第四章 『人類の灯火 / 火と水のライフライン』
1. 炎の誕生と生命の熱
「……落とし込むんだ!」
弦の叫びに呼応するように、エレーナの美しい背筋がもう一段きしんだ。
最後の力を振り絞った猛ストローク。火きり板の小さなV字の溝に、摩擦で削られた真っ黒な木粉の塊が溜まっていく。その中央が、微かに赤く、意思を持つかのように自熱を帯びて光り始めた。
「そこまでだ、エレーナ! 弓を止めろ!」
エレーナが荒い息を吐きながら弓を退けると、弦はピンセットを扱うかのような手つきで、そっと板をどけた。そこには、息を吹きかければ消えてしまいそうな、米粒ほどの小さな「火種」が残されていた。
弦はあらかじめ手元に用意しておいた、鳥の巣のように丸めた乾燥した極細の枯れ草(火口)を手に取った。
その中心部に、壊れ物を扱うように慎重に火種を滑り込ませる。
「……息を吹きかけるの?」
エレーナがずぶ濡れの額を拭いながら、祈るように覗き込んできた。
「ああ。だが、強く吹きすぎると火種が冷めて死ぬ。優しく、しかし酸素を絶やさないように、赤ん坊をあやすように息を送り込むんだ」
弦は火口を軽く包み込み、顔を近づけて、ふう、ふう、と静かに細く息を吹きかけた。
酸素を得て、枯れ草の奥深くで眠っていた赤色の光が、じわり、じわりと力強く広がっていく。やがて、燻るような白い煙が弦の顔を包み込んだ。
次の瞬間――ボッと小さな音を立てて、鮮やかなオレンジ色の炎が生まれた。
「ついた……! 本当に、木と石だけで火がついたわ……!」
エレーナが子供のように歓声をあげ、その場で小さく跳び跳ねた。弦は安堵の息を漏らしながら、用意しておいた極細の枝から順に、炎の赤ちゃんを育てるようにして火を大きくしていった。
パチ、パチと小気味よい音を立てて燃え盛る小さな焚き火。
その熱が、昨日から潮水と雨風に晒され続けて感覚を失いかけていた二人の身体を、芯からじわじわと温めていく。極限状態における「火」の価値は、暖房や調理といった実用性以上に、人間の精神を狂気から繋ぎ止める絶対的な精神安定剤だった。
「火は確保した。これを絶やさないように炉を作る必要があるが、その前に『水』だ。エレーナ、さっき崖の上から見えた川へ向かうぞ」
弦は火を一度安全な場所に落ち着かせ、手頃な太い枝の先を割り、即席の松明に火を移し替えて手にした。
二人は火の温もりを背中に感じながら、未知の森の奥へと足を踏み進めた。
2. 密林の導線と重力式砂濾過
森の中は、昨晩の嵐のせいで泥濘と倒木が酷かったが、エレーナがナイフで前方の蔓を切り払いながら進むため、驚くほどスムーズに行軍できた。
(やはり、人の手が入った形跡はないな……)
弦は歩きながら周囲の樹木を観察していた。もし近くに街や村があるなら、伐採の跡や古い作業道があるはずだ。しかしここは完全な原生林に見える。やはりこの島は無人島なのだろうか。それとも、まだ見ぬ島の反対側にだけ文明があるのか。
思考を巡らせているうちに、せせらぎの音が大きくなり、二人の前に澄んだ川が現れた。
「綺麗! これならそのまま飲めそうね!」
エレーナが川の水を掬おうと駆け寄るのを、弦は鋭く制した。
「待て、エレーナ。どんなに透明に見えても、野生動物の糞尿や未知の細菌や寄生虫などが潜んでいる可能性がある。煮沸消毒は絶対だが、その前に『濾過』をして目に見える浮遊物や濁りを取り除く必要があるんだ」
弦は川の近くに転がっていた、直径十センチメートルはあろうかという巨大な竹をナイフで切り、一節分の中空の筒を仕立てた。そして、底に小さな穴をいくつか開けた。
「建築における排水処理や、都市インフラの基本は『重力による自然濾過』だ。エレーナ、川底の『細かい砂』『粗い砂』、そして『小石』を集めてくれ。それから、さっきの火起こしで出来た木炭の燃え残りも、細かく砕いて持ってきてくれ」
「砂と、小石と、炭……? それで綺麗になるの?」
「ああ。特に『炭』が重要だ。炭には微細な穴が無数にあって、有機物や臭い、不純物を吸着する最高のフィルターになる。下から【布(スラックスの切れ端)→砕いた炭→細かい砂→粗い砂→小石】の順番で層を作って重ねるんだ。粒子の粗いものを上層に、細かいものを下層に置くことで、段階的にゴミを引っ掛ける」
弦の指示通りに竹筒に材料を詰め込むと、即席の『重力式多層濾過装置』が完成した。
弦が川の水を上から静かに注ぎ込む。水はゆっくりと各層を通り抜け、底の穴から、ぽたり、ぽたりと濁りの一切ない、クリスタルのように透き通った水が滴り落ちてきた。
さらに、切り出した別の竹筒(節を活かして底を残したもの)にその水を移し、焚き火の熱で十分に沸騰させる。
「竹をそのまま火にかけるの!?」と驚くエレーナに、弦は誇らしげに言った。
「竹の表面は水分を多く含んでいるし、中に水を入れておけば、水の沸点(100℃)以上に竹の温度が上がらない。だから、中の水が沸騰するまで竹自体は燃えずに『鍋』の役割を果たすんだ。これぞ天然の使い捨て鍋だ。」
グラグラと煮え立った湯気をまとった真水を、弦はまずエレーナに差し出した。
「さあ、一級建築士特製の名水だ。召し上がれ」
エレーナは両手でそれを受け取り、ゆっくりと口に含んだ。その瞬間、彼女の瞳が驚きにパッと開かれた。
「……美味しい! 苦味がなくて、すごくまろやかだわ!」
彼女の弾けるような笑顔を見て、弦は肩の荷が降りたように息を吐いた。火と水。生きるための最低限のライフラインを、二人は知恵と肉体だけで確かに築き上げた。
「よし、水筒代わりの竹筒に十分な真水は確保した。エレーナ、次は腹を膨らませるぞ。ここから西の砂浜へ向けて、緩やかな斜面を切り拓く。あそこなら食料も、救助の手がかりも集まりやすいはずだ」
二人は満ち足りた気持ちで川を後にし、日差しが差し込む明るい西の砂浜へと足を進めた。
3. 砂浜の「宝箱」と海の冷蔵庫
遮るもののない西の砂浜に出ると、強烈な太陽が二人を照らした。
潮の引いた砂浜には、大小さまざまな潮だまり(タイドプール)が散らばっていた。
「神崎、見て! 潮だまりにカニや貝がたくさんいるわ!」
エレーナは野生の勘を発揮し、岩肌にびっしりと張り付いたカサガイや、岩陰を素早く横切るイワガニを、ナイフと素手を使って驚異的なスピードで捕獲していった。
「素晴らしい収穫だ、エレーナ。潮の満ち引き(引力)は完璧なタイムスケジュールだからな。干潮の時間さえ覚えておけば、ここは俺たちの安全な『海の冷蔵庫』になる。……そして、あそこを見てみろ」
弦が指差したのは、波打ち際から少し上がった、嵐が運んだ木屑やプラスチック片が帯のように溜まる『漂着ライン』だった。そこには、流木に混ざって、自然の色とは異なる、カラフルな人工物の塊がいくつも打ち上げられていた。
「スーツケースだわ! それも二個もある!」
それは、転覆したクルーズ船から放り出され、潮の流れに乗ってこの浜に漂着した、赤とシルバーの大型の旅行カバンだった。
鍵はかかっていたが、弦がナイフの背を当て、エレーナが石で叩くと、あっけなく壊れた。
中からは、水濡れを免れたブランドもののシルクのドレスやリネンシャツ、そして未開封の高級ウイスキーのボトル、さらには頑丈なスチール製のマイボトル。
「それに、神崎、これ! 化粧ポーチの奥に眼鏡ケースが入ってるわ。……あ、でもこれ、おばあちゃんが使うような『老眼鏡』ね。あなた近視だから、使えないわよね?」
エレーナが取り出したのは、べっ甲フレームの小ぶりな老眼鏡だった。
しかし、弦はそれを見るなり、息を呑むように目を見開いた。
「いや、エレーナ。今の俺にとって、これは金塊以上の価値がある」
弦は震える手でその老眼鏡を受け取り、鼻先にかけた。
そして、手元の防水メモ帳を開く。
「……見える。線のブレが消えた。図面が書けるぞ……!」
普段、遠近両用の眼鏡を愛用していた50歳の弦にとって、裸眼での一番の苦痛は「遠くがボケること」以上に「老眼のせいで手元の数式や設計図の細部がまったく見えないこと」だったのだ。
遠くを見る時は眼鏡を外せば(ぼやけつつも)最低限は歩けるが、手元の精密作業だけはピントが合わずに限界を迎えていた。
「それに、この老眼鏡の凸レンズ(プラスレンズ)があれば、太陽光を一点に集めれば、火が消えてもすぐに再点火できる。一級建築士に『視力』と『光学ガラス』が戻ったんだ。これで俺の脳内の設計図を、完全にこの島に具現化できるぞ」
弦は眼鏡のツルを優しくたたんで胸ポケットに差し込み、ゆっくりと口元を上げた。
「エレーナ、このシルクのドレスは細く裂いて撚り合わせれば、靴紐よりはるかに強い「ロープ」になる。シャツは濾過装置の予備フィルターに。そしてこのウイスキーは、怪我をした時のための最高強度の『消毒薬』だ」
「それに、このカバンそのものも使えそうね」
「この頑丈なポリカーボネートのシェルにシルクのロープを取り付ければ、重い粘土や石、木材を一気に引きずって運べる『運搬用そり』になる。摩擦抵抗を減らした滑走面を作る方が、抱えて運ぶより遥かにエネルギー効率が良いからな」
さらに、漂着したゴミの中から、錆びてはいるがまだ十分に使える「プレス加工された四角い一斗缶の底」を拾い上げた。砂で磨けば、これ以上ない“鍋”になる。
大収穫に、二人の顔に自然と笑みがこぼれる。
しかし、エレーナが荷物をスーツケースに詰めようと身を屈めた、その瞬間だった。
神崎、動かないで。……砂浜の奥、ジャングルの入り口を見て。
エレーナの鋭い視線の先。
太陽の光に照らされた白い砂浜と、鬱蒼とした暗い緑の森。その境界線。
その木々の隙間の木漏れ日の中に、明らかに自然物ではない、ずっと岩にもたれかかった「奇妙な影」が佇んでいた。
「……誰か、いるのか?」
弦が目を細めて声をかけようとした。だが、返事はない。
ただ、胸の奥にじわりと嫌な予感が広がっていった。
弦はエレーナをその場に待たせ、草木をかき分け、一人でその影へとゆっくり近づいた。
「……!」
言葉を失った。
それは、陽炎などではなかった。
岩に寄りかかるようにして座り込んでいたのは、すでに肉が削げ落ち、真っ白に風化した人間の白骨死体だった。
下半身は砂浜の砂に埋もれ、長い年月、潮風と波にさらされ続けてきたことを物語っている。
弦は息を呑み、胸の前でそっと手を合わせた。
そして、足早にエレーナの元へと戻った。不安げに待つ彼女の肩に手を置き、落ち着いた声で告げた。
「エレーナ……。先客がいた。だが、もうずいぶん前に亡くなっている」
「……え?」
「白骨化して、岩に寄りかかっていた。ここから先は俺がやる。お前は少し、海の方を見ていてくれ」
エレーナは青ざめた顔で小さく頷き、視線を逸らした。
弦は再び死体の側に戻ると、スコップ代わりの流木を使い、これ以上波にさらわれないよう、近くの乾いた頑丈な岩の下に深く穴を掘った。
下半身が砂に埋もれた遺骸は、もう動かすことができなかったが、弦は彼の持ち物であった、錆びたナイフと、傷だらけの古い方位磁石、そして腕時計をそっと回収した。
「……苦しかったろうな。安らかに眠ってくれ」
弦は遺品を岩の下に丁重に埋め、即席の墓標として平たい石を積み上げた。
この島で命を落とした、名前も知らない「先代のサバイバー」。
彼が残した墓標は、弦とエレーナにとって、この無人島が美しくも、一歩間違えれば死が待つ「本物の荒野」であることを、静かに、そして強烈に突きつける警告となった。
だが同時に、弦が先達の遺骸に敬意を払い、優しく弔ったその姿を見て、エレーナは「この人となら、どんな地獄でも生き抜ける」と、心の底から信頼を寄せるようになったのだった。
二人は緊張感をはらみながらも、手に入れた「宝物」をスーツケースのそりに積み込み、急いで東の崖の上の拠点へと戻ることにした。
(第5章へつづく)




