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第6話 人と地域に歴史ありと感じた金曜夜

 「そういえば、歌子さん」


 直樹は、問題集から顔を上げて尋ねた。


「あの掲示板に載っているのは、有名人ですか? 芸能人とか、スポーツ選手のサイン色紙とか」


 カウンターの向こうでグラスを拭いていた歌子さんは、直樹の視線の先を追った。


 店のもう一方の玄関近くにある掲示板。そこには、古い写真や、来店客との記念写真、地域のイベントのポスターが並んでいる。第2話の夜、ユミたちと花火をしたあとに撮った写真も、そこに飾られていた。


 その横に、何枚もの色紙がある。


 直樹は以前から気になっていた。古いものは少し黄ばんでいる。サインのようなものもあれば、手形のようなものもある。けれど、芸能人の名前としては見覚えがない。


「違うのよ」


 歌子さんは、少し懐かしそうに笑った。


「実は、あの色紙は、何て言えばいいかな……そうね、名もなき人たちのサインや手形なの」


「名もなき人たち?」


「五十年くらい前、大島大橋が開通したでしょう。そのとき、工事に関わっていた人たちのものがあるの。橋脚を作った人、道路を整備した人、測量した人、交通整理をした人、食事を運んだ人。肩書きだけでは残らないけど、確かにここで働いた人たち」


 直樹は、掲示板の色紙を見つめた。


「最近のものもあるわよ。大畠駅の改修に関わった人たちとか、国道の工事をした人たちとか。ここ近辺で大きな工事をする人が、あの掲示板に一礼してから現場に向かうこともあるの。一種のお守り代わりみたいなものね」


「お守り……」


 直樹は、その言葉を小さく繰り返した。


 掲示板に飾られている色紙が、急に違って見えた。


 ただのサインではない。

 有名人の証拠でもない。

 名前を知らない誰かが、橋を架け、駅を直し、道路をつなぎ、今日の自分の帰り道を作った。その跡が、ここに貼られている。


 カウンター席のエミも、静かに掲示板を見ていた。


「私も、何度も見てたのに、ちゃんと読んだことなかった」


「エミちゃんは、いつも塩コーヒー飲みながら眠そうにしてるものね」


「すみません。だいたい疲れてるので」


「疲れた人が来る店だから、それでいいのよ」


 歌子さんがそう言うと、ちょうど玄関のチャイムが鳴った。


 カランコロン。


「こんばんは」


 入ってきたのは、高齢の男性だった。白い帽子をかぶり、杖をついている。背筋は少し曲がっているが、目はしっかりしていた。その後ろから、三十代くらいの女性が入ってくる。首からカメラを下げ、手には小さなノートを持っていた。


「あら、森川さん。お久しぶり」


 歌子さんの声が明るくなる。


「久しぶりじゃのう、歌子さん。五十周年の行事がようやく一段落してな。顔を出さにゃと思っとったんじゃ」


「大島大橋の?」


「そうそう。式典やら写真展やら、昔話をしてくれと言われることが多くてな。昔は誰も聞いてくれんかった話を、五十年経ったら急に聞きたがる」


 森川さんは、照れたように笑った。


 後ろの女性が、軽く頭を下げる。


「柳井日々マガジンの白石です。今日は森川さんに同行させてもらっています。大島大橋五十周年の特集で、当時のことを取材していまして」


「それはそれは。じゃあ、何か温かいものを出しましょうか」


「ありがとうございます」


 森川さんは、掲示板の方へゆっくり歩いていった。

 杖の音が、床に小さく響く。


 そして、色紙の前で立ち止まった。


「まだ飾ってくれとるんじゃな」


「もちろんですよ」


 歌子さんが言った。


「これは、うちの宝物ですから」


 森川さんは、黄色くなった一枚の色紙に触れない程度に手を近づけた。


「この字は、山本じゃ。字が下手でなあ。本人は嫌がっとった。これは田坂。こっちは若い頃のわしの手形じゃ」


「えっ、森川さんの手形なんですか」


 エミが思わず声を上げた。


「そうじゃ。今よりだいぶ手が大きく見えるじゃろ」


「手が縮むんですか?」


「気持ちの問題じゃ」


 森川さんは笑った。


 白石記者は、ノートにメモを取りながら尋ねた。


「当時は、やっぱり大変でしたか」


「大変じゃったよ。橋を架けるというのは、ただ海の上に道路を通すだけじゃない。島の暮らしと本土の暮らしの時間を変えることじゃからな」


 直樹は、その言葉に耳を向けた。


「橋ができる前は、島へ渡るにも時間がかかった。天気にも左右された。もちろん、橋ができたからといって全部が楽になったわけではない。便利になれば、別の苦労も出てくる。人も物も動きやすくなるが、出ていくものも増える」


「出ていくもの」


 エミが呟いた。


「若い人も、金も、店も、思い出もな。何でも橋を渡る。入ってくるものもあれば、出ていくものもある」


 森川さんは、窓の外へ目を向けた。


「でも、橋がなければ届かなかったものもある。救急車も、荷物も、通学も、通勤も、孫の顔も」


 エミは黙って頷いていた。

 トラックドライバーである彼女には、その言葉が直樹よりも具体的に響いているのかもしれない。


「橋って、便利なもの、だけではないんですね」


 直樹が言った。


「そりゃそうじゃ」


 森川さんは、直樹を見た。


「橋はな、渡るものじゃが、同時に迷うものでもある。渡るか、渡らんか。行くか、残るか。戻るか、戻らんか。橋の手前に立つと、人は案外いろんなことを考える」


 その言葉に、直樹は胸の奥を少し突かれた気がした。


 自分は毎週、橋の手前まで来ている。

 けれど、まだ渡っていない。


 エミも、橋を見ながら仕事をしている。

 けれど、彼女にとって橋は、観光ではなく道であり、仕事であり、危険でもあり、生活でもある。


「そういえば」


 歌子さんが、ふと思い出したように言った。


「森川さん、見ました? 外に新しくできたもの」


「おお、あれか。見た見た。何じゃ、あの遊具は」


「シーソーです」


 歌子さんは少し誇らしげに言った。


「いつの間にかできてたんですよ」


「いつの間にか?」


 直樹が聞き返す。


 歌子さんは、何でもないことのように笑った。


「この店では、たまにあるのよ。必要なものが、いつの間にか増えていることが」


「え、それって怖くないですか」


「怖いと思う人には怖いし、助かると思う人には助かるの」


 エミが小さく言った。


「月待ホテルの話みたいですね」


 直樹は、数カ月前の夜を思い出した。革ジャンの男たちが泊まると言っていた、聞いたことのないホテル。必要な時にしか見えないと言われていた場所。


 歌子さんは、何も答えなかった。


「大畠駅をイメージしてるらしいのよ」


 代わりに、そう続けた。


「新しくなった大畠駅の屋根って、シーソーみたいに見えるでしょ。子ども用に見えるけど、大人が乗っても大丈夫なんですって」


「大人がシーソーですか」


 直樹は苦笑した。


「なかなか勇気がいりますね」


「直樹さんとエミちゃん、乗ってみたら?」


 歌子さんが、あまりにも自然に言った。


「えっ」


 直樹とエミの声が重なった。


「いやいや、私は仕事帰りですし」


「僕も、さすがに」


「満月よ」


 歌子さんが窓の外を見た。


「今夜は、橋も海もきれいに見えるわ」


 森川さんも、面白そうに笑った。


「ええじゃないか。若い人が乗るところを見たいのう」


「若いというほどでも」


 直樹が言いかけると、エミが小さく言った。


「直樹さん、こういう時は、断る方が恥ずかしいかもしれません」


「そうですかね」


「たぶん」


「エミさんが言うなら」


「私のせいにしないでください」


 白石記者も、少し遠慮がちに笑っていた。


「取材中にこういう場面に出会えるとは思いませんでした」


「撮らないでくださいね」


 エミがすぐに言う。


「もちろん、勝手には撮りません」


 白石記者は慌てて首を振った。


 結局、二人は店の外に出ることになった。


 夜風が、昼間の熱を少しだけ残していた。駐車場の向こうには、国道の光が流れている。そのさらに向こうに、海と橋がある。満月の光が、大島大橋の輪郭をうっすらと浮かび上がらせていた。


 駐車場のそばに、シーソーはあった。


 たしかに、大畠駅を思わせる形だ。


「いつの間に、こんなものが」


 直樹が呟く。


「私、先週は見なかった気がします」


 エミも不思議そうに言った。


「でも、あるね」


「ありますね」


 二人は、しばらくシーソーの前で立ち尽くした。


「乗りますか」


 直樹が言う。


「ここまで来て乗らないのも、変ですよね」


「変ではないと思いますけど」


「でも、歌子さんたち見てます」


 振り返ると、店の窓の向こうから、歌子さん、森川さん、白石記者がこちらを見ていた。


「完全に見世物ですね」


「そうですね」


 それでも、二人は笑ってしまった。


 直樹が片方に座る。

 エミが反対側に座る。


 シーソーは、ゆっくりと傾いた。直樹の方が少し下がる。


「すみません」


「何で謝るんですか」


「体重差で」


「そこは言わなくていいです」


「はい」


 エミが少し足で地面を押すと、今度は直樹の方がふわりと上がった。


 子どもの頃以来だった。


 地面から少し上がるだけで、景色の高さが変わる。

 高く上がると、相手は下にいる。

 自分が下がると、相手が上がる。


 ただそれだけの遊具なのに、妙に落ち着かなかった。


「シーソーって、こんなに気を遣うものでしたっけ」


 直樹が言った。


「子どもの頃は、たぶんもっと雑に乗ってました」


 エミが答える。


「勢いよく降りると、相手がびっくりするんですよね」


「ありますね」


「今やったら、普通に怪我します」


「大人のシーソー、怖いですね」


「大人になると、遊具にも責任が発生しますね」


 二人はまた少し笑った。


 満月が、橋の上に浮かんでいる。

 大島大橋は、夜の中で静かに伸びていた。あの橋を作った人たちの手形が、店の中の掲示板に残っている。駅を直した人たちの名前も、道路を整えた人たちのサインも。


 直樹は、足元のシーソーの支点を見た。


「橋も、シーソーみたいなものなんですかね」


「どういう意味ですか」


「こっちが上がると、向こうが下がる。便利になる人がいれば、寂しくなる人もいる。渡りやすくなる人がいれば、出ていかれる人もいる」


 エミは少し黙った。


「でも、ずっと傾いたままだと壊れますよね」


「はい」


「じゃあ、たぶん、バランスを取り続けるものなんじゃないですか。橋も、地域も、人も」


 その言葉は、エミ自身が驚くほど自然に出たようだった。


 直樹は、彼女の方を見た。


 キャップのつばで目元は見えにくい。けれど、月明かりの中で、彼女の横顔はいつもより少し柔らかく見えた。


「エミさん、たまにすごく良いこと言いますよね」


「たまにって何ですか」


「すみません。いつもです」


「それはそれで嘘っぽいです」


 エミが笑った。


 二人の間で、シーソーが小さく揺れた。


 上がったり、下がったり。

 近づいたり、遠ざかったり。

 同じ高さになりそうで、なかなかならない。


 直樹は、ふと思った。


 自分たちも、このシーソーのようだ。


 同じ店にいる。

 同じ月を見ている。

 同じ橋の手前にいる。

 けれど、いつも少しだけ高さが違う。どちらかが話そうとすると、どちらかが黙る。どちらかが近づくと、どちらかが照れて距離を取る。


 それでも、完全に離れているわけではない。

 真ん中には、支点がある。

 このドライブインという支点が。


「直樹さん」


「はい」


「このシーソー、ちょっと不思議ですね」


「何がですか」


「相手がいないと、ただの板なんですよ」


 直樹は、言葉に詰まった。


 エミは、何気なく言っただけなのかもしれない。

 でも、直樹には、その一言が妙に深く響いた。


「そうですね」


 直樹は答えた。


「相手がいて、初めて揺れるんですね」


 二人は、しばらく黙っていた。


 店の中から、歌子さんたちの笑い声が少しだけ聞こえる。

 国道を車が通り過ぎる。

 遠くで、電車の音がしたような気がした。


 そのとき、玄関の方から白石記者が出てきた。


「あの、すみません」


 二人は同時に振り向いた。


「今の様子、とても良いので……撮影させていただけませんか。記事に使うかどうかは、後で確認します。顔は映さないようにします。後ろ姿か、足元だけでも」


「いや、私たちモデルでもないので」


 エミがすぐに言った。


「僕も、ちょっと恥ずかしいです」


 直樹も続ける。


 白石記者は、深く頭を下げた。


「もちろん、無理なら撮りません。ただ、大島大橋五十周年の記事で、昔の工事の話だけではなく、今もこの橋の手前で人が時間を過ごしていることを入れたいんです。橋を作った人たちの手形と、今ここにいる人たちの時間が、少しだけつながる気がして」


 直樹は、エミを見た。

 エミも、直樹を見た。


「顔、映らないなら」


 エミが小さく言った。


「僕も、それなら」


「ありがとうございます」


 白石記者は、カメラを構えた。


「そのままで大丈夫です。橋と月が入るようにします」


 二人は、少しぎこちなくシーソーに座り直した。


 直樹の方が少し下がり、エミの方が少し上がっている。

 けれど、ほんのわずかに、二人の高さが近づいた瞬間があった。


 その瞬間、フラッシュがたかれた。


 白い光が、満月の夜に一瞬だけ重なった。


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