第八章 『楽園の終わり』
1.文明の狂騒(メダリストの帰還編)
夕闇の彼方から近づいてくるヘリコプターのローター音が、島を支配していた静寂を容赦なく切り裂いていく。
サーチライトの容赦ない白い光が、コンクリートの砦を、そしてその上にそびえ立つ真っ白な貝殻の塔――二人のサグラダ・ファミリアを強烈に照らし出した。
「おい……嘘だろ、あそこに人がいるぞ!」
「なんだあの建物は……!? 教会か!?」
ヘリのスピーカーから、興奮した男たちの無線混じりの声が響く。
砦の屋上に立つ二人は、ただ静かにその光を見つめていた。
弦の、かつての中年太りから信じられないほど引き締まった、見事に割れた腹筋。
そしてエレーナ!
元々は世界を沸かせたオリンピックメダリストであり、都会的な環境で「美しく最高の筋肉ボディ」に整えられていた彼女だったが、二年間の苛烈なサバイバルを経て、崖を登り、重い資材を担ぎ、野生の獲物を追う中で、その肉体はさらに恐るべき領域へと磨きが掛かっていた。
しなやかで、鋼のように引き締まった、実用美の塊のようなアスリート肉体。
日に焼け、野生の肉食獣を思わせるような、息を呑むほど強くて美しい、本物の「大自然のサバイバー」へと進化していた。
二人のその強靭な身体は、夜風の中で彫刻のように美しく佇んでいた。
二日後。
彼らは洋上に派遣された大型巡視船に救助され、そのままヘリで本島の総合病院へと搬送された。
精密検査の結果は、医師たちを驚愕させる。
「信じられない。特に神崎さん、五十代にしてアスリート並みの体幹と筋力です。エレーナさんに至っては、元メダリストとしての驚異的なポテンシャルが、野生の中でさらに極限まで研ぎ澄まされている。余分な体脂肪が一切ない、完璧な実用美の肉体だ。一体向こうでどんな暮らしを……」
彼らの奇跡的な生還、そして何よりも「あの伝説のメダリストが、無人島で五十代の職人と生き残り、手作りのサグラダ・ファミリアを築いていた」という衝撃的なニュースは、瞬く間に世界中のメディアを狂乱の渦に巻き込んだ。
『消えたワイオミング出身の天才メダリストの生還! 』
『漂流が生んだ奇跡のガウディの無人島!』
『崖の上にそびえ立つ、貝殻と火山灰の未完の塔!』
病室に設置されたテレビの画面の中では、キャスターたちが興奮気味に彼らの「偉業」を報じている。
退院の日、病院のロビーは、世界中から集まった報道陣のカメラのフラッシュで真っ白に染まった。
「エレーナ・ウエストさん! メダルを獲得した時と比べて、あの無人島での二年間はどうでしたか!?」
「神崎さん! あの塔はどうやって建てたのですか!?」
無数のマイクが向けられる中、弦は眩しそうに目を細め、隣に立つエレーナを見た。
仕立ての良い、だがどこか窮屈そうな街の服を着たエレーナもまた、戸惑うように弦を見返していた。
弦はマイクを向けられ、無骨に、しかし静かにこう答えた。
「……ただ、生きるために、あの島にあるもので、作りたいものを作っただけです」
その短い言葉の後、二人は足早に用意された車へと乗り込んだ。
都会の喧騒、二十四時間鳴り止まない車の音、排気ガスの匂い。
すべてが安全で、便利で、退屈だった。
一度は世界の頂点に立ち、そして今度は無人島の頂に立ったエレーナにとっても、そして弦にとっても、この文明社会はどこかよそよそしかった。
目を閉じれば聞こえるのは、南西の海岸に打ち寄せる激しい波の音。
ウインチが軋む音。
ふいごを引くエレーナの力強い息遣い。
そして、夕日に赤く染まる、あの白い未完の塔。
そして、手が届きそうな世界一の満天の星々。
(……あそこが、俺たちの家だ)
2:自由への航海
退院から一ヶ月後。
弦とエレーナの口座には、二年間に及ぶ遭難・行方不明認定によって手続きされていた、多額の海外旅行保険金と補償金が、一括で振り込まれていた。
文明社会の人間たちは、その大金を「これからの生活の再建に使え」と言った。
だが、二人の進むべき道は、とっくに決まっていた。
「ボス、手配はすべて終わったわ。そっちは?」
電話の向こうで、エレーナの弾んだ声が響く。彼女は元メダリストとしての野生の行動力をフルに発揮し、すでにアメリカ西海岸の港で、太平洋を横断できる頑強なクルーザー(マイボート)を、手に入れた保険金で即座に買い付け、艤装を整えていた。
「ああ。こっちも今、終わったところだ」
日本の港町。
試験会場から出てきた五十二歳の弦の手には、交付されたばかりの「一級小型船舶操縦士」の免許証が握られていた。
すべてが手に入った。
船舶免許、世界中を航海できる頑強なマイボート、一生遊んで暮らせるはずの多額の資金、そして、二年間で手に入れた「割れた腹筋」と「最強のアスリートボディ」。
だが、新調した白く美しいクルーザーのキャビン、そのピカピカの木製テーブルの上に、弦がそっと置いたのは、最新のブランド品ではなかった。
あの遭難のあの日、最初のキャンプから担ぎ続け、今や泥と潮風でクタクタに薄汚れた無骨なバックパック。
そして、焚き火の煤で真っ黒に焼け、何度もぶつけてボコボコにへこんだ、父親から譲り受けたあの「飯ごう」だった。
最新の船室の中で、それだけが異彩を放つように泥臭く、しかし何よりも誇らしく佇んでいた。
これこそが、二人が生きて帰ってきた証であり、あの島で紡いだ絆のすべてだった。
数週間後。
太平洋のど真ん中、青く澄み切った海を、一隻の白いクルーザーが波飛沫を上げて突き進んでいた。
操舵室で力強く舵を握るのは、五十二歳の「キャプテン」弦だ。
その隣では、潮風を全身に浴びながら、さらに磨きの掛かった強靭な美しさを放つエレーナが、眩しそうに水平線を見つめている。
「ボス、GPSに島影が出たわ! あと一時間で到着よ!」
エレーナの指差す先、うっすらと青い霧の向こうに、あの懐かしい島が現れた。
そして、崖の上のコンクリートの砦――その屋上にそびえ立つ、自分たちが食べた貝殻を焼き、雨水を汲んで練り上げた、白い「サグラダ・ファミリア」の尖塔が、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。
一度は文明社会に引き戻された。
だが、二人の魂は、あの島に置いてきたままであった。
船のエンジンが静かに切られ、心地よい低音が消えると、あたりにはただ、優しい波の音だけが残った。
目の前に広がるのは、緑に覆われた小さな島の影。本土の喧騒も、カメラのフラッシュも、もうここには届かない。
弦が操舵席のコンソールから、船首のウインドラスへと視線を向けた。
「エレーナ、ブレーキのレバーを」
その言葉に、彼女は小さく頷いて船首へと向かった。
ワイオミングの乾いた土を踏みしめていた足が、今は揺れる甲板をしっかりと捉えている。
太平洋の荒波を越えてきた重厚な錨。エレーナは弦に教えられた通り、金属のレバーに両手をかけ、体重をかけてそれを手前に引いた。
カチリ、と硬質な音がしてギヤが解放される。
次の瞬間、数十キロの鉄塊が自重で海へと落ちていく。
――ドブン、と重い水音が響き、太い鉄の鎖が火花を散らすような勢いで、カラカラと音を立てて海中へ吸い込まれていった。
錨が海底の砂を掴み、船体がわずかに揺れて、やがてピタリと静止した。
エレーナは立ち上がり、水平線の彼方を振り返る。そこにはもう、自分たちを縛るものは何も見えない。
彼女はふっと、悪戯っぽく、でもどこか安堵したように微笑んだ。
(『崖の上のモダニズム 〜50歳建築士、無人島で金髪メダリストと城を築く〜』 完)




