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最終話 日に日に良くなっていってほしい金曜夜

 十二月に入ってから、直樹は何度か、ふれあいドライブインへ行くかどうか迷う金曜夜があった。


 仕事は年末に向けて少しずつ慌ただしくなっていた。資格試験も終わり、結果発表を待つだけの時期に入っている。問題集を開いても、もう新しい知識を詰め込む段階ではない。かといって、何もしないでいると、落ちていた時の自分を想像してしまう。


 だから、いつものように大畠駅で降りた。


 駅のホームに立つと、冬の風が頬に当たる。夏の頃とは違う冷たさだった。第1話の夜、自分はこの駅に偶然降りた。自習室が満席で、ただ居場所がなくて、海の方へ歩いた。あの時の自分は、この駅を何度も降りることになるとは思っていなかった。


 国道へ向かう道を歩く。

 踏切を越え、海側へ向かう。

 ドライブインの灯りが見えてくる。


 それだけで、少し息がしやすくなった。


 店に入ると、掲示板の前に歌子さんが立っていた。何かを貼り直しているようだった。


「あら、直樹さん。お帰りなさい」


「こんばんは。何をしてるんですか」


「掲示板の整理。年末だからね」


 直樹は、掲示板の前に立った。


 そこには、この数ヶ月で見知ったものがいくつも並んでいた。


 ユミたちロケ地巡りの学生たちと撮った写真。

 革ジャンの男たちが、鯛茶漬けの茶碗を持って笑っている写真。

 大畠高校駅伝部の将来有望なランナーの記事。

 誰かが描いた月待ちシーソーのデッサン。

 サザンセト系非公認VTuberのイベント告知。

 CoastViewの撮影協力への感謝状。

 サザンセト音楽祭のチラシ。


 そのどれもが、初めてここに来た時には存在しなかったものだった。


「増えましたね」


「増えたわね」


 歌子さんは、どこか嬉しそうに言った。


「お店って、不思議よね。毎日同じ場所にあるのに、来る人が変わると、少しずつ違う場所になっていくの」


「同じ店なのに?」


「そう。同じ店なのに」


 歌子さんは、古い色紙のほこりをそっと払った。


「でも、変わらないものもある。あの橋を作った人たちの手形とか、駅を直した人たちのサインとか。そういうものがあるから、新しい写真を貼っても、ただ浮かずに済むのかもしれないわね」


 直樹は、再び掲示板を見つめた。


 名もなき人たちの手形。

 ロケ地巡りの学生たち。

 妻子を失ったツーリング客。

 駅伝の未来。

 非公認VTuber。

 海外ドラマの撮影隊。

 フラを踊りきった祖母と孫娘。


 自分は、ただ資格勉強をしに来ていただけのはずだった。

 だけど、いつの間にか、ここで多くの人の夜に居合わせてしまった。


「直樹さん」


 歌子さんが言った。


「この店に来る人はね、みんな何かを食べに来るの。でも、本当は、食べ物だけじゃないのよ」


「食べ物だけじゃない?」


「休みに来る人もいる。泣きに来る人もいる。誰かに会うために来る人もいる。誰かに会えなかったことを抱えて来る人もいる。ここはドライブインだから、みんな通り過ぎていく。でも、通り過ぎる前に少しだけ座る場所が必要な人もいるの」


 直樹は、やっさんを思い出した。鯛茶漬けを食べながら泣いていた革ジャンの男。

 アレックスを思い出した。海で亡くした恋人に、夢の中なら会えるのだと言っていた人。

 フラダンスの孫娘を思い出した。笑えなくても踊りきった少女。


 通り過ぎる前に、少しだけ座る場所。


 それは、自分にとっても同じだった。


「僕も、そうかもしれません」


 直樹は言った。


「最初は、勉強する場所がほしかっただけなんです。でも今は、ここに来ると少し落ち着きます。落ち着くというか、まだ何とかなるかもしれないと思えるというか」


「それなら良かった」


 歌子さんは、やさしく笑った。


 それから



 それから、今年も残り一週間を切ろうとしている。


 でも、昨年までとは明らかに違っていた。

 直樹には、第二の家のような場所ができている。


 今夜はクリスマス。

 正確には、イブの満月から一日過ぎた夜だった。月はほんの少しだけ形を変えているはずなのに、ドライブインの灯りと重なると、まだ十分に丸く、明るく見えた。


 年末の仕事の疲労は、体の奥にたまっている。

 それでも、今年最後のドライブインだと思うと、自然と足は大畠駅から海側へ向かっていた。


 エミさんは来ているだろうか。


 年末は物流も忙しいと聞いている。クリスマス、年末年始、帰省、贈り物、食材、燃料。誰かの生活が華やかになるほど、それを支える人たちは忙しくなる。


 徳山駅で、クリスマスプレゼントのようなものを買いたかった。けれど、仕事が押して時間がなかった。結局、ほとんど手ぶらで来てしまった。


 そして今日は、資格試験の結果発表日でもあった。


 自己採点では、ボーダーライン上にいるような気がしている。

 合格者の受験番号は、すでにウェブサイトに載っている。けれど、仕事中には見なかった。落ちていたら、確実にその後の仕事が手につかなくなると思ったからだ。


 見なければ、結果はまだ確定しない。

 もちろん、そんなことはない。

 けれど、見ない間だけは、合格している自分と、不合格になっている自分が、ぎりぎり同じ場所に立っているような気がした。


 カランコロン。


 ドライブインの中には、ハワイアン風にアレンジされたクリスマスソングが流れていた。ウクレレの軽い音が、外の冷たい夜と不思議に混ざっている。


 エミさんは、いつものバーカウンターの中央に座っていた。


 かなり疲れているのだろう。背中がいつもより丸まっている。塩コーヒーのカップを両手で包み、しばらく動かない。けれど、直樹が入ってきたことに気づくと、ゆっくり顔を上げた。


「こんばんは、直樹さん」


「こんばんは、エミさん」


 その声を聞いて、直樹は少しだけ安心した。


 今年最後の金曜夜に、彼女がここにいる。

 それだけで、胸の奥が少し温かくなる。


「お疲れですか」


「かなり」


 エミは苦笑した。


「クリスマスの荷物って、重さ以上に気持ちが乗ってる気がする。遅れたら大変だし、壊したら大変だし。今日は一日、赤い帽子の人より忙しかったかも」


「サンタクロースより?」


「少なくとも私の担当エリアでは」


 直樹は笑った。


 歌子さんが、カウンターの向こうから顔を出した。


「お帰りなさい、直樹さん。今年最後の金曜夜ね」


「はい。今年もお世話になりました」


「それを言うには、まだ少し早いわよ。今日は長い夜になるかもしれないし」


 歌子さんは、意味ありげに笑った。


 直樹は席に着いた。

 けれど、問題集を開く気にはなれなかった。


 ポケットの中のスマートフォンが、ずっと重い。


 結果を見なければならない。

 見たくない。

 見なければ、今年は終われない。

 でも、見れば、何かが終わってしまう気がする。


 エミが、その様子に気づいた。


「今日、結果の日でしたよね」


「覚えてたんですか」


「そりゃ、何回も聞いてますから。秋の試験、秋の試験って」


「そんなに言ってました?」


「言ってました」


 エミは、少しだけ笑った。


「見ないんですか」


「見ます」


 直樹は、スマートフォンを取り出した。


 指が少し震えていた。

 受験番号は、何度も見た。覚えている。けれど、この瞬間だけは、なぜか自分の番号が本当にその番号だったのか、不安になる。


 合格者一覧のページを開く。

 数字が並んでいる。


 目で追う。

 上から、下へ。

 もう一度、上から。

 検索欄に番号を入れる。


 結果は、すぐに出た。


 該当なし。


 直樹は、しばらく画面を見ていた。


 何も感じなかった。

 いや、感じないようにしただけかもしれない。


「……ありませんでした」


 声に出した瞬間、胸の奥が沈んだ。


「落ちました」


 エミは、すぐには何も言わなかった。

 歌子さんも、何も言わなかった。


 ハワイアン風のクリスマスソングだけが、妙に明るく流れている。


「惜しかったんですか」


 エミが、静かに聞いた。


「たぶん。自己採点だと、ぎりぎりだったので。でも、ぎりぎり届かないのは、届いていないということです」


 直樹は、スマートフォンの画面を消した。


「結果って、残酷ですね」


「うん」


 エミは頷いた。


「でも、直樹さんがやってきた時間まで、消えるわけじゃないと思う」


「そう言ってもらえるのは、ありがたいです。でも、今日はちょっと、効きます」


「効くよね」


「はい」


 直樹は、笑おうとした。

 けれど、うまく笑えなかった。


 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。


 カランコロン。


「こんばんは」


 入ってきたのは、未来だった。


 駅伝部のジャージではなく、少し大人びたコートを着ている。けれど、背筋の伸び方と、どこか真面目すぎる表情は、あの夏の夜と同じだった。


「未来ちゃん!」


 エミが驚いて立ち上がる。


「お久しぶりです」


 未来は、少し照れたように頭を下げた。


「今年中に、一度ちゃんとお礼を言いに来たくて」


「足は?」


「もう大丈夫です。あのあと、しばらく練習を止められましたけど」


「それは止められるよ」


「はい。怒られました。ものすごく」


 未来は苦笑した。


 歌子さんが、水ではなく温かいお茶を出した。


「大会、見たわよ。新聞にも載ってた」


 未来は、少しだけ目を伏せた。


「また、二位でした」


 その一言に、店内の空気が静かになった。


「本当に、僅差でした。最後のトラック勝負で、届かなくて。チームメイトと走り切れたことは、本当に良かったです。あの夜、みんなに抱きしめられて、アンカーだけで駅伝してるんじゃないって、ちゃんと分かりました」


 未来は、そこまで言ってから、唇を噛んだ。


「でも……走りたかったな、都大路」


 目に涙が浮かんでいた。


 エミは、何も言わずに未来の隣へ行った。

 そっと背中に手を置く。


 未来は、泣くまいとしていた。けれど、涙はこぼれた。


「二位って、すごいんです。分かってるんです。町の人も、学校の人も、みんな褒めてくれました。チームメイトも、胸張ろうって言ってくれました。でも、優勝した学校の横で、拍手してる自分がいて。笑わなきゃって思うのに、悔しくて」


「悔しいよね」


 エミが言った。


「はい」


 直樹は、スマートフォンを握ったまま、未来を見ていた。


 自分も落ちた。

 未来も届かなかった。


 比べるものではない。

 けれど、届かなかった夜に、二人は同じ店にいた。


「英語で、準優勝って何て言うんでしたっけ」


 直樹は、ふと呟いた。


「急に?」


 エミが聞く。


「いや、何となく。準優勝って、英語だと……runner-up、だった気がします」


 直樹はスマートフォンで調べた。


「runner-up」


 画面に表示された単語を、未来が覗き込む。


「走る人、みたいですね」


「本当は、二番手とか次点という意味らしいです」


 直樹は言った。


「でも、駅伝だと、余計に不思議な言葉に見えますね。走った人。上へ向かう人。届かなかったけど、走り切った人」


 未来は、涙を拭いた。


「runner-up……」


 その言葉を、自分の中で何度か転がしているようだった。


「私たち、走り切ったんですよね」


「はい」


 直樹は頷いた。


「走り切ったと思います」


 歌子さんが、キッチンから大きな土鍋を持って出てきた。


「こういう夜は、これね」


「何ですか?」


 エミが聞く。


「汐まち鍋」


 土鍋の蓋が開くと、湯気がふわりと上がった。魚、白菜、豆腐、きのこ、細く切った大根、そして柑橘の皮が少し。潮の香りと、やさしい出汁の匂いが広がる。


「潮を待つみたいに、ゆっくり食べる鍋よ。急いでも仕方ない夜に出すの」


「そんなメニュー、ありましたっけ」


 直樹が聞くと、歌子さんは笑った。


「今日できたの」


「また裏メニューですか」


「この店は、必要な時に必要なメニューが出るのよ」


 三人は、鍋を囲んだ。


 クリスマスらしい華やかさはない。

 けれど、冷えた体には、何よりありがたかった。


 未来は、少し食べてから、かばんの中から封筒を取り出した。


「歌子さん。お願いがあるんです」


「何かしら」


「掲示板に、これを貼ってもらえませんか」


 封筒の中には、新聞記事と写真が入っていた。


 新聞記事には、大畠高校駅伝部が二位になったことが載っている。大きく写っているのは、優勝したライバル校だった。けれど、その隣に、未来たち大畠高校の集合写真があった。記事よりも一回り大きく引き伸ばされた写真には、未来とチームメイトたちが、泣き笑いのような顔で並んでいる。


 写真の下には、手書きでこう書かれていた。


 準優勝 Runner-up


「もちろんよ」


 歌子さんは、すぐに答えた。


 掲示板の前に、皆で移動した。


 夏の夜、ユミたちロケ地巡りの学生たちと撮った写真がある。そのそばに、未来が新聞記事を貼った。優勝校が写る記事。その隣に、自分たちの大きな写真を貼る。


「これでいいです」


 未来は言った。


「優勝した学校がいたから、私たちは二位だった。でも、私たちが走ったことも、ちゃんとここに置きたい」


「いいと思う」


 エミが言った。


 直樹も頷いた。


 そのとき、未来が掲示板を見渡して、ふと首を傾げた。


「そういえば、エミさんと直樹さんの写真ってないんですか?」


「えっ」


 エミと直樹の声が重なった。


「花火の写真には一緒に写ってますけど、二人だけのはないですよね」


「二人だけの写真なんて、別に」


 エミが慌てる。


「ちょうど届いたのよ」


 歌子さんが、カウンターの下から一冊の季刊誌を取り出した。


「柳井日々マガジンの冬号。大島大橋五十周年の特集」


 表紙を見て、直樹とエミは固まった。


 満月の夜、橋の手前で、シーソーに座る二人の後ろ姿。顔は映っていない。けれど、どちらが直樹で、どちらがエミか、本人たちにはすぐに分かる。


 月待ちシーソー。

 大島大橋。

 顔の見えない二人。


「これ、表紙なんですか」


 直樹の声が裏返った。


「顔は映ってないから大丈夫よ」


 歌子さんは楽しそうに言う。


「そういう問題ですか」


 エミは両手で顔を覆った。


 未来は、表紙を見て笑った。


「いい写真ですね」


「未来ちゃんまで」


「本当に。なんか、橋の手前にいる感じがします」


 その言葉に、直樹は何も言えなくなった。


 橋の手前にいる。

 確かに、自分たちはずっとそうだった。


 歌子さんは、その季刊誌を掲示板の下に置いた。


「これはここに置いておきましょう。持って帰りたい人は、受付にまだ何冊かあるから」


「買います」


 直樹が思わず言うと、エミがこちらを見た。


「買うんですか」


「記念に」


「じゃあ、私も……いや、やっぱり恥ずかしい」


「買いましょう」


「直樹さん、急に強い」


 少しだけ笑いが戻った。


 そのあと、歌子さんがもう一つ、少し申し訳なさそうに知らせを出した。


「実はね、来年から、少しメニューの値段を上げることにしたの」


 店内が静かになった。


「仕入れも、電気代も、燃料代も、いろいろ上がっていてね。定食も、八百円ではもう難しいの。来年から千円にします」


 直樹は、最初の夜を思い出した。

 八百円の定食。魚汁のサービス。疲れ切った自分を救ってくれた、あの温かい食事。


 値上げ。

 それは現実だった。


 世界情勢、燃料費、物価高騰。ニュースの中だけの言葉だと思っていたものが、ドライブインのメニュー表にまで届いている。


「仕方ないですよ」


 エミが言った。


「続いてほしいので。無理してなくなる方が嫌です」


「僕もそう思います」


 直樹も続けた。


「このドライブインが続くためなら、千円でも食べます」


「ありがとう」


 歌子さんの声は、少しだけ震えていた。


「続けるって、簡単じゃないわね」


「でも、続いてほしいです」


 未来も言った。


「私、出世払いしないといけないので」


「そうだったわね」


 歌子さんが笑った。


 夜九時になったころ、未来が帰ることになった。


「今日は本当にありがとうございました」


「こちらこそ、来てくれてありがとう」


 エミが言う。


「また来ます。次は、ちゃんと何か注文します」


「出世払いの第一歩ね」


 歌子さんが言うと、未来は笑った。


 ドライブインの外まで、エミと直樹は未来を見送った。


 未来は、振り返って手を振った。

 その姿が駐車場の向こうに消えていく。


 そのときだった。


 直樹は、ドライブインの隣に、見慣れない建物があることに気づいた。


 白い壁。

 細い窓。

 屋上へ続く塔のような部分。

 そして、入口には小さな看板がある。


 月待ホテル。


「エミさん......!」


「見えてます......!」


 エミの声も震えていた。


「ありますよね!」


「あります!」


「前からありましたっけ?」


「ないです。少なくとも、私は見たことないです」


 二人は、しばらくその建物を見つめていた。


 店の入口から、歌子さんが出てきた。


「見えたのね」


「歌子さん、あれ」


「月待ホテル。必要な時に現れるの」


「本当にあったんですか!」


「本当に、という言い方が正しいかは分からないけど」


 歌子さんは、静かに笑った。


「展望台からは、月がよく見えるわ。登ってらっしゃい」


「えっ」


 エミが声を上げた。


「今からですか」


「今夜がいいのよ」


 歌子さんは、エミの薄い上着を見て、店の中からジャケットとマフラーを持ってきた。


「ユカリのだけど、これを着ていきなさい。少し大きいかもしれないけど」


 エミが羽織ると、ジャケットは少しぶかぶかだった。マフラーを巻くと、口元が隠れた。


「キャップは置いていきなさい。上は風が強いから飛ばされるわよ」


 エミは少し迷った。

 けれど、キャップを外した。


 直樹は、初めて彼女の目元をはっきり見た気がした。


 その代わり、口元はマフラーに隠れている。

 隠れる場所が変わっただけなのに、彼女が少し違って見えた。


 二人は、月待ホテルへ向かった。


 入口をくぐると、ロビーには誰もいなかった。古いホテルのようでもあり、新しい建物のようでもある。木の匂いと、海風の匂いが混じっている。


 奥に、展望台へ続く螺旋階段があった。


「信じられないですね」


 直樹が言った。


「うん」


 エミは階段を見上げた。


「でも、私たち、幽霊だって見たんだよ。怖いものなんてないよ」


 そう言って、エミは手を差し伸べた。


 直樹は、その手を見た。


 少し冷えている。

 でも、確かにそこにある。


「行きましょう」


 直樹は、その手を取った。


 二人は、螺旋階段を駆け上がった。


 同じ場所を回っているようで、少しずつ高くなる。

 息が上がる。

 笑いそうになる。

 怖くもなる。


 ようやく展望台に出ると、冬の風が二人を包んだ。


 月が大きかった。


 イブの満月から一日過ぎた月。

 少し欠けているはずなのに、空の中で堂々と光っている。大島大橋が、その光を受けて静かに伸びていた。周防大島の輪郭が、夜の海の向こうに浮かんでいる。


 エミの髪が風に揺れていた。

 キャップがないので、目元がはっきり見える。

 その代わり、口元はマフラーに隠れている。


「直樹さん」


「はい」


「さっき、不合格って聞いて」


 エミは、月を見たまま言った。


「ちょっと、安心してしまったんだよね」


 直樹は、何も言えなかった。


「ひどいよね。直樹さんが頑張ってたの、知ってるのに。落ち込んでるのも分かるのに。なのに、どこかで、来年の金曜夜も一緒にいられるかもしれないって思ってしまった」


 風が、マフラーの端を揺らした。


「合格したら、生活が変わるかもしれない。転職するかもしれない。もうここに来なくなるかもしれない。そう思ったら、怖かった」


「僕も」


 直樹は、ゆっくり言った。


「救急車が停まっていた夜、エミさんに何かあったのかと思って、怖くなりました」


 エミは、こちらを見た。


「交通事故のニュースを見ると、たまにエミさんの名前を探してしまうことがあります。見つけたくないのに。もし本当に名前があったら、僕はたぶん、この店に来られなくなります」


 言ってしまった。


 告白ではない。

 でも、かなり近いところまで来てしまった気がした。


 エミは、しばらく黙っていた。

 それから、小さく笑った。


「私たち、失う話ばっかり見てきたもんね」


「はい」


「やっさんたちも、アレックスさんも、未来ちゃんも、フラの子も。みんな何かを失ったり、届かなかったり、繋ごうとしたりしてた」


 エミは、展望台の手すりに手を置いた。


「ドライブインの値上げも、現実だよね。物価も、燃料も、世界情勢も、遠くの戦争も災害も、結局、ここまで来る。私たちの仕事にも来る。晩ごはんにも来る。海の向こうのことが、トラックの荷台に乗ってくる」


「はい」


「瀬戸内って、内海だから穏やかに見えるけど、世界から切り離されてるわけじゃないんだよね」


 エミの声は、少し震えていた。


「来年、どうなるんだろう。仕事も、物価も、災害も、事故も。直樹さんも、私も。未来ちゃんも、あのドライブインも」


 直樹は、答えを持っていなかった。


 展望台の端に、有料望遠鏡があった。


「あ、望遠鏡」


 エミが言った。


 直樹はポケットから硬貨を取り出した。


「どうぞ」


「いいの?」


「クリスマスプレゼントということで。安いですけど」


「じゃあ、ありがたく」


 エミは硬貨を入れ、望遠鏡を覗いた。


「月、すごい」


 その声は、少しだけ子どものようだった。


「橋も見える。島も。あ、車のライトが動いてる」


 直樹も交代して覗いた。

 月の表面は、肉眼で見るよりずっと近かった。大島大橋の灯りは、細い線のように夜の海を渡っている。周防大島は、暗い輪郭の中に、ところどころ小さな光を持っていた。


 橋の向こう。

 まだ渡っていない場所。


「もし」


 エミが言った。


「もし、来年、直樹さんが合格したらさ」


「はい」


「あの橋を渡って、あの島に行こうよ」


 直樹は、望遠鏡から目を離した。


「周防大島へ?」


「うん。別に、すごい約束じゃなくていい。観光でもいいし、みかん食べるだけでもいいし、海を見るだけでもいい。ちゃんと、邪魔にならないように。ちゃんと、暮らしのある場所だって分かった上で」


 エミは、少し照れたように笑った。


「橋の手前だけじゃなくて、いつか渡ってもいいかなって」


 直樹は、月明かりの中で彼女を見た。


「行きたいです」


「本当に?」


「はい。合格したら、行きましょう」


「じゃあ、不合格だったら?」


「その時は、また勉強します」


「また金曜夜に?」


「来られる限りは」


 エミは、ほっとしたように息を吐いた。


「そっか」


 それから、二人はしばらく黙って月を見ていた。


 遠くに海がある。

 橋がある。

 島がある。

 ドライブインの灯りがある。


 今年、直樹は合格できなかった。

 未来は都大路に届かなかった。

 ドライブインは値上げをする。

 世界は不安なままだ。


 それでも、ユミたちは写真を残した。

 やっさんたちはまた走った。

 未来たちはrunner-upとして走り切った。

 フラの孫娘は笑えなくても踊りきった。

 アレックスは118番のカードを辞典に挟んだ。

 自称・般若姫は、呪わず祝っていった。


 何もかもが良くなったわけではない。

 夢が全部叶ったわけでもない。

 でも、灯りは消えていなかった。


「来年は、どうなるんだろうね」


 エミが言った。


「日に日に、良くなっていくかな」


 直樹は、月を見た。


 確かなことは何も言えない。

 けれど、何も言わないままでは、この夜が終わってしまう気がした。


「日に日に、良くなっていくといいですね」


 エミは、少しだけ笑った。


 その笑顔は、キャップに隠れていなかった。

 口元はマフラーで見えなかったけれど、目元だけで十分だった。


 展望台の下では、ふれあいドライブインの灯りが、冬の夜に小さくともっていた。


 橋の手前で。

 月の見える場所で。

 今年最後の金曜夜が、静かに更けていった。


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