第9話 世代を繋ぎ続ける瀬戸内を感じた金曜夜
周防大島のほうでは、土曜の夜にフラダンスのパフォーマンスが開催されるらしい。
金曜夜のふれあいドライブインには、その前日にもかかわらず、いつもより人が多かった。明日の準備を終えた人たちが、少し早めの打ち上げのように集まっている。
駐車場の端では、小さなバーベキュー台が出されていた。もちろん火の管理はてっちゃんがしている。子どもたちは、第6話の夜に現れた月待ちシーソーに乗り、きゃあきゃあと声を上げている。誰かが上がれば、誰かが下がる。誰かが笑えば、誰かも笑う。
店内の天井モニターには、サンビームやないで開催予定の「サザンセト音楽祭」の告知映像が流れていた。地元の合唱団、吹奏楽、民謡、フラダンス。いくつもの演目の中に、周防大島のフラチームの名前があった。
「フラって、ハワイの踊りですよね」
直樹が言うと、歌子さんが頷いた。
「そう。周防大島は、カウアイ島と長い交流があるのよ。もう何十年も続いているの」
「カウアイ……」
「ハワイの島のひとつ。海の向こうにある遠い島だけど、ずっと前から繋がっているの」
繋がっている。
その言葉を、直樹は最近よく聞くようになった。
橋で繋がる。襷で繋がる。物流で繋がる。サインや手形で繋がる。言葉や音楽で繋がる。
ドライブインに通う前の直樹なら、そんなことを気にしただろうか。
カウンターの端では、エミが塩コーヒーを飲みながら、窓の外の子どもたちを見ていた。
「楽しそうですね」
「シーソー?」
「はい。でも、大人が乗ると、妙に考え込んじゃうんですよね」
「第6話のことですか」
「第6話って何ですか」
「あ、いや、何でもないです」
直樹はごまかした。
そのとき、店の奥のテーブルで、小さな言い争いのような声が聞こえた。
「だから、明日は笑って踊ればいいの」
「無理だよ」
声の主は、祖母と孫娘らしき二人だった。
祖母は七十代くらいだろうか。姿勢がよく、髪をきれいにまとめている。手元には、明日のフラで使うらしい花飾りが置かれていた。
孫娘は高校生くらい。パウスカートの入った袋を抱え、うつむいている。目元が少し赤い。
「笑えって言われても、笑えない」
「踊りは笑顔が大事なの」
「分かってる。でも、調べれば調べるほど、分からなくなるんだよ」
祖母が黙った。
歌子さんが、そっと二人のテーブルに温かいお茶を置いた。
「無理に話さなくていいけど、よかったらここで少し休んでいきなさい」
孫娘は、小さく頭を下げた。
「すみません」
祖母が、直樹たちの方を見た。
「お騒がせしてごめんなさいね。明日のフラのことで、ちょっと」
「明日、踊られるんですか?」
エミが聞くと、祖母は頷いた。
「ええ。この子と一緒に踊る予定だったの。でも、リハーサルで途中から踊れなくなってしまって」
孫娘は、膝の上で拳を握っていた。
「踊れないんじゃない」
小さな声だった。
「笑って踊れないだけ」
直樹は、その言葉に引っかかった。
「どうしてですか」
聞いていいのか迷ったが、もう声に出ていた。
孫娘は、少しだけ直樹を見た。
「フラのことを調べてたんです。周防大島とカウアイの交流とか、移民のこととか、海を渡った人たちのこととか。そしたら、海って綺麗なだけじゃないって、当たり前だけど思って」
彼女は、言葉を探すように続けた。
「回天のことも、戦艦陸奥のことも、七月二十八日のことも出てきたんです。海の近くには、楽しい話だけじゃなくて、怖い話や悲しい話もたくさんあって。それなのに、明るい顔で踊れって言われても、何を笑えばいいのか分からなくなって」
店内が、少し静かになった。
回天。
戦艦陸奥。
七月二十八日。
直樹は、その名前を知識としては知っていた。けれど、それがこの金曜夜のドライブインの空気に入ってくると、ただの歴史用語ではなくなる。
海は、映像で見ると美しい。
けれど、そこには沈んだものがある。
失われた人がいる。
語り継ぐ人がいる。
祖母は、孫娘の言葉を静かに聞いていた。
「あなたが調べてくれたのは、嬉しいよ」
「でも、おばあちゃんは笑って踊れって言う」
「笑って忘れろと言っているわけじゃないの」
祖母の声は、穏やかだった。
「私はね、重すぎるものを、重すぎるまま渡したら、次の人が受け取れないと思っているの」
「どういうこと?」
「悲しいことは、悲しいままだと、持つだけで精一杯になるでしょう。だから、歌にしたり、踊りにしたり、花をつけたり、手を繋いだりする。軽くしているんじゃない。持ち続けるために、形を変えているの」
孫娘は、何も言わなかった。
エミが、静かに口を開いた。
「忘れるために笑うんじゃなくて、忘れないために笑うこともあるんじゃないかな」
祖母と孫娘が、エミを見た。
エミ自身も、自分で言って少し驚いたようだった。
「すみません。うまく言えないですけど」
「いえ」
祖母は、ゆっくり頷いた。
「とても、いい言葉です」
直樹は、エミの横顔を見た。
CoastViewの夜、アレックスが言っていたことを思い出す。海は美しい。でも怖い。人を生かす。でも奪う。どちらも見せたい。
フラも、同じなのかもしれない。
明るさは、軽さではない。
笑顔は、忘却ではない。
そのとき、外から子どもたちの声が聞こえた。
「次、こっち上げて!」
「急に下げないで!」
シーソーの音が、ぎい、と小さく響く。
孫娘は、窓の外を見た。
「シーソーって、ずっとどっちかが上ってわけじゃないんですね」
直樹は、第6話の夜を思い出した。
「そうですね。相手がいないと、ただの板ですし」
エミが直樹を見た。
「それ、前に私が言ったやつです」
「すみません。良い言葉だったので」
少しだけ笑いが起きた。
祖母は、孫娘の手に花飾りを乗せた。
「明日、完璧に踊れなくてもいい。笑えなくてもいい。でも、途中で止まらないで。あなたが止まったら、あなたの後ろにいる人も止まってしまう」
「駅伝みたい」
エミが呟いた。
未来たちのことを思い出しているのだろう。
「駅伝?」
孫娘が聞く。
「前にここで、駅伝の子が助けられたことがあって。アンカーだけで駅伝してるんじゃないって、チームメイトに言われてた」
孫娘は、花飾りを見つめた。
「踊りも、一人じゃないんだ」
「そうよ」
祖母が言った。
「私もいる。隣の人もいる。後ろで音を出す人もいる。見てくれる人もいる。遠いカウアイの人たちも、昔海を渡った人たちも、ここにいた人たちも。全部一人で背負わなくていいの」
外では、バーベキューの匂いが漂っていた。
てっちゃんが焼いた肉や野菜を、紙皿に分けている。子どもたちは、シーソーと肉の間を行ったり来たりしている。
サザンセト音楽祭の告知映像が、またモニターに流れた。
画面の中では、明るい衣装を着た踊り手たちが笑っている。その笑顔の裏に、どれだけの歴史があるのか、直樹は今まで考えたことがなかった。
「直樹さん」
エミが小声で言った。
「はい」
「私たち、最近すごい場面に居合わせすぎじゃないですか」
「そうですね」
「普通の金曜夜って、何でしたっけ」
「僕も分からなくなってきました」
二人は小さく笑った。
けれど、その笑いもすぐに静かになった。
笑うことと、軽く扱うことは違う。
その区別を、今夜の店全体が探しているようだった。
孫娘は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく言った。
「明日、笑えなかったらごめん」
「それでいい」
祖母が答えた。
「笑えなくても、踊りきりなさい」
翌日の夜。
サンビームやないの会場には、多くの人が集まっていた。ステージの袖で、孫娘は深く息を吸っていた。
祖母が隣に立つ。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
「正直でよろしい」
祖母は笑った。
音楽が始まった。
照明が、ステージを照らす。
海を思わせる青、夕暮れを思わせる橙、月のような白。
踊りが始まる。
孫娘の表情は、最初、硬かった。笑顔には遠い。手の動きも少し震えている。途中、一度だけ足の運びを間違えた。
けれど、止まらなかった。
祖母が横で踊っている。
他の踊り手たちもいる。
客席には、歌子さん、てっちゃん、エミ、直樹の姿もあった。
孫娘は、笑えなかった。
でも、踊りきった。
曲が終わると、会場に拍手が広がった。
拍手の中で、孫娘は祖母の方を見た。
「笑えなかった」
祖母は、少し泣きそうな顔で頷いた。
「それでも、踊りきった」
その言葉を聞いた瞬間、孫娘の目から涙がこぼれた。
客席で、エミが静かに手を叩いていた。
直樹も、その隣で拍手を続けていた。
海を渡るものがある。
橋を渡るものがある。
世代を渡るものがある。
悲しみは、そのままでは重すぎる。
だから人は、歌にする。踊りにする。花飾りにする。音楽祭にする。バーベキューの煙に混ぜる。子どもたちのシーソーの声に紛れ込ませる。
忘れるためではない。
繋ぎ続けるために。
直樹は、ステージの上の祖母と孫娘を見ながら、そう思った。




