第7話 (自称)般若姫の独壇場になった金曜夜
日本語は難しい。
直樹は、入口に近いテーブル席で、問題集の解答解説文を何度も読み返していた。問題文も読んだ。選択肢も読んだ。解説も読んだ。けれど、なぜ自分の選んだ答えが不正解なのか、どうしても理解できない。
読み返すたびに、頭の中の文字がほどけていく。
言葉が言葉として入ってこない。
目は文章の上を動いているのに、意味だけがどこかへ逃げていく。
「日本語って、難しいな……」
直樹は、ほとんど声にならない声で呟いた。
カウンターでは、エミが塩コーヒーを飲んでいる。歌子さんは、グラスを拭きながら古いラジオを小さく流していた。いつもの金曜夜だった。静かで、少し眠くて、でも帰るには惜しい時間。
そのとき、窓の向こうに、白いものが揺れた。
最初は、カーテンかと思った。
けれど、この店の窓にカーテンはない。
直樹は、ぼんやりした頭を少しだけ持ち上げた。
白装束の女が、窓を突き抜けて入ってきた。
「うーらーめーしーやー」
見事な発声だった。
直樹は、声が出なかった。
女は、まるで最初からそこが通路であるかのように、窓から店内へ入り、ふわり、ふわりと進んでいく。床に足がついているのか、ついていないのか分からない。長い黒髪が揺れ、白い袖が夜風もないのに広がっている。
ほんの数秒で、女はバーカウンターに到達した。
しかも、わざわざエミの隣の椅子に腰かけた。
「エミさん! うしろ! うしろ!」
直樹は悲鳴に近い声を上げた。
「え……何?」
エミは後ろを振り返る。
「違う違う、逆!」
「逆って何!?」
エミが正面に向き直った瞬間、目の前に血色の悪い女の顔があった。
「ひゃああああああ!」
文字にするのが難しいが、そんな声だった。
「あーもう、やかましい!」
幽霊らしき女は、顔をしかめた。
「肝が据わっていると思いきや、なんだい。最近の若いもんは、幽霊を見るたびに大声を出す」
「だって、だって……」
エミは震えた声でうろたえている。
歌子さんは目を丸くして固まっていた。
直樹は逃げ出したかった。全力で逃げたかった。けれど、エミと歌子さんを置いていくわけにはいかない。
何年ぶりかの全力に近いダッシュで、直樹はバーカウンターへ近づいた。
ダッダッダッダッ。
抜き足差し足で忍び寄る余裕などなかった。
「そこの男! 安心しなさい。私は悪いものじゃない」
「うーらーめーしーやーって言ってましたよね! 完全に何かやる気でしたよね!」
「だから、危害を加える気はないと言っておる。私を誰だと心得る」
エミが、精一杯の声で言った。
「ゆ、幽霊さんですよね」
「そうじゃ」
「はっ……」
エミが二回目の悲鳴を上げようとした瞬間、幽霊の女がその口に手を当てた。
「まったくもう。落ち着いた雰囲気の茶屋だと思って入ってみたら、何じゃこの騒ぎは。まあいい。ひとつ何か頼もうかね。そこの男もこっちに来なさい」
「な、何をするんですか。警察呼びますよ!」
「は? あんた、さっき私が幽霊だと気づいたじゃろ。警察が来たところで、何の罪になるか言ってみな。そもそも、生身ではない私を、どうやって捕まえる?」
「そ、それは……」
直樹の口は、からからに乾いていた。
「まずは名乗っておこうかね。私は般若姫である」
「般若姫?」
歌子さんが、ようやく声を出した。
「まあ、自称じゃがな」
「自称なんですか」
エミが震えながらも聞き返す。
「本物かどうかは、そちらで勝手に調べなさい。最近の人間は、何でも板切れで調べるのが得意じゃろ。小さな板をこう、指で撫でて」
「スマホですね」
「そう、それじゃ」
幽霊は満足げに頷いた。
「私はな、最近の世の中にも一応目を通しておる。何と言ったかな。あの、帳面にあやめたい者の名前を書く者がおったじゃろ。確か、デ……」
「やめましょう!」
直樹とエミが同時に叫んだ。
「何じゃ。まだ最後まで言っておらん」
「言わない方がいいです」
「じゃあ、あの饅頭顔の魔法使い。確かマ、マリ……」
「それも危ないです!」
「なぜじゃ。最近は、人形のような顔の者が、ゆっくり喋って物を教えるんじゃろ?」
「うろ覚えで危険地帯に踏み込まないでください」
幽霊は不満そうに頬を膨らませた。
「ならば、いつも暑いだの、寒いだの、どうでもいいような日記を広めている、雪の女王のような、エ、エル……」
「舞浜方面の話はヤバいです!外交問題になります! 」
エミが全力で止めた。
「何じゃ、面倒くさい世の中じゃのう。名前ひとつ言うにも気を遣わねばならんのか。これだから最近の若いもんは」
「若いもんというより、権利関係の問題です」
「権利、権利とうるさいのう。昔はな、歌も話も、人から人へ渡っていくものだったんじゃ」
幽霊は、そこで直樹の問題集に目を向けた。
「そういえば、男。『なる』で思い出したんだが、あんた、小説家になるのかい?」
「はい?」
「そのように難しい顔で文字を読んでおるから、小説でも書いているのかと思ったぞ。あるいは、日本の住宅問題を憂えておるのか。なかなか良い心意気じゃ。精進しなさいと励ますつもりであったが」
「小説ではなく、住宅関係の資格の勉強で当たってます!」
「なんじゃ、そうだったか」
幽霊は、あっさり頷いた。
「ならば、そのまま精進しなさい。いつか道は開ける。だが、小説を書くなら、ここに絶好の題材があるぞ」
「題材?」
「題名はそうじゃな。『瀬戸の花嫁』じゃ。海に沈んだ般若姫が、多くの困難を経て、見事結婚するという話じゃ。どうだ、よかろう」
「それ、もうあります」
「何?」
「小説じゃなくて、歌ですけど」
歌子さんが小さく吹き出した。
「先を越されたか。人間の創作力も侮れんな」
幽霊は、妙に悔しそうだった。
(今年が、サッカーの世界大会で良かった。たぶん本人はこちらを見ていないはず)
直樹が、心を落ち着かせる。
「ところで、小説って言ってますけど、誰が書くんですか?」
「ほら、向こうを見ろ」
幽霊が指さすほう、読者の方向を一同が見てしまう。
「ひいいいいい......何か聞こえましたよ、今。『こっち見んな』とか、『この表現って、いいの?』って声が」
直樹がうろたえる。
「私、霊感なかったのに、何か見えちゃったかも......」
エミが震えている。
「今、掟破りしましたよね! 僕たちを巻き込みましたよね! 僕も霊感ゼロだったのに」
直樹が幽霊に向かって、強い口調になる。
「まあまあ、そんなに慌てるんじゃない。『じゆうに』っていうから、自由に表現しただけじゃないか」
幽霊はとぼける。
「た、たぶんそういう意味での自由ではないと思うんですけど」
歌子さんは苦笑いしている。
場が落ち着いてきたところで、幽霊が話を続ける。
「ところで、『なる』の話の続きなんじゃが、瀬戸内といえば渦潮じゃ。鳴門は有名じゃが、この近くにも渦潮がある。もちろん、分かるよな?」
直樹とエミは、顔を見合わせた。
「鳴門以外に、ですか」
幽霊は大きくため息をついた。
「大畠瀬戸じゃ。すぐそこにあるというのに、知らんとは嘆かわしい。鳴門は分かるのに、大畠は知らない。この国の未来も危ういな」
「いきなり教養で殴ってきますね」
直樹が言うと、幽霊は得意げに胸を張った。
「幽霊は長生きならぬ長死にしておるからな。知識だけは無駄にある」
「長死にって言葉、初めて聞きました」
「今作った」
エミが、少しだけ笑った。
怖さが消えたわけではない。けれど、この幽霊はどうやら、怖いというより面倒くさい。
「そういえば」
幽霊は急に思い出したように言った。
「サタちゃんは元気かのう」
「サタちゃん?」
「大島のサタちゃんじゃ」
「周防大島ですか?」
「違う。三原山がある方じゃ。伊豆じゃ、伊豆大島の方。サタちゃんは働き者でのう、日本列島あらゆる所に現れ、姿を見た者をあの世送りにするんじゃ。見事な手際じゃ。さすがの私も認めざるを得ん」
直樹とエミは、同時に口を閉じた。
言ってはいけない名前が、喉元まで出かかった。
しかし、ここで不用意に言えば、また何か危険な方向へ話が転がる。
「……有名な井戸関係の方ですか」
直樹が慎重に言う。
「そう、それじゃ。井戸から出てくる」
「それ以上はやめましょう」
「何じゃ。あの子はなかなか根性があるぞ」
「評価基準が幽霊側なんですよ」
歌子さんが、ようやくいつもの調子を取り戻し始めた。
「あの、般若姫さん。何か飲まれますか?」
「おお、そうじゃ。冷え冷えの麦酒というものを飲みたい。お前たちも飲むよな」
幽霊は、直樹とエミを見る。
二人は同時に首を振った。
「何じゃ。私の酒が飲めんのか。これだから最近の若いもんは」
「僕は終電がありますし」
「私はトラックなので」
「トラック。あの大きな車か」
幽霊は、少しだけ真面目な顔になった。
「ならば飲まぬ方がよい。酔って車を動かし、事故を起こされては困る。今の人間どもは、スピードというものを扱いきれんくせに、大きな事故が起これば、やれ祟りだ、幽霊のせいだと勝手に言う。まずは我が身を振り返ってから言うべきではないか。こちらに責任ばかり押しつけおって」
「急に正論」
エミが呟いた。
「うちはノンアルコールビールならありますよ」
歌子さんが言う。
「のんある?」
「お酒の味に似せた、お酒じゃない飲み物です」
「不思議なものを作るのう、人間は。まあよい。それを三つ」
「僕もですか」
「これも、縁じゃ」
しばらくして、三人の前にノンアルコールビールが置かれた。
幽霊はジョッキを持ち上げた。
「それでは、ここにいる者たちの未来を、盛大に……呪ってやる」
直樹とエミは、お手本のように吹き出した。
「なーに、冗談じゃ」
「冗談が怖すぎます!」
「呪うという漢字を、しめすへんに変えてみなさい」
「え?」
「分からんのか」
幽霊は呆れたように眉を上げた。
「祝ってやるに決まっておるだろう。先人たちが苦労して漢字を取り入れたというのに、まったく。日本語は難しいなどと言う前に、もっと味わいなさい」
直樹は、問題集の解説で凍りついていた頭に、妙な形で言葉が入ってくるのを感じた。
呪うと祝う。
似ているようで、まったく違う。
言葉は難しい。
でも、難しいからこそ、面白いのかもしれない。
「そういえば、最近は、シチュー四十八という芸能集団がおるようだな」
幽霊が言った。
「シチュー?」
歌子さんが首を傾げる。
「海鮮シチューなら、材料があればできるかもしれないけど」
「違う違う、そんなボケいりませんって!」
直樹とエミが慌てる。
「何じゃ、違うのか。四国と中国地方の略であろう? 四国と言えば八十八か所。ならば四十八ではまだ足りん。束になってかかってこないと、私のような強者には勝てんぞ。こちとら紅白どころか、源平合戦だって見てきたような世代じゃからの」
「見てきた『ような』なんですね」
「細かいことを気にするでない」
幽霊は堂々と言った。
そのとき、カウンターの上でスマートフォンが震えた。
直樹のものでも、エミのものでもない。幽霊が白装束の袖から取り出した、最新型のスマートフォンだった。
「幽霊がスマホ持ってる……」
エミが呟く。
「拾ったのじゃ」
「拾った?」
「般若の神社に置き忘れておった。若い男が、デジタルデトックスとか言ってな。板切れを置いて、神妙な顔で手を合わせて帰ったのはよいが、そのまま忘れていきおった」
「それは普通に困ってるやつですね」
「夜に探しに来られては危ない。だから、立ち寄った場所であるこの茶屋に持ってきたのじゃ」
ちょうどそのとき、玄関のチャイムが鳴った。
カランコロン。
「すみません! まだ開いてますか!」
息を切らした若い男性が入ってきた。
彼は店内を見回し、カウンターの上のスマートフォンを見つけると、顔を明るくした。
「あった! よかった!」
「お主のか」
幽霊が言った。
男性は、一瞬だけ動きを止めた。
見えているのか、見えていないのか分からない。けれど、彼はスマートフォンに向かって深く頭を下げた。
「すみません。神社に置いてきたと思って、戻ろうか迷ってたんです。でも夜道が暗くて」
「戻らなくて正解じゃ。夜の山道を甘く見るでない」
幽霊は偉そうに言った。
男性はスマートフォンを受け取り、何度も礼を言って店を出ていった。
カランコロン。
扉が閉まると、幽霊は満足そうにノンアルコールビールを飲み干した。
「さて、用は済んだ」
「人助けだったんですね」
エミが言った。
「ついでじゃ、ついで」
「素直じゃないですね」
「幽霊が素直でどうする」
幽霊は立ち上がった。
「じゃあ、また来るわ。あんたたちが来世にいる頃に」
「来世ですか」
「長いですね」
「長い方がありがたみがあるじゃろ」
白装束の女は、来た時と同じように、窓の方へ歩いていった。
そして振り返り、最後に言った。
「近くのものを大事にしなさい。特に、目の前にいる者をな」
そう言って、彼女は窓を突き抜けて消えた。
店内に、静けさが戻った。
直樹、エミ、歌子さんは、しばらく何も言えなかった。
「……あれ、なんだかんだで、自称・般若姫の幽霊だったんですかね」
直樹が言った。
「あまりにも俗っぽすぎましたけど」
エミが続ける。
「来世にも現れるって聞いて、ちょっと憂鬱です」
「でも、悪い人ではなかったわね」
歌子さんが微笑んだ。
その瞬間だった。
どこからか、懐かしい通知音が鳴った。
『ユー・ガット・メール』
「あら、懐かしい通知音ね」
歌子さんが言った。
「僕、そんな音に設定してません」
「私もです」
直樹のスマートフォンが光っていた。
画面には、メールが一通届いている。
件名。
――呪ってやる。
直樹とエミの血の気が引いた。
震える指で、直樹はメールを開いた。
本文には、こう書かれていた。
――祝ってやる。近く、特に目の前のものを大事にすること。これだから最近の若いもんは。
直樹は、力が抜けた。
「脅かさないでほしい……」
ふと、差出人のメールアドレスが目に入った。
「hannyakireikawaii……」
「何ですか、それ」
エミが覗き込む。
「えーと、般若、綺麗、カワイイ、かっこいい、ヤッター……」
エミは、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「なんだ、言ってほしかったのか。ほんっと面倒くさいな」




