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エピローグ

 年が明けてからも、ふれあいドライブインの灯りは消えなかった。


 メニュー表の値段は、少しだけ変わった。定食の横に貼られた新しいシールは、最初のうちは妙に目立っていた。八百円という数字の上に、1000円という数字が貼られている。それを初めて見たとき、直樹はほんの少しだけ胸が痛んだ。


 最初の夜、彼を救ってくれたのは、800円の定食だった。


 疲れて、腹が減って、資格試験の勉強も進まず、どこにも居場所がないような気分で降りた大畠駅。その夜、ふれあいドライブインで出された温かい食事が、直樹の体を少しだけ現実へ戻してくれた。


 その800円という数字が、もうそこにはない。


 だけど、立ちこむ湯気といった雰囲気は変わらなかった。

 魚汁の香りも、ミックスサンドの具の厚みも、塩コーヒーの少し不思議な後味も、歌子さんの「お帰りなさい」という声も、完全には変わらなかった。


 変わるものがある。

 変わらないものもある。

 そのどちらかだけでは、人も店も続かないのだと、直樹は少しずつ分かるようになっていた。


 年明け最初の金曜夜。


 直樹は、また大畠駅で降りた。


 ホームに立つと、冬の風が頬を刺した。吐く息は白い。夕方のラッシュを過ぎた駅には、人影がまばらだった。遠くから電車の走り去る音が聞こえ、そのあとに、海側から吹いてくる風の音が残る。


 初めてここに降りた夜、直樹はこの駅のことをほとんど知らなかった。

 ただ、山陽本線の途中駅。

 徳山から岩国へ帰る途中にある駅。

 その程度の認識だった。


 けれど、今は違う。


 この駅の近くには、橋がある。

 ドライブインがある。

 掲示板がある。

 月待ちシーソーがある。

 必要な時にだけ見えるホテルがある。

 そして、金曜夜に塩コーヒーを飲んでいる人がいる。


 それだけで、駅の名前はただの文字ではなくなる。


 直樹は、改札を出て、海側へ歩いた。踏切を越える。国道の音が近づいてくる。冬の空は低く、海の方は暗い。けれど、道の先には、ふれあいドライブインの灯りが見えた。


 窓枠には、まだ小さな電飾が残っている。クリスマスは終わったはずなのに、歌子さんはしばらく外さないつもりらしい。赤、白、緑の光が、寒い夜に小さく瞬いていた。


 派手ではない。

 誰かを遠くから呼び寄せるほど強い光ではない。

 けれど、駅から歩いてきた人が「ああ、まだ開いている」と思うには十分だった。


 カランコロン。


「お帰りなさい」


 歌子さんの声がした。


「こんばんは」


 直樹が中へ入ると、店内にはいつもの暖かさがあった。暖房の熱だけではない。揚げ物の油の匂い、コーヒーの香り、木のカウンターの色、古いスピーカーから流れる音楽。そういうものが混ざって、ここに来たのだと体に知らせてくれる。


 バーカウンターの中央には、エミがいた。


 いつものキャップ。

 いつもの塩コーヒー。

 いつもの少し丸まった背中。


 こちらに気づいて顔を上げた時の目元は、以前より少しだけ隠れていないように見えた。


「こんばんは、直樹さん」


「こんばんは、エミさん」


「今年も来ましたね」


「来ました」


 エミは、小さく笑った。


 直樹は、いつもの入口近くのテーブル席に向かおうとして、少しだけ迷った。問題集を開くなら、あの席が一番落ち着く。けれど今日は、どうしてもそこに座る気になれなかった。


 カウンターの端の席に座る。


 エミの隣ではない。

 けれど、以前よりは近い席だった。


 エミはそれに気づいたようだったが、何も言わなかった。ただ、カップを少しだけ持ち直した。


「今日は勉強道具、持ってきたんですか」


「一応」


 直樹はカバンを軽く叩いた。


「でも、開くかどうかは分かりません」


「開かない方に、塩コーヒー一杯」


「賭けないでください」


「じゃあ、開いたら拍手します」


「それも圧が強いです」


 そんな会話ができるようになったことに、直樹は少し驚いた。


 初めて会った頃、エミは遠い人だった。カウンターの中央に座る、キャップを深くかぶった女性トラックドライバー。話しかける勇気もなく、ただ横目で見ることしかできなかった。


 その後、ユミのおかげで自己紹介をした。

 花火をした。

 ツーリング客の涙を一緒に見た。

 未来を助けた夜、彼女の背中にある強さを見た。

 VTuberの暴走に呆れる顔を見た。

 シーソーに一緒に座った。

 幽霊に二人そろって振り回された。

 救急車を見て、自分がどれほど彼女を失いたくないと思っているのか知った。

 月待ホテルの展望台で、彼女の目元を初めてまっすぐ見た。


 それでも、恋人ではない。

 約束をしたわけでもない。

 ただ、金曜夜にここへ来たいという希望を共有しただけだ。


 その頼りなさが、今は不思議と心地よかった。


「直樹さん」


 歌子さんが、カウンターの向こうから声をかけた。


「年明けだから、今日は七草粥……と言いたいところだけど、うちは海沿いだから、少し魚を入れた雑炊にしてみたの。食べる?」


「いただきます」


「エミちゃんは?」


「私は塩コーヒーと、ミックスサンドを半分」


「また半分?」


 歌子さんが笑う。


 エミは、直樹の方を見た。


「直樹さん、半分食べます?」


「いただきます」


「早いですね」


「前回、断らない方がいいと学びました」


「学習能力がありますね」


 歌子さんは、何も言わずににっこり笑った。その笑顔には、全部分かっている人の余裕があった。


 料理を待つ間、直樹は掲示板の前へ向かった。


 そこには、この一年を閉じ込めたようなものが並んでいた。


 ユミたちロケ地巡りの学生たちと撮った写真。

 卒業前にもう一度立ち寄ったらしい葉書。

 白壁の街並みと片添ヶ浜の写真。

 ユミの字で、「卒業までに、もう一度行きたいです」と書かれている。


 革ジャンのやっさんたちからの年賀状。

 鯛茶漬け最高。今年も走る。

 ノンアルで乾杯。

 太く、少し曲がった字で書かれていた。


 未来たち大畠高校駅伝部の写真。

 「準優勝 Runner-up」と書かれた、泣き笑いの集合写真。

 その下には、未来の字で「次の世代へ」と小さく書かれた紙が貼られていた。


 サザンセト系非公認VTuber、月白ユイと蜜柑ナナのチラシ。

 サザンセトに来なさい。

 でも、ちゃんと帰り道も考えなさい。

 長すぎるタイトルは、結局そのまま使われたらしい。


 CoastViewの撮影協力への感謝状。

 その横には、アレックスから届いた絵葉書がある。


 ワン・ワン・エイト、忘れません。

 きれいな海だけ、持って帰りません。

 ありがとう。

 アレックス。


 少したどたどしい日本語だった。けれど、その言葉は、不思議なほどまっすぐだった。


 サザンセト音楽祭の写真。

 祖母と孫娘が並んで踊っている。孫娘は満面の笑顔ではない。けれど、足は止まっていない。手は前へ伸びている。横にいる祖母の顔は、泣きそうで、誇らしそうだった。


 そして、月待ちシーソーに座る二人の写真が表紙になった地元マガジン。


 直樹は、その表紙を見るたびに、今でも少しだけ恥ずかしくなる。顔は映っていない。名前も出ていない。それでも、自分とエミがあの夜そこにいたことだけは、確かに残っている。


 有名になることとは違う。

 誰かに大きく評価されることとも違う。

 ただ、その夜そこにいた。

 誰かと同じ月を見ていた。

 同じ遊具に座り、同じ橋の手前で揺れていた。


 その程度のことが、案外、人を支えることもある。


「掲示板、また増えましたね」


 直樹が言うと、歌子さんはキッチンから顔を出した。


「増えたわね。年末に整理しようと思ったんだけど、結局どれも外せなくて」


「分かります」


 エミがカウンターから声をかけた。


「これ、全部あった方がいいです」


「そうなのよ。お店って、何を残して、何を外すかで悩むの」


 歌子さんは、古い色紙の端をそっと直した。


「有名人のサインなら分かりやすいんでしょうけどね。うちの掲示板は、そうじゃないものばかりだから」


「名もなき人たちのサイン、でしたっけ」


 直樹が言う。


「そう。橋を作った人、駅を直した人、道を整えた人、ここで食べて、少し休んで、またどこかへ行った人。名前が残る人もいれば、残らない人もいる。でも、残らないから何もなかったわけじゃない」


 その言葉は、直樹の胸に静かに落ちた。


 自分の一年も、そうかもしれない。


 資格試験に合格していれば、分かりやすく残る。合格証、受験番号、職場での報告、次の目標。けれど、不合格だったからといって、この一年の勉強がすべて消えるのだろうか。


 たぶん、そうではない。


 合格はしなかった。

 でも、勉強していた時間はあった。

 大畠駅で降りた夜はあった。

 この店で問題集を開いた夜はあった。

 エミの隣ではない席から、彼女の背中を見ていた時間はあった。


 結果が出なかったものは、存在しなかったことになるのか。


 そんなはずはない。


 直樹は、そう思いたかった。

 いや、そう思わなければ、今年を持ち越せない気がした。


 もちろん、現実は甘くない。

 試験は合格か不合格かで判定される。

 未来たち駅伝部も、優勝校と準優勝校に分けられた。

 CoastView のアレックスも、救えた命と救えなかった命を抱えて生きていた。

 店のメニューも、800円から1000円になった。

 気持ちだけでは、何もかもを解決できない。


 けど、気持ちがなければ、続けることもできない。


 歌子さんが、雑炊と、二皿に分けたミックスサンドを持ってきた。


「はい、お待たせ」


 湯気が上がる。

 海の匂いと、米の甘い匂いが混ざる。


 直樹は、スプーンを持った。


 一口食べると、熱さが喉を通って、胃の奥へ落ちていった。体の中に、少しずつ灯りがともるようだった。


「美味しいです」


「よかった」


 歌子さんが笑う。


 エミは、ミックスサンドを半分取って、直樹の皿に置いた。


「はい」


「ありがとうございます」


「来年も、半分こできるといいですね」


 言ってから、エミは自分で照れたように視線をそらした。


 直樹は、少しだけ笑った。


「はい」


 それ以上は言わなかった。


 言いすぎると、何かが壊れそうだった。

 言わなさすぎても、何も進まない気がした。


 だから、今はこれでよかった。


 店内には、静かな音楽が流れている。

 外では、国道を車が通り過ぎていく。

 トラックのライトが窓を横切るたびに、エミの顔が一瞬だけ照らされる。キャップの影で目元は見えにくい。それでも、直樹には、以前より彼女の表情が少し分かるようになっていた。


「エミさん」


「はい」


「来年も、ここに来ますか」


 自分でも、なぜ今それを聞いたのか分からなかった。


 エミは、少しだけ驚いたように直樹を見た。

 それから、カップを両手で包み直した。


「来たいです」


「約束ですか」


 直樹が聞くと、エミは少し考えた。


「約束というより、希望です」


 直樹は、その言葉に笑った。


「弱いですね」


「弱いです。でも、今の私には、それくらいがちょうどいいです」


 その返しに、直樹は少し驚いた。

 まるで、自分がいつか言おうとしていた言葉を、先に言われたような気がした。


「じゃあ、僕も希望にします」


「来年も?」


「はい。来年も、金曜夜にここへ来たいです」


 エミは、小さく頷いた。


「希望、共有ですね」


「はい」


 希望という言葉は、約束よりも頼りない。

 けれど、今の二人には、その頼りなさがちょうどよかった。


 合格するかどうかも分からない。

 仕事がどうなるかも分からない。

 来年の金曜夜に、同じようにここへ来られるかも分からない。


 でも、来たいと思っている。


 その気持ちだけは、今ここにある。


 直樹は、ふと思った。


 この店は、誰かの人生を大きく変える場所ではないのかもしれない。ここで食事をしたからといって、亡くした人が戻るわけではない。試験に受かるわけでもない。駅伝で優勝できるわけでもない。物価が下がるわけでも、世界が急に穏やかになるわけでもない。


 それでも、ここに来ると、人は少しだけ息をつける。


 息をつける場所があるということは、思ったより大きい。


 やっさんたちは、また走ると言った。

 未来たちは、次の世代へと書いた。

 ユミは、もう一度行きたいと葉書に書いた。

 アレックスは、百十八番を忘れないと言った。

 フラの孫娘は、笑えなくても踊りきった。

 月白ユイと蜜柑ナナは、今日もどこかで「来なさい」と叫んでいるのだろう。


 そして自分は、来年もここへ来たいと思っている。

 エミも、同じように言ってくれた。


 それだけで、この冬の夜は、完全な失敗ではない気がした。


 食事を終えるころ、歌子さんが新しいノートを一冊持ってきた。


「これ、今年から置いてみようと思うの」


「何ですか」


「来た人が、ひと言だけ書いていくノート。感想でも、願い事でも、ただの日付でもいいの。掲示板に貼るほどじゃないけど、どこかに残しておきたい言葉ってあるでしょう」


 表紙には、手書きでこう書かれていた。


 月の見えるドライブイン 金曜夜のひと言帳


「直樹さん、最初に何か書いてみる?」


「僕ですか」


「今年最初の金曜夜のお客さんだから」


 直樹は少し迷った。

 けれど、ペンを取った。


 何を書けばいいのか分からない。

 大きな言葉は照れくさい。

 気の利いた言葉も思いつかない。


 しばらく考えてから、直樹は短く書いた。


 今年も、ここに来られますように。


 それを見たエミが、小さく笑った。


「じゃあ、私も」


 エミは、その下に書いた。


 今年も、安全に走れますように。


 歌子さんは、二人の文字を見て、満足そうに頷いた。


「いいわね。とてもいい」


「歌子さんは書かないんですか」


 直樹が聞くと、歌子さんは少し考えてから、二人の下に書いた。


 今年も、灯りを消さずにいられますように。


 その文字を見て、直樹は胸が少し熱くなった。


 灯りを消さない。


 簡単なようで、きっと簡単ではない。

 店を開けること。料理を出すこと。値段を変えること。客を迎えること。送り出すこと。泣く人を見守ること。笑う人を見守ること。過ぎていく人の写真を貼ること。


 続けるとは、そういう小さなことを、何度も何度も繰り返すことなのだろう。


 窓の外に、大島大橋の灯りが小さく見えた。


 橋は、急かしてこない。

 渡れとも、戻れとも言わない。

 ただ、そこにある。


 いつか渡るかもしれない。

 渡らないかもしれない。

 けれど、橋の手前にも、確かに時間は流れている。


 直樹は、雑炊をもう一口食べた。


 温かかった。


 その温かさは、特別な奇跡ではない。

 けれど、特別な奇跡でないからこそ、明日も必要になる。


 誰かが疲れて帰ってくるために。

 誰かが泣きながら食べるために。

 誰かが走りきれなかった夜を置いていくために。

 誰かが次の年へ向かう前に、少しだけ温まるために。


 ふれあいドライブインの灯りは、海側の道に向かって、変わらずともっていた。


 今年もまた、金曜夜が始まった。



 それから、直樹はノートを閉じる前に、もう一度だけ掲示板を見た。


 不思議なものだった。


 この数ヶ月の出来事は、ひとつひとつは偶然のように見える。ユミたちが来なければ、直樹とエミは自己紹介すらできなかったかもしれない。やっさんたちが来なければ、あの鯛茶漬けに込められた時間を知ることもなかった。未来が歩道橋で動けなくなっていなければ、エミが誰かを助ける時の表情を見ることもなかった。


 サザンセトに来なさいと叫ぶ非公認VTuberも、名もなき人たちの手形も、自称・般若姫も、海外から来た撮影隊も、笑えなかったフラの孫娘も、全部ばらばらに見える。


 けれど、掲示板に並べると、それらはひとつの店の記憶になっていた。


 有名な出来事ばかりではない。

 むしろ、世の中の大きなニュースになるようなことは、ほとんどない。


 それでも、誰かにとっては忘れられない夜だった。


 直樹にとって、最初の夜がそうだったように。

 エミにとって、金曜夜の塩コーヒーがそうだったように。

 未来にとって、あの歩道橋とお粥の味がそうだったように。

 やっさんにとって、鯛茶漬けの湯気がそうだったように。


 大きな歴史は、年表に残る。

 橋の開通、駅の改修、戦争、災害、国際交流、映像作品の撮影。

 けれど、その大きな歴史の隙間に、誰かが食べたものや、誰かがこぼした涙や、誰かが言い間違えた冗談や、誰かが撮られたくなかった写真もある。


 それらは、放っておけば消えてしまう。


 だから、歌子さんは掲示板に貼るのだろう。

 だから、てっちゃんは古い写真を外さないのだろう。

 だから、ユミたちは葉書を送り、未来は「Runner-up」と書き、アレックスはたどたどしい日本語で絵葉書を送ったのだろう。


 直樹は、ふと思った。


 もしかすると、ドライブインとは、通り過ぎる人たちのための場所であると同時に、通り過ぎた人たちを少しだけ残しておく場所なのかもしれない。


 もちろん、全員がここに戻ってくるわけではない。


 ユミたちは卒業し、それぞれの進路へ向かう。

 やっさんたちは、来年も走ると言いながら、また別の道へ出ていく。

 未来は次の世代へ襷を渡し、いつか大畠を離れるかもしれない。

 月白ユイと蜜柑ナナの中の人は、海へ潜り、動画を撮り、いつかオルゴール職人になるかもしれない。

 アレックスは遠い国で、また別の海を見ている。

 フラの孫娘は、次に踊る時、笑えるかもしれないし、やっぱり笑えないかもしれない。


 それでも、この店には、彼らが来た夜の欠片が残っている。


 直樹は、自分もその一部になってしまったのだと思った。


 最初は、ただの客だった。

 勉強する場所を借りているだけの客。

 入口近くのテーブル席で問題集を開き、魚汁を飲み、終電の時間を気にして帰るだけの男。


 でも、今は、掲示板の表紙写真の中にいる。

 金曜夜のひと言帳の一行目に、字を残した。

 歌子さんに「お帰りなさい」と言われる。

 エミに「希望、継続ですね」と言われる。


 それがどれほど大きなことなのか、以前の直樹なら分からなかった。


 人は、どこかに所属しているとはっきり言える時だけ、救われるわけではない。

 職場でも、家庭でも、学校でも、チームでもない場所に、少しだけ座れる椅子がある。

 誰かが自分の注文を覚えている。

 誰かが自分の失敗を聞いて、すぐに励まさず、ただ温かいものを出してくれる。


 それだけで、次の一週間へ戻れることがある。


 エミが、カウンターで小さくあくびをした。


「眠いですか」


 直樹が聞くと、エミは慌てて口元を押さえた。


「見ました?」


「少し」


「忘れてください」


「無理です」


「ひどい」


 エミは少し笑った。


「でも、眠いです。今日はもう帰った方がいいかも」


「運転、大丈夫ですか」


「少し休んでから帰ります。ここで寝落ちしない程度に」


「それならよかったです」


 その言葉を言ったあと、直樹は、自分が本当に安心していることに気づいた。


 エミが無事に帰ること。

 次の金曜夜に、またここに来るかもしれないこと。

 その可能性が、自分にとって大事になっている。


 約束ではない。

 希望だ。


 けれど、希望は頼りないだけではない。

 頼りないからこそ、何度も確かめたくなる。

 何度も灯りを見に来たくなる。


 歌子さんが、ひと言帳をカウンターの端に置いた。


「このノート、いっぱいになるかしらね」


「なりますよ」


 エミが言った。


「時間はかかるかもしれないけど」


「時間がかかる方がいいわね」


 歌子さんは、ノートの表紙をなでた。


「すぐいっぱいになるのも嬉しいけど、何年もかけて少しずつ埋まる方が、この店らしい気がする」


 直樹は、そのノートを見た。


 まだ三行しか書かれていない。

 自分の字。

 エミの字。

 歌子さんの字。


 白い余白が、たくさん残っている。


 その余白が、未来のように見えた。


 何を書くかは、まだ決まっていない。

 誰が書くかも、分からない。

 来年、どんな人がこの店に来るのかも分からない。


 でも、空いている場所がある。


 それは、少しだけ希望に似ていた。


 直樹は窓の外を見た。


 冬の海は暗い。

 橋の灯りは遠い。

 島の輪郭は、ほとんど夜に溶けている。


 それでも、確かにそこにある。


 いつか渡るかもしれない橋。

 まだ渡らない橋。

 渡らなくても、毎週見上げてしまう橋。


 その手前に、ふれあいドライブインはあった。


 直樹は、紅茶の残りを飲み干した。


 熱は少し冷めていた。

 けれど、まだ温かかった。


 それで十分だった。


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