第8話 世界が瀬戸内を求めている金曜夜
鼻歌交じりで、今夜もドライブインへ近づいていく。
すると、駐車場に救急車が停まっていた。
「もしかして、エミさん!?」
直樹の胸が、一気に冷たくなった。
エミと会ってからというもの、交通事故のニュースを見ると、ドキッとすることがある。大型車、山口県内、国道、女性運転手。そんな言葉が並ぶだけで、指先が冷える。
もし記事の中に「藤井エミ」という名前があったら。
自分は、もうこのドライブインに来られないかもしれない。
直樹は走った。
駐車場に近づくと、救急車の周りにカメラが置かれているのが見えた。照明機材、音声マイク、ケーブルを巻くスタッフらしき人たち。事故の取材という感じではない。
救急車も、日本のものとは少し違っていた。真四角で、車体に大きく「AMBULANCE」と書かれている。地元の岩国で見たことがあるような、海外仕様の救急車に似ていた。
担架に乗せられようとしているのは、白髪の男性だった。
エミではない。
そのことに気づいた瞬間、直樹は膝から力が抜けそうになった。
「カット!」
誰かの声が響いた。
周囲にいたスタッフたちが、一斉に動き出す。
「はい、オッケーです! テツさん、寒くないですか?」
「寒いよ! ずぶ濡れだもの!」
担架の上の白髪の男性が、勢いよく起き上がった。
「テツさん!?」
直樹が思わず声を上げると、テツさんはこちらに気づき、濡れた髪をかき上げながら手を振った。
「おお、直樹さん。今夜は遅かったな」
「いや、テツさんこそ何をしてるんですか!」
「見ての通り、海に落ちた釣り人だ」
「見ての通りではないです」
そのとき、ドライブインの入口からエミが出てきた。
無事だった。
直樹は、思わず息を吐いた。
「直樹さん、顔が真っ青です」
「救急車が見えたので……」
「ああ」
エミは少しだけ表情をやわらげた。
「ごめん。びっくりするよね。撮影だって、私も最初知らなくて心臓止まるかと思った」
「撮影?」
「動画配信サービスのドラマらしいです。StreamXっていう」
エミが指さした先に、英語で「CoastView」と書かれたロゴ入りの看板が立っていた。
Streaming-X Original Series
CoastView: Setouchi
「CoastView……」
「昔の人気番組のリバイバルなんだって。ライフセーバーたちのドラマで、でも出演者は本物のライフセーバーだったり、実際の救助技術を使ったりするから、ドラマとリアリティ番組の間みたいなものらしいよ」
エミが説明してくれた。
「詳しいですね」
「さっき、通訳の人が教えてくれた」
店内に入ると、いつものドライブインとはまるで違う空気だった。外国人スタッフ、日本人スタッフ、地元のフィルムコミッションらしき人たち、機材ケース、通訳、紙コップのコーヒー。天井のモニターには、CoastViewの過去シリーズらしき映像が流れている。
昔のオリジナル版は、お色気の雰囲気も漂っているが、リバイバルはちょっと違うようだ。
歌子さんは、いつも通りカウンターの内側にいた。けれど、今夜は一人ではない。
「直樹さん、紹介するわね。うちの息子のクニと、娘のユカリ」
カウンターの中に、三十代くらいの男女が立っていた。男性の方は短い髪にエプロン姿、女性の方は髪を後ろでまとめ、英語でスタッフとやり取りしている。
「初めまして。國弘、通称クニです」
「妹のユカリです。今日は通訳と、ドリンク担当と、現場の何でも屋です」
「お二人が、カフェバーの方を?」
直樹が聞くと、クニが頷いた。
「そうです。元々は両親の食堂でしたけど、夜のカフェバー営業は僕たちが始めました。ただ、国内外を行ったり来たりしてるので、店に立てる日は少ないんです」
「カクテルやコーヒーの勉強をしているんです」
ユカリが言った。
「教えたり、イベントを手伝ったりもしています」
「すごいですね」
「すごいというより、落ち着きがないだけです」
クニが笑う。
「それで、いつかこの地で、ノンアルコールカクテルの世界選手権を開きたいんです」
「世界選手権?」
エミが聞き返す。
「はい。テーマはもちろん、地元のみかんで」
ユカリの目が輝いた。
「運転する人も、飲めない人も、若い人も、高齢の人も、海外から来た人も、みんな一緒に乾杯できる大会にしたいんです。瀬戸内の海を見ながら、アルコールなしで」
「それ、いいですね」
エミが素直に言った。
「私、運転するから、飲めないことが多いので」
「そういう人たちのためにもやりたいんです」
クニが頷いた。
その会話の向こうで、英語が飛び交っていた。カメラの位置、次のカット、救急車の移動、照明の調整。聞き取れない単語が多いが、現場が動いていることだけは分かる。
「本当は、地元の救急車を借りる予定だったんです」
ユカリが小声で教えてくれた。
「でも、本当の急患が出て、そちらが優先になって。そしたらStreaming-X側が、海外仕様の救急車を急遽手配してきたんです。どこから持ってきたのか、私も分かりません」
「おそるべし資金力ですね」
直樹が言う。
「資金力とマンパワーですね。地元のフィルムコミッションの方々も総がかりです。道路使用、宿泊、通訳、食事、海の安全確認、全部調整しています」
世界が瀬戸内を求めている。
そう言えば、聞こえはいい。
けれど、実際には、たくさんの人が走り回り、頭を下げ、時間を調整し、危険を避け、どうにか一つの場面を作っている。
世界に見つかるというのは、華やかであると同時に、かなり大変なことらしい。
そのとき、一人の男性が店内に入ってきた。
背が高く、肩幅が広い。日焼けした肌に、短く刈った髪。俳優のように整った顔立ちだが、歩き方や立ち方には、現場で体を使ってきた人の重さがあった。
「あの人が主演です」
ユカリが言った。
「ライフセーバー兼俳優。今回の CoastView の中心人物です。本物のライフセーバーでもあります」
主演の男性は、カウンターの前まで来ると、クニに英語で何かを言った。クニが頷き、冷たい水を出す。
男性は直樹たちに気づくと、少し笑って会釈した。
「こんばんは」
日本語だった。
「こんばんは」
直樹とエミも慌てて頭を下げる。
「私は、アレックスです」
男性は、ゆっくりと言った。
「日本語、勉強しています。まだ、少しだけ」
「とても上手です」
エミが言うと、アレックスは少し照れたように笑った。
「ありがとう。命、パスポート、その次に大切なもの、スマホとこれです」
アレックスは、ポケットから小さな本を取り出した。英日ポケット辞典だった。ページの端には付箋が貼られ、ところどころ赤いペンで書き込みがある。
「海外ロケでは、現地の辞典を持ちます。言葉を知らないと、人に助けを求めることも、助けることもできない」
「すごいですね」
直樹は素直に言った。
「でも、日本語だけでは足りないことも、知りました」
アレックスは、辞典を開いた。
「この地域には、辞典に載っていない言葉があります。方言、イントネーション、地元の言い方。私の故郷にもあります。旅をすると、自分の場所にも、辞典に載らない言葉があると気づきます」
エミが小さく頷いた。
「言葉って、載っているものだけじゃないんですね」
「はい。海も同じです」
アレックスは、窓の外を見た。
「画面に映る海だけが、海ではありません」
その言葉の意味を、直樹はすぐには測れなかった。
そのとき、撮影コーディネーターらしき日本人女性が近づいてきた。ユカリが紹介してくれる。
「こちら、外川真子さん。マコ・トガワ。今回の日本側コーディネーターです」
真子は、てきぱきとした雰囲気の女性だった。首にはスタッフパス、手には分厚い進行表。
「こんばんは。すみません、今日はお店をかなりお借りしています」
「いえ、見ているだけで圧倒されます」
直樹が言うと、真子は笑った。
「圧倒されるのは、たぶん私たちも同じです。海の現場は、思い通りにならないので」
エミが、アレックスの方を見ながら尋ねた。
「ライフセーバーって、全部を助けられるわけじゃないんですよね」
真子の表情が、少しだけ変わった。
「そうですね」
彼女は、言葉を選ぶように続けた。
「ライフセーバーだけじゃありません。救急隊員、病院の医師、看護師、そして最後は本人の生命力。救助というのは、誰か一人の力で成立するものではないんです」
アレックスは、真子の言葉を静かに聞いていた。
「もちろん、立派な仕事です。私は彼らを尊敬していますし、アレックスも自分のチームを誇りに思っています。でも、できることは、生き残る確率を何とか支えることなんです。百パーセントにすることではない」
店内が少し静かになった。
エミは、手元のカップを見つめていた。
直樹は、救急車を見た瞬間の恐怖を思い出していた。
誰かがいなくなるかもしれない。
その想像だけで、心臓が苦しくなる。
「アレックスさんは」
直樹は、少し迷いながら聞いた。
「どうして、この番組に?」
ユカリが通訳しようとしたが、アレックスは手で制した。自分で答えたい、という意思表示だった。
「私は、昔、大切な人を海で亡くしました」
ゆっくりとした日本語だった。
エミが、息を飲んだ。
「恋人でした。目の前でした。私は、ライフセーバーでした。でも、助けられなかった」
誰も、すぐには何も言えなかった。
「そのあと、海を見ることができなくなりました。でも、海から離れることもできなかった。海は、私から大切な人を奪った。でも、海で人を助けることも、私の人生でした」
アレックスは、辞典をそっと閉じた。
「CoastViewは、きれいな海を見せる番組ではありません。少なくとも、私はそうしたい。海は美しい。でも、怖い。人を生かす。でも、奪う。どちらも見せたい」
エミの目が、少し潤んでいた。
直樹は、その横顔を見た。
もし彼女が事故に遭ったら。もし、いつか金曜夜に来なくなったら。そう考えただけで、胸が詰まる。
まだ何も始まっていないのに。
何も約束していないのに。
ただ金曜夜に同じ店にいるだけなのに。
失いたくないと思ってしまうのは、どうしてなのだろう。
「私も」
エミが、ぽつりと言った。
「道路が怖くなる時があります。仕事だから走るけど、事故のニュースを見ると、明日は自分かもしれないって思うことがあります」
アレックスは、エミの言葉を真剣に聞いていた。
「でも、走らないと届かないものもある」
エミは続けた。
「荷物も、人も、約束も。怖いから全部やめるわけにはいかない。でも、怖いって気持ちを忘れたら、それはそれで危ないんだと思います」
アレックスは、ゆっくり頷いた。
「怖さを知っている人が、命を守る」
その日本語は少したどたどしかった。
けれど、まっすぐだった。
クニが、カウンターの上に小さなグラスを並べ始めた。
「重い話のあとで恐縮ですが、試作品を出してもいいですか」
「試作品?」
「ノンアルコールカクテルです。テーマは、みかん。今日の撮影隊にも飲んでもらおうと思って」
ユカリが、氷の入ったシェーカーを振る。
カシャカシャという音が、店内に軽く響いた。
出てきたのは、淡い橙色の飲み物だった。グラスの縁には、小さく切ったみかんの皮が飾られている。
「名前は?」
歌子さんが聞く。
「まだ仮ですけど、“Inner Sea Light”」
「内海の灯り」
直樹が訳すと、クニが嬉しそうに頷いた。
「そうです」
アレックスは一口飲み、目を細めた。
「優しい味です」
「世界選手権、できますかね」
ユカリが聞く。
「できます」
アレックスは言った。
「海のそばで、誰も車を置いて帰らなくていい乾杯ができる。それは、とてもいい」
エミが笑った。
「それ、私にはありがたいです」
店の中に、少しだけ明るさが戻った。
撮影は、さらに何カットか続いた。テツさんは、濡れたまま何度も担架に乗せられ、そのたびに「そろそろ温かい味噌汁がほしい」と文句を言った。スタッフたちは笑いながらも、真剣に画を確認していた。
夜10時近く、ようやく撮影が一段落した。
外の機材が片づけられていく。海外仕様の救急車も、静かに駐車場の隅へ移動した。さっきまで世界規模の現場だった場所が、少しずついつものドライブインに戻っていく。
アレックスは、帰る前にユカリから一枚のカードを受け取った。
「これは?」
「日本で海の事件・事故があった時の番号です。百十八番。海上保安庁につながります」
カードには、日本語と英語でこう書かれていた。
海の事件・事故は118番。
アレックスは、それをゆっくり読んだ。
「ワン・ワン・エイト」
「警察でも救急でもなく、海のもしもはこれです」
ユカリが説明する。
「海の事故、不審な船、油の流出、そういう時に」
アレックスは頷き、ポケット辞典を開いた。
そして、そのカードを栞のように挟んだ。
「命、パスポート、スマホ、辞典。そして、これ」
彼は言った。
「言葉を知らないと、人に聞けない。番号を知らないと、人を呼べない」
エミが小さく言った。
「覚えて帰ってくれるんですね」
「きれいな海だけ、持って帰るわけにはいきません」
アレックスは、そう答えた。
それから少しだけ黙り、夜の海の方を見た。
「今でも思います。夢の中なら、彼女に会えるのだと」
誰も口を挟まなかった。
「海の夢です。彼女は、いつも遠くにいます。私は泳ぐ。でも、近づけない。目が覚めると、とても苦しい。でも、会えたと思うこともあります」
アレックスは、少し笑った。
「だから、海から離れられないのかもしれません」
エミは、直樹の隣で黙っていた。
直樹は、彼女の手元を見た。指先が、カップを強く握っている。声をかけたい。大丈夫ですか、と言いたい。けれど、それだけでは足りない気がした。
失いたくない。
その言葉が、頭の中に浮かんだ。
けれど、言えなかった。
エミも、何かを言いかけて、やめたように見えた。
ただ二人は、同じ夜の海を見ていた。
世界が瀬戸内を求めている。
けれど、瀬戸内はただ求められるだけの場所ではない。
人を癒やし、人を飲み込み、記憶を沈め、それでもまた誰かを呼び戻す。
アレックスは、辞典を胸ポケットにしまった。
その中には、海の事件・事故は118番と書かれたカードが挟まれている。




