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第七章 『天からの恵みと』

1.空中階段


コンクリートのとりでから南西の海岸へと張られた「空中の道」は、二人の開拓スピードを爆発的に加速させた。


「ボス、次が上がるわよ! しっかり引いて!」


崖下のエレーナがワイヤーに括り付けたのは、海岸に漂着した、見事な太さの米松ダグラスファーの流木だ。かつてなら二人で担いでも崖の上まで運べなかった巨木が、ウインチのクランクを回すたび、軽々と宙を滑り、コンクリートの砦の入り口へと吸い込まれていく。


運ばれた木材を前に、弦は丸鋸(手動のノコギリ)とナタを振るった。


彼らが最初に手をつけたのは、あの崩落した天井から光が降り注ぐ「緑の神殿」の間だった。


「ボス、本当にここに階段を作るの?」


「ああ。この崩れた天井は、上へ抜けるための天然の吹き抜けだ。ここから崖の上の『テラス』へと繋ぐ」


弦は、持ち上げた流木を加工し、コンクリートの強固な壁にアンカーを打ち込んで、一歩ずつ上へと伸びる木製の階段を組み上げていった。無骨だが、ミリ単位の狂いもない。コンクリートの灰色と、削り出された流木の温かみのある飴色が、美しくコントラストを描いていく。


そして、その階段の設計には、ワイオミング育ちのエレーナの、ある「現実的な知恵」が組み込まれていた。


「天井が開いているってことは、雨が降ればここは水浸しになるわ。……だったら、ただ濡らすだけじゃもったいない。ここに『天からの恵み』を丸ごと溜める仕組みを作りましょう」


エレーナの提案を受け、弦が崩落した天井の直下、階段の踊り場の脇に設置したのは、海岸で拾い集めた巨大なプラスチックドラム缶をベースにした「自作の雨水貯留ろ過タンク」だった。


天井の割れ目から落ちてくる雨水を直接受けるロートを設置し、タンクの入り口には目の細かい流木の炭、小石、そして目の詰まった砂を何層にも重ねた天然のフィルターを仕込む。


「これで、雨が降るたびに、不純物が綺麗にろ過された真水がこのタンクに溜まる。飲み水にも、生活用水にも困らないわ」


完成したタンクの蛇口をエレーナがひねると、先日の雨が美しくろ過された、ひんやりとした透明な水が「トトト……」と音を立てて流れ出た。


エレーナはその水を手のひらですくい、一口飲んで、眩しそうに目を細めた。


「最高。ワイオミングの湧き水みたいに冷たくて美味しい!」


「これで水と、上の階へのアクセスが確保できたな」


弦は、自分が作った木製の階段に足をかけ、上を見上げた。

崩落した天井の向こうには、どこまでも青い空が広がっている。

その階段を一段ずつ登れば、そこは崖の上の風が吹き抜ける、彼らの新しい家の「特等席」になるはずだった。


「よし、エレーナ。次は、この階段の先にある『崖の上のリビング』の床張りに取りかかるぞ」


「了解、ボス! どんどん資材を巻き上げましょう!」


コンクリートの冷たい砦の中に、木の温もりと、真水のせせらぎ、そして二人の弾むような笑い声が響き渡る。


あり得ない家は、いま、確実にその輪郭を現し始めていた。




2.八百度の窯と、未完の塔


「ボス、温度が上がってきたわ! 窯の口から、青い炎が見える!」


すすで頬を黒く汚したエレーナが、声を張り上げた。


彼女の手にあるのは、海岸の漂着プラスチック樽と蛇腹ホースで自作した、手動の「送風機ふいご」だ。


二十五歳のしなやかな身体をいっぱいに使い、彼女が「シュポ、シュポ」と力強く空気を送り込むたび、土と粘土で築き上げた即席の縦型窯が「ゴォォォ……ッ」と地鳴りのような音を立てて身震いする。


窯の内部は、弦が自作した硬質な木炭の力、そして煙突効果によって、鉄をも溶かす八百度の極限世界に達していた。


「よし、エレーナ、そこまでだ! 火を落とすぞ!」


弦は濡らした厚手のキャンバス地で窯の口を塞ぎ、ゆっくりと温度を下げていく。


数時間後、窯の底から取り出されたのは、あれほど硬かった牡蠣の貝殻が、熱の力で二酸化炭素を奪われ、触れば崩れるほど真っ白にもろくなった「生石灰」の塊だった。


「これを、細かく砕いて、島の火山灰と砂を混ぜる」


弦が丸太のつちで貝殻を叩き潰し、エレーナが手際よくシャベルで混ぜ合わせていく。


水を加えた瞬間、ジュウ、と熱い蒸気が立ち上り、灰色がかった滑らかなペースト――ローマ帝国を二千年以上支え続けたものと同じ、超強固な「火山灰セメント」が完成した。


「できた……! ボス、本当にセメントだわ!」


「ああ。これで俺たちは、ただの修繕屋から、この城の『創造主』になれる」

弦はコテにセメントをすくい、不敵に笑った。


だが、彼が目指した修復は、ただ壁のひび割れを埋めるような退屈なものではなかった。


「エレーナ。お前、バルセロナの『サグラダ・ファミリア』を知っているか?」


「ええ、もちろん。あのガウディの……一生かけても完成しないっていう、奇妙で美しい教会でしょ?」


「そうだ。ガウディは言った。『自然の中に直線は存在しない』と。なら、この自然豊かな無人島で俺たちが作るべきなのは、四角い箱じゃない。……あの、天に向かって伸びる樹木のような塔だ」


弦の言葉に、エレーナの目が眩しいほどに輝いた。


「コンクリートの砦の上に、私たちのサグラダ・ファミリアを建てるのね。……ボス、やっぱりあなた、最高にクレイジーだわ!」


二人の、狂気じみた建築芸術が幕を開けた。

弦は海岸から巻き上げた流木の、うねるような曲線を「骨組み(鉄骨の代わり)」として砦の屋上に固定した。その周りに、エレーナと二人で練り上げたセメントを容赦なく塗り込んでいく。


指先で、ヤシの葉の葉脈を、波のしぶきを、貝殻の螺旋をセメントの表面に刻み込んでいく。


夕暮れ時。

島の頂、古いコンクリートの砦の上に、まるで島の大地から自ら生えてきたかのような、有機的で、波打ち、天を指差す一本の「尖塔せんとう」がその姿を現し始めていた。

沈む夕日が、乾き始めたばかりの白いセメントの塔を、美しく黄金色に染め上げていく。

「綺麗……。まだ一段目なのに、まるで生きているみたい」


エレーナは首が痛くなるほどにその塔を見上げ、弦の肩にそっと頭を預けた。


二十五歳のアメリカ娘と、五十歳の日本の職人。


二人が作り出す「未完の傑作」が、無人島の風の中で静かに呼吸を始めていた。




3.貝殻の塔と、二人の呼吸


「まさか、毎日美味しく食べてたあの牡蠣カキやムール貝のゴミが、こんなお城の塔になるなんてね」


エレーナは、崩落した天井の上の「特等席」に腰掛け、削り出しの木製階段に背中を預けながら、楽しそうに笑った。


彼女の足元には、真っ白な貝殻の粉と島の火山灰を混ぜ合わせた、自家製のローマ・セメントがバケツにたっぷり入っている。


「『あらゆるゴミは、未来の資材だ』。俺の親父の口癖だ」


弦はコテを巧みに操り、流木で編んだ螺旋状の骨組みに、どろりとしたセメントを塗りつけていく。


毎日、生きるために必死に獲って、二人で火を囲んで食べた貝。その食べた後の抜け殻が、今度は二人を守り、天へと伸びる塔の皮膚になっていく。この上なく無駄がなく、この上なく美しい生命の循環だった。


セメントを塗る弦の横で、エレーナは器用に指先を使い、乾きかける前の白い壁に模様を刻んでいく。


それはワイオミングの峻厳な山脈の稜線りょうせんであり、この島を囲む激しい波のうねりであり、コンクリートの砦を優しく包むシダの葉の形だった。


「ねえ、ボス。ガウディのサグラダ・ファミリアは、彼が死んでから百年以上経ってもまだ完成してないんでしょ?」


「ああ。百四十年以上、世界中の職人が情熱を引き継いで作り続けている」


弦はコテの手を止め、額の汗を手の甲で拭った。


暮れなずむ空に、自分たちが作り上げた白い塔が、まるで大地のつののように一本、堂々と突き出ている。


「俺たちのこれは、どれくらいかかるかな」


「二十五年、いや、五十年はかかるかもね」


エレーナは悪戯っぽく微笑み、二十五歳の輝く瞳で、五十歳の職人の横顔を見つめた。


「だったら、私たちが生きている間には終わらない。……最高じゃない? ボス。私、一生ここで、あなたとこの塔を作り続けてもいいよ」


その言葉は、過酷な無人島生活に対する諦めではなかった。


この世界に二人きり、何もない荒野で、自分たちの手で世界を創造していくことへの、心からの歓喜と信頼の告白だった。


「……バカ言え。俺はお前より、二十五年早くガタが来る」


弦は少し照れくさそうに視線を逸らし、鼻を鳴らした。


だが、その胸の奥には、かつてないほどに熱い火が灯っていた。


失うものなど何もないと思っていた人生の終盤に、これほど眩しく、タフで、愛おしい相棒と出会い、世界で一番贅沢な「未完の建築」に挑んでいる。


「よし、エレーナ。今日はここまでだ。明日はさらに高く積むぞ」


「オッケー、ボス。今夜の分の貝殻も、たくさん食べなきゃね!」


二人は笑い合い、夕闇が迫る「緑の神殿」へと、自分たちが作った階段を一段ずつ下りていった。


少しずつ、だが確実に。


二人のサグラダ・ファミリアは、島の空を侵食するように、高さを増していく――。




4.二年のいしぶみ


島に漂着してから、すでに二年の歳月が流れていた。


五十代の「ぽっこりお腹」だった弦は、この二年間の凄まじい肉体労働(ウインチの巻き上げ、巨大な流木の運搬、何百回ものセメント練り)によって、余分な脂肪が削ぎ落とされ、その下に眠っていた頑強な「割れた腹筋シックスパック」が姿を現している。五十二歳にして人生最高のキレた肉体を手に入れていた。


そしてエレーナ!


元々ワイオミングの荒野を駆け回っていたアスリートの彼女。


都会的なジムで整え「美しく最高の筋肉ボディ」も、二年間のサバイバルを経て、崖を登り、重い資材を担ぎ、野生の獲物を追う中で鍛え上げられたのは、「しなやかで、鋼のように引き締まった、実用美の塊のようなアスリート肉体」。


更にみがきが掛かっていた。


日に焼けて、野生の肉食獣を思わせるような、息を呑むほど強くて美しい、本物の「大自然のサバイバー」へと進化している。


二年のあいだ、二人は数え切れないほどの牡蠣やムール貝を平らげ、その都度、食べた後の貝殻を八百度の窯で焼き、火山灰と混ぜてセメントを練り続けた。


そして今、コンクリートの砦の上には、高さ十メートルを超える、圧倒的な存在感を放つ「未完のサグラダ・ファミリア」がそびえ立っていた。


「……信じられないわね、ボス。本当に作っちゃった」


夕暮れ時、エレーナは塔の中層に作られた、流木のアーチ窓から外を見つめていた。


彼女が触れている白い壁には、この二年間の二人の軌跡が、貝殻や波の模様となってびっしりと浮き彫りにされている。


「ただのゴミだった貝殻と、ただの火山灰だ。時間をかければ、石にだって勝てる」


弦は塔の最上部に立ち、最後の仕上げとして、流木の先端にセメントを丁寧に塗り固めていた。


手はマメだらけで、爪の隙間には白いセメントが染み付いて落ちない。だが、その目はかつて日本でくすぶっていた頃とは比較にならないほど、静かで力強い光を宿していた。


この二年、二人はただ「生き延びた」のではない。


この島で、自分たちの文明を、自分たちの美学を、一から創造して「生きて」きたのだ。


「ボス、見て。今日も夕日が綺麗」


エレーナが上を見上げ、弦に手を伸ばした。


弦はその手をしっかりと握り返し、彼女を最上階の小さなテラスへと引き上げた。


遮るもののない島の風が、二人の髪を激しく揺らす。


眼下には、彼らが拓いた南西の海岸へのワイヤーライン、生い茂る緑のジャングル、そしてどこまでも続く紺碧の太平洋が広がっていた。


そして彼らの背後には、二人が愛し、削り、積み上げてきた、白く輝くサグラダ・ファミリア。


「なあ、エレーナ。俺たちは――」


弦が口を開きかけた、その時だった。



はるか水平線の彼方、夕闇に沈みかける海の向こうから、聞き慣れない、しかし、かつて確かに知っていた「音」が風に乗って響いてきた。


――パタパタパタパタ……。


それは、この二年間、一度たりとも耳にしなかった、人工の金属が空気を切り裂くローターの音。


そして、夕暮れのグラデーションの中に、一筋の不自然な白い光が、島に向かってゆっくりと伸びてくるのが見えた。



「ボス……? あれって……」


エレーナの身体が、かすかに強張る。

弦は何も言わず、ただ静かに、引き寄せられるように近づいてくるその光を見つめていた。


二人の楽園の終わり、そして、新たな物語の始まりを告げる光だった。



(第八章へつづく)








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