第六章 『ジャングルの心臓と謎の遺構』
1. 牙を剥く密林、あるいは極上のご馳走
「……ヘビだ」
弦の背中に冷たい汗が流れる。
老眼鏡越しに焦点を合わせると、その頭部は不気味な「三角形」をしていた。
ハブやマムシの仲間——つまり、出血毒、あるいは神経毒を持つ「猛毒のヘビ」だ。
この無人島で噛まれれば、血清などあるはずもない。数時間で確実に死に至る、本物の「死神」がそこにいた。
ヘビは二人の存在に気づき、鎌首をもたげると、二叉に分かれた舌をチロチロと出し入れしながら、シャーッという威嚇の金属音に近い息を漏らした。
「下がって、ボス。私がやる」
エレーナがナイフを逆手に構え、じり、と重心を落とした。
「待て、エレーナ! 危険すぎる。迂回すれば——」
「ううん、逃がさないわ。……あれ、最高の『お肉』よ」
エレーナの目が、恐怖ではなく、完全に「ハンター」のそれに変わっていた。
極限の十種競技で培われた、100分の1秒をコントロールする動体視力と爆発的な筋力。
シュッ!
ヘビが目にも留まらぬ速さで、弦に向かって牙を剥き、弾丸のように飛びかかった。
「はっ!」
鋭い呼気と共に、エレーナの右腕が閃いた。
彼女が手にしたナイフの切っ先が、空中でヘビの喉元を正確に捉え、そのまま背後の大樹の幹へと深く突き刺したのだ。
ドスッ、と重い音が響き、頭部を固定されたヘビの長い胴体が、のたうち回りながら幹に巻き付く。しかし、数秒後にはそれもだらりと垂れ下がり、完全に動きを止めた。
「……ボス、毒ヘビの頭は、死んだ直後でも筋肉の反射で噛みついてくるの。だから、こうやって真っ先に切り落として、深く土に埋めるのがルール」
ジャングルの木漏れ日の中、エレーナは慣れた手つきでヘビの頭部を処理し、スコップ代わりにした竹のヘラで土深くへと埋めていた。
弦は、大樹の幹に背中を預け、ようやくまともに呼吸ができるようになったところだった。
「……なるほど、勉強になる。だがエレーナ、君のその反射神経は、人間というより猛獣のそれだな。一級建築士の危険予知(KY)活動の範疇を遥かに超えている」
「ふふ、褒め言葉として受け取っておくわ。
さあ、このお肉、どうする? このまま持って歩くと傷んじゃうし、一度拠点に戻って料理する?」
弦は老眼鏡の位置を直し、胸ポケットから防水メモ帳を取り出した。
「いや、戻るには戻るが……。この大蛇の身(肉)は、今ここで捌いて皮を剥ぎ、内臓を落としてしまおう。その方が軽くなるし、何より拠点に戻ってから燻製にするのも早い。それに、このヘビの『皮』だ」
弦は、赤黒い美しい幾何学模様を描くヘビの強靭な皮を指差した。
「これを綺麗に剥いで乾燥させれば、極めて強靭で防水性の高い『革紐』や、道具のグリップに巻き付ける『滑り止め』として使える。建築の現場でも、ロープの擦れ防止(養生)に強靭な皮革は重宝されるんだ。本当に、捨てるところがない素材だ。」
「さすがボス、目ざといわね。」
二人は即座にその場でヘビを解体した。
エレーナがナイフで皮に一本の切れ目を入れ、そこから弦が力を込めてベリベリと皮を剥いでいく。現れたのは、驚くほど美しく、弾力に満ちた真っ白な筋肉の塊だった。
「今夜は豪華な『キキンスープ』よ!」
「……チキンじゃないぞ。」
「いいのよ。食べたら鶏肉みたいなんだから」
「これだけのタンパク質があれば、明日からの本格的な山越え(尾根登り)にも体が耐えられる」
背嚢(スーツケースの端材で作った即席の背負子)に、しっかりと葉で包んだヘビの肉と、丸めた皮を括り付ける。
命のやり取りがあったとは思えないほど、二人の足取りは軽くなっていた。
極限のサバイバルにおいて、「脅威を制圧し、それを自らの血肉に変える」という経験は、生存本能をこれ以上ないほどに刺激し、二人に絶対的な自信をもたらしていた。
だが、彼らが笑顔で引き返そうとした、まさにその時。
エレーナが、切り落とされたヘビの頭部を埋めた土のすぐ近く、絡み合う巨大なシダの根元に、何かを見つけて視線を止めた。
「……あれ? ボス、これって……」
彼女が指差したのは、湿った泥と苔に半分埋もれた――
「不自然なほど真っ直ぐな、コンクリートの角だ。まぎれもない人造の石、……まさか、この島にこんなものが眠っていようとはな」
弦はその場にしゃがみ込み、ゴツゴツとした灰色のアールにそっと触れた。
かつて暴風雨の夜、千年もつ土のシェルターへ逃げ込んだ際、『コンクリートのない時代』の先人の知恵を誇らしげに語ったのは弦自身だった。だが今、彼の目の前にあるのは、近代の人間が『生き残るため』に力尽くで築き上げた、頑丈で冷徹なコンクリートの遺構だ。
「ボス、これって……いつの時代のものかしら?」
二十五歳のエレーナが、泥のついた手で前髪を払いながら、不思議そうに弦の横顔を覗き込んだ。
「おそらく、第二次大戦の遺構だ。旧軍の観測所か、あるいは……」
弦は、かつてクローゼットに残してきた、父親から受け継いだあの軍隊下がりの飯ごうを不意に思い出した。あれと同じ時代の匂いが、この湿ったコンクリートの塊から、かすかに漂ってくる気がした。
弦が周囲の生い茂る藪を、手製のナタで力強く払い除けると、その角の奥にさらに巨大な影が姿を現した。半分土に埋もれ、ツタに覆われたその遺構の入り口。
もしここがただの廃墟ではなく、当時の強固な「シェルター」や、物資を保管していた場所なのだとしたら――。
「エレーナ、奥を調べるぞ。……ここにあるものを上手く使えば、俺たちの『崖の上の家』は、ただの雨風をしのぐだけの掘っ立て小屋じゃなくなるかもしれない」
五十歳のアウトドア魂に、静かな、しかし確かな火が灯る。
二人で挑む「あり得ない建築」の第一歩が、いま静かに始まろうとしていた。
2.コンクリートの砦に光が降る
鬱蒼としたシダのカーテンをナタで叩き切り、弦がこじ開けた錆びついた鉄扉の向こう側は、冷たく湿った暗黒が支配していた。
「……埃がすごいわ。ボス、気をつけて」
エレーナが手製の松明を掲げ、煤けた煙を上げながら弦の背中にピタリと寄り添う。その距離から、25歳の若い体温と、ワイオミングの荒野で培われた独特の鋭い警戒心が伝わってくる。
弦は手持ちのLEDライトの細い光を、暗闇の奥へと滑らせた。
最初に光が捉えたのは、カビと鉄錆の匂い。そして、不気味に沈黙する巨大な鉄の塊だった。
「これは……ギヤ(歯車)か?」
弦が近づき、煤を払う。
そこにあったのは、肉厚な鋳鉄製の屈強なドラムと、そこに幾重にも巻き付いた鋼鉄のワイヤー。当時の軍が物資を崖の上へと引き上げるために設置した、手動式の「ウインチ(起重機)」だった。
「頑丈な作りだな。油を差して、固着したボルトを叩き起こしてやれば……まだ動く。これがあれば、海岸の漂着物も、切り出した石も、一人で抱えきれない重さの資材をすべて崖の上へ引っ張り上げられるぞ」
弦の指先が、機械の構造をなぞる。五十年間の人生で、彼が「直せなかった機械」は数えるほどしかない。父親から受け継いだあの軍隊下がりの飯ごうと同じように、この大戦期のタフな鉄塊は、弦の「直して使う」というクラフトマンシップを猛烈に刺激した。
「ボス、こっちを見て」
奥に進んでいたエレーナの、少し上ずった声が響いた。
弦がライトをそちらへ向けると、彼は思わず息を呑んだ。
鉄と泥の無骨なシェルターの最奥部――そこは、天井の一部が大きく崩落していた。
だが、そこから差し込むのは絶望の影ではなく、目も眩むような美しい午後の木漏れ日だった。
崩れた天井の隙間から、島を吹き抜ける心地よい風が通り抜け、光の柱を立てている。その光を浴びて、コンクリートの冷たい壁を覆い尽くすように、青々とした見事な野生のシダや苔が、まるで生きているカーテンのように垂れ下がっていた。
そこは、戦いの跡地などではなかった。
自然と近代建築が、長い歳月をかけて奇跡的に調和した、静謐な「緑の神殿」だった。
「綺麗……。信じられない、こんな場所がこの島にあったなんて」
松明を消したエレーナが、差し込む光の中に立ち、うっとりとその緑を見上げている。その横顔は、都会の喧騒を嫌ってワイオミングの田舎で育った彼女の、自然を愛する瑞々しい感性に満ちあふれていた。
弦は、コンクリートの壁と、エレーナの姿を交互に見つめた。
ただ雨風をしのぐだけの掘っ立て小屋ではない。
このコンクリートの強固な基礎と、この美しい光と緑をそのまま活かした、自然と共生する「あり得ない家」――モダニズム建築のヴィジョンが、弦の脳裏に鮮烈に浮かび上がっていた。
「エレーナ」
弦は、腰のナタを鞘に収め、低く、しかし確信に満ちた声で言った。
「ここに建てるぞ。俺たちの家を」
エレーナが振り返り、その25歳らしい輝く瞳でボスを見つめ、不敵に、そして嬉しそうに微笑んだ。
「いいわね、ボス。……最高にクレイジーなやつをお願い」
誰もいない無人島。
50歳の渋い男と、25歳のタフな女が、近代の遺構を舞台に「あり得ない建築」へと挑む、生涯終わることのない極上のキャンプが、いま本格的に幕を開けた。
3.空中の道
コンクリートの砦で見つけた大戦期のウインチは、驚くほどタフだった。
弦が何日もかけて固着したボルトを叩き、煤けたギヤに手製の獣脂を丹念に塗り込むと、重厚な鋳鉄のドラムは「ゴト、ゴト……」と、重い産声を上げて回り始めた。
「よし、回るな。……エレーナ、本当にやるか?」
弦はドラムに巻かれた鋼鉄のワイヤーの先を掴みながら、崖のふちに立つ彼女を見上げた。
崖下には、激しい波が押し寄せる南西の海岸が広がっている。
これまでなら、海岸で使えそうな流木や漂着物を見つけても、泥だらけの急斜面を背負って登るしかなかった。だが、このウインチから崖下へワイヤーを一直線に下ろせば、重力に逆らう「空中の物流ルート」が完成する。
「当たり前じゃない、ボス。ここを通すためにウインチを直したんでしょ?」
今年で二十五歳になるエレーナは、腰に頑丈なロープを巻き付けながら、不敵に微笑んだ。
都会育ちの華奢な女性なら足がすくむような高さの崖だが、ワイオミングの峻厳な渓谷で育った彼女にとって、ロープを使った高所作業は慣れ親しんだものだった。
「お前が下でワイヤーを岩に固定しなきゃ、ラインは張れない。だが、風が強い。無理はするな」
「……ボス、ブレーキのレバー、しっかり握っててね」
エレーナはそう言うと、不敵に微笑んで崖のふちに足をかけた。
そのしなやかで力強い体躯が、迷いなく宙へと躍り出る。
弦は息を殺し、ウインチの手動ブレーキレバーを両手で固く握りしめた。
ワイオミングの険しい渓谷で鍛え上げられたエレーナの下降技術は完璧だった。崖の突起を軽やかに蹴り、体重を逃がしながら、まるで重力をあざ笑うかのように急斜面を滑り降りていく。
「……頼むぞ、持ちこたえてくれ」
弦の額から汗が滴り落ちる。
建築のプロとして、彼の頭の中では絶えず計算が走っていた。ワイヤーの線径、経年劣化による許容荷重の低下、そして海岸から吹き付ける突風の側圧。自分の命よりも重いレバーを握る手が、じんじりと痺れてくる。
やがて、はるか下の波音に混じって、澄んだ声が響いた。
『ボス! 着いたわ! アンカー打ち込み完了!』
エレーナが海岸の巨大な玄武岩の割れ目に、手製の楔とワイヤー端末を完璧なロープワークで固縛したのだ。
「よし……いくぞ!」
弦はウインチの逆転防止ギヤをガチンと噛ませ、太いクランクハンドルに全身の体重を乗せた。
五十歳の男の腕肉が跳ね上がり、背筋が悲鳴を上げる。
ゴトッ……ゴトゴトッ!
錆びついた鋳鉄の歯車が噛み合い、たるんでいた鋼鉄のラインが、ズズ……と引き上げられていく。
海岸から崖の上へと伸びる黒い線が、じわじわと撓みを失っていき——
――バチィィンッ!
弾かれた弦のような鋭い衝撃音が、崖全体に響き渡った。
南西の風を受け、一直線に張り詰めた鋼鉄のワイヤーが「ブゥゥゥン……」と重厚なベース音のような低振動を空中に奏で始める。
崖を登り直してきたエレーナが、泥のついた頬を緩め、汗だくの弦の隣に立った。
「見事よ、ボス。私たちの『空中の道』ね」
弦は息を整えながら、崖下に転がっていた丸太に滑車を引っかけ、ワイヤーへと送り出した。
スーーッ……と滑らかな金属音を残し、数人がかりで運ぶような重量物が、空中を軽やかに滑って手元へと上がってくる。
「……ああ。これで俺たちは、この島の『重力』に勝った」
落ちていく夕陽の光を浴びて、空中に架けられた一本の鉄の線が、眩しく輝いていた。
(第七章へつづく)




