フフフ、これはやっと舞い降りた幸運か、それとも……」
満天の星とともに、光り輝く満月が天頂に君臨する――そんな刻限だ。
魅了されたは、月の魔力かそれとも――神々しくも光輝く月夜であった。




