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第五章 『境界線の開拓者』

1. 敷地調査と失われた航路


「……なるほど。やはりこの島は、ただの孤島じゃないな」


翌朝。

崖の上に差し込む朝日は、昨日の嵐が嘘のように澄んでいた。コバルトブルーの海をきらきらと照らしていた。


シェルターの外、平らな岩肌の上に、弦は砂浜で回収した二等航海士の遺品を並べていた。


水濡れに強い頑丈なコーティングが施されたプラスチック製の『救命用海図』、そして胸ポケットに入っていた小さな『航海日誌(防水耐水メモ)』だ。


鼻先に老眼鏡をちょこんと乗せた弦は、マルチツールの鉛筆を使って、手元のメモ帳に島周辺の潮の流れと地形を立体的に描き写していく。


「何か分かったの、ボス?」


昨夜、ヤシの葉のベッドで深く眠り、すっかり体力を回復させたエレーナが、淹れたての温かい白湯(竹筒入り)を片手に覗き込んできた。


「ああ。彼のノートと海図、そして昨日俺たちが歩いた高低差を照らし合わせると、いくつかの事実が見えてくる」


弦は図面の一点を指し示した。


「まず、俺たちが今いるこの島は、小笠原諸島からさらに南、定期航路からは完全に外れた絶海の孤島だ。火山活動によってできた比較的新しい火山島で、周囲は険しい崖に囲まれている。だが……」


弦の鉛筆の先が、島の西側から南側へと滑る。


「海図のこの部分に、鉛筆で薄く『×』印と、何かの構造物を示すような記号が手書きで書き込まれているんだ。さらに航海日の最後のページには、走り書きでこうある。

――『南西の入り江、人工の光らしきものを視認。救難信号に反応なし。接近を試みるも荒天のため断念』とな」


「人工の光……! やっぱり、誰かいるのね!?」


エレーナの顔が一気に華やぐ。


「生存者か、あるいはかつてこの島にいた人間が残した施設……それも、自家発電機やバッテリーが生きて動いている可能性がある。だが、手放しでは喜べない」


弦は老眼鏡のフレームを押し上げ、表情を引き締めた。


「彼がその光を見たのは『南西の入り江』だ。俺たちがいるこの『東の崖』からは、島の中心にそびえる巨大な火山性の急峻きゅうしゅんな尾根を越えなければならない。そこは道など存在しない原生林だ。水と食料、そして最低限の武装を整えて挑まなければ、途中で遭難する」


「望むところよ。十種競技デカスロンのクロスカントリーに比べれば、ジャングル歩きなんて散歩みたいなものだわ」


エレーナは頼もしく笑い、サバイバルナイフの刃を革砥(ベルトの裏)でシャッ、シャッと研ぎ始めた。


(……いや、エレーナ。お前はそうかも知れないが、俺は断言する。絶対に無理だ!)


弦は引き締まった彼女のふくらはぎと、自分の少し頼りない五十歳の膝を交互に見つめ、心の中で激しく呟いた。


図面の上では簡単に見える数キロの移動も、道なき密林のアップダウンとなれば、中年建築士の肉体にとっては拷問に等しい。だが、ここで「やっぱりやめよう」と言うわけにもいかない。


「よし。俺たちはこれより、島の『敷地調査』兼、南西へのルート開拓を開始する。目指すは、ジャングルの境界線を越えた先だ」


弦は自分の心の悲鳴をプロのポーカーフェイスで覆い隠し、努めて冷静にそう言い切った。


「でも待って、ボス。水だけじゃ、ジャングルを半日歩いただけでハンガーノック(極度の低血糖)になるわ。エネルギー源が必要よ」


エレーナが弦のリュックを軽く引き留める。そのもっともすぎる指摘に、弦は(これで出発が少し延びて、体力を温存できるな)と、心の底で密かに安堵のため息を漏らした。





2. 保存食のロジックと「燻製スモーク


「……確かにその通りだな。人間の基礎代謝と、あの鬱蒼とした密林を藪漕やぶこぎしながら進む運動量を計算すると、一人あたり最低でも一日1,500キロカロリーは欲しい。数日分の遠征用食料を、腐らせずに持ち運ぶ方法を考えないと。」


二人が目をつけたのは、昨日までに集めた「海の恵み」と、シェルターのすぐ裏で見つけた「森の恵み」だった。


エレーナは慣れた手つきで、昨日の嵐で岩場のタイドプール(潮だまり)に取り残された大きなショウジンガニや、岩肌にびっしり張り付いた親指大のカサガイ、クボガイを素早くバケツ(スーツケースの半分)に放り込んでいった。


さらに、浅瀬に仕掛けておいた竹製の簡易追い込み網には、銀色に光る、ボラに似た魚が三匹かかっていた。


一方、弦はシェルターの裏手、日当たりの良い斜面に群生していた「野生の自然薯タマゴヤムイモ」に似た塊茎植物を掘り起こしていた。老眼鏡のおかげで、土の中の細い蔓の根元を見分けるのも劇的にスムーズだった。


「これはデンプン質が豊富だ。加熱すれば、貴重な炭水化物源になる」


問題は、この熱帯に近い気候の中でどうやってこれらを保存するかだ。そのままでは半日と持たずに悪くなってしまう。


「塩があれば塩蔵(塩漬け)にできるが、海水を煮詰めて塩を作るには時間が足りない。……となれば、答えは一つだな」


弦は新しく作った『二号かまど』の横に、竹と目の粗いヤシの葉で編んだ「即席の吊り棚」を組み上げた。


燻製スモークね」


エレーナがニヤリと笑う。


二人は魚のウロコと内臓をナイフできれいに取り除き、薄くそぎ切りにした。ヤム芋も薄くスライスする。それらを、水分が抜けるまで風にさらしたあと、吊り棚に並べた。


かまどの火の上に、水分をたっぷり含んだ生の広葉樹の葉と、少し湿ったヤシの繊維を被せる。すると、ごうごうと燃えていた炎が消え、代わりに目に染みるほどの、白く立ちのぼる濃い煙がゆっくりと立ち上り始めた。


「よし、これで数時間はじっくり燻す必要がある。エレーナ、芋の乾燥と燻製の火の番を頼めるか?」


「任せて。でもボス、その間何するの? まさか、その辺で寝っ転がって私の筋肉でも眺めてるわけじゃないでしょうね」


エレーナがニヤッとからかうように笑う。


「まさか。プロの建築士をなめるなよ」


弦は老眼鏡をくいっと押し上げ、不敵な笑みを浮かべた。


「これから南西のルートを開拓するが、一回で光の場所にたどり着ける保証はない。道中で嵐に遭うかもしれないし、ケガをするかもしれない。つまり、俺たちには『ここに戻れば絶対に安全だ』と思える、本当の意味での【家(拠点)】が必要なんだ。ただのヤシの葉の雨よけじゃない、ちゃんとした建築をな」


「建築って……道具も建材もないのよ?」


「道具はマルチツールと即席の石斧、建材はそこら中に生えている。十分すぎる」


弦の頭脳は、すでに「現地調達可能な資材」を用いた構造計算を開始していた。


建築士・神崎弦の、島での初仕事ファースト・プロジェクトの始まりだった。




3. 建築士のプライド:高床式タイニーハウス


弦が設計したのは、熱帯地域で最も合理的とされる「高床式たかゆかしき構造」だった。


「地面に直接寝ると、地熱や湿気、それに夜間に這い出てくるムカデやサソリなどの害虫に悩まされる。床を地面から50センチ浮かせる。これだけで居住性は劇的に変わる」


弦はまず、太い竹を切り出し、以下の手順で「基礎」と「骨組み」を構築していった。


独立基礎と柱の設置

1時間

地盤をマルチツールのノコギリで掘り、太い竹を4本、深く強固に突き刺して柱とする。柱の根元には石を詰め込んで突き固め、不等沈下(建物が斜めに傾くこと)を防ぐ。


「三方格子」による梁の結合

1.5時間

釘やボルトはない。弦は竹の節の強度を利用し、マルチツールでホゾ穴(接合用の穴)を空け、横梁を貫通させた。さらに、ツル植物(葛の繊維)を水に濡らしてきつく縛り上げる。乾くとこのツルが縮み、ボルト並みに強固に締め付けるのだ。


すのこ床の敷設

1時間

床板には、割った竹を並べる。適度な隙間をあけることで、通気性を確保しつつ、砂やゴミが下に落ちる「セルフクリーニング床」が完成した。


傾斜ピッチ屋根と外壁

1.5時間

屋根は雨水を効率よく逃がすため、45度の急勾配に。フレームに、幅広のヤシの葉を魚の鱗のように何重にも重ねて結束する。これでスコールが来ても一滴も雨漏りしない。


「……信じられない」


燻製の薪をくべながら、その作業をずっと見ていたエレーナが、呆然と呟いた。


「ただ竹を縛っているだけに見えるのに、まったく揺れないのね」


彼女が柱を思いきり揺さぶっても、構造体はきしむ音すら立てない。弦が施した「筋交い(すじかい・斜めの補強材)」が、横揺れの力を完璧に分散させているのだ。


「建築とは、重力と風力との対話だからな。構造力学さえわかっていれば、竹とクズのツルだけでもこれだけの強度が出る」


弦は額の汗を拭いながら、誇らしげに完成したばかりの「神崎サバイバルハウス一号棟」を見上げた。


広さは約四畳半。大人二人が大の字になって寝るのに十分なスペースがあり、床下からは心地よい風が通り抜ける。


「すごいわ、ボス! これ、もう立派なリゾートコテージじゃないの!」


エレーナが目を輝かせて、すのこ床の上に飛び乗る。


「うん、しなるけど全然折れる気配がない。ヤシの葉のベッドも床の上に敷けば、もう完全にホテルの寝心地ね!」


「ふふ、喜んでもらえて何よりだ」


だが、そんな会話を交わしながらも、弦はやっぱり(……ああ、腰が痛い。数時間スクワットとノコギリ引きを繰り返したせいで、明日は絶対に筋肉痛だ。エレーナ、頼むから明日はゆっくり歩いてくれ……)と、心の中でボロボロの腰をさすりながら、悲痛な叫びを上げていた。


数時間後。


香ばしく焼き上がった魚の燻製と、カチカチに乾燥して日持ちするようになったヤム芋のチップスが、新しい「我が家」の床の上に並べられた。


今、二人には乾いた快適な家があり、清らかな水があり、数日分の食料がある。


ただの「遭難者」だった二人は、この数日間で、島を生き抜く“開拓者”へと変わっていった。


「さあ、ボス。ベースキャンプは完璧。お腹もいっぱい」


エレーナが、完璧に研ぎ澄まされたナイフを腰のホルダーにカチャリと収めた。


「準備万端ね。……ジャングルを、切り拓きに行こう!」


「ああ。敷地調査を始めよう」


弦は筋肉痛に怯える膝に気合を入れ、今度こそ本当に頼もしい相棒と共に、緑の深淵へと最初の一歩を踏み出した。




4. 緑の深淵と、最初の「洗礼」


一歩足を踏み入れたジャングルの中は、崖の上の爽やかな海風が嘘のように遮断され、ねっとりとした生暖かい湿気が二人を包み込んだ。


「……ボス、足元に気をつけて。木の根に見えて、滑る泥や底なしの腐葉土の穴が潜んでいるわ」


先頭を行くエレーナが、マルチツールののこぎりで立ち塞がるシダの葉を払いながら、的確に進路を選定していく。


弦は、スーツケースの端材で作った即席のすね当て(ゲートル)の擦れる音を聞きながら、その後ろを必死に追っていた。


(……ボス、か)


ふと、弦は歩きながら胸の内で苦笑した。

火起こしのゴタゴタの中で彼女の手を治療して以来、エレーナは私のことを「神崎」ではなく、頻繁に「ボス」と呼ぶようになった。


(やはり、私が彼女の父親に近い年齢のせいなのだろうか。それとも、若者なりの、年長者に対するちょっとした敬意の払い方なのか……。まあ、あの泥まみれでそりを引いた頼もしい姿を見れば、現場監督のように見えても不思議じゃないが。勝手にボス扱いされるのも、悪い気はしないな)


そんな弦の勝手な解釈と微笑ましい思考は、ジャングルの容赦ない静寂に、一瞬で呑み込まれた。


(……静かすぎる。鳥の声すら、さっきからまともに聞こえない)


眼鏡をかけ替えた弦は、手元はよく見えるようになったものの、やはり遠くの視界はぼやけている。現場の危険予知(KY)活動と同じだ。こういう視界の悪い場所では、五感を研ぎ澄まさなければ命取りになる。


「エレーナ、少しペースを落とせ。急な斜面や地盤の緩い場所は避けて、尾根に沿ったルートを——」


「シッ……!」


突然、エレーナが鋭く手を挙げて弦を制した。


その全身が、獲物を狙うヒョウのように低く、固まる。


「ボス。一歩も動かないで」


エレーナの視線の先。

弦が踏み出そうとしていた、濡れた苔むした倒木の隙間。




(第六章へつづく)

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