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第4話 青春は号砲と共にと誓った金曜夜

 今週も金曜日の夜がやってきた。


 エミは、今夜は何を食べようかと考えながら、早まる気持ちを抑えてトラックを走らせていた。今日も一日、事故なく仕事を終えた。荷物も時間通りに届けた。納品先の担当者に、いつもありがとうと言われた。その一言だけで、少しだけ体が軽くなる日もある。


 鼻歌を小さく奏でながら、ハンドルを握る。


 午後七時半を過ぎた夏の夕暮れ。瀬戸内海は、まだ完全には夜になりきっていなかった。空には青と橙が薄く混じり、海の向こうには、ゆっくり沈んでいく光の名残があった。


 サンバイザーを収める。

 大島大橋へとつながる交差点が近づいてきた。


 そのとき、右手にある歩道橋の階段を、何かが上がっていくのが見えた。


「え、何、あれ!? もしかして熊?」


 鳥肌が立った。


 エミは、ゆっくりとスピードを落とした。ヘッドライトが歩道橋を照らす。すると、それはビクッとしたようにこちらを振り向いた。


 熊じゃない。

 高校生くらいの女の子だ。


 四つん這いになって、階段を上がろうとしている。表情が苦しそうだった。まるで、体のどこかが言うことを聞かないのに、それでも前に進もうとしているように見えた。


 様子を見たくても、すぐには停められる場所がない。エミは一度、大畠駅の方まで進み、そこでUターンした。歩道橋近くの空き地にトラックを寄せ、ハザードランプを点灯させる。


 助手席側に置いていた懐中電灯をつかみ、急いで歩道橋へ向かった。


 女の子は、何とか階段を上がりきったようだった。けれど、歩道橋の上に座り込み、両手で顔を覆っている。


「だ、大丈夫!? って、大丈夫じゃないよね。足が動かないの?」


 女の子は、こくりと頷いた。


 ものすごい汗だった。熱帯夜には似つかわしくない長袖のジャージが、汗でずぶ濡れになっている。胸元には「大畠高校」と刺繍されていた。


 エミは、できるだけ驚かせないように、女の子の背中に手を添えた。


「ゆっくり息して。大丈夫。今、そばにいるから」


 女の子は、ふうっと一息、深呼吸をした。


「ごめんなさい。足が……両方つってしまって」


 今にも泣き出しそうな声だった。


「救急車、呼ぼうか?」


「足をつっただけなので……何とか大畠駅までたどり着ければ、家まで帰れます」


「いや、それは危ないって。近くにドライブインがあるから、一旦そこで休もう。水も飲もう。何か食べられるものもあると思う」


「でも……」


「でも、じゃない。立てる?」


「お願いします……いたた、ふう」


 女の子は、歯を食いしばりながら立ち上がった。膝が震えている。


「名前、聞いてもいい?」


「……未来です。中原未来」


「ミクちゃんね。私はエミ。トラックの運転手。今から、すぐそこのふれあいドライブインに連れていくから」


「すみません」


「謝るのは後でいいから。左手で手すり持って。右は私が支える。ゆっくり降りよう」


 慎重に、慎重に、二人は歩道橋の階段を降りていった。

 上るより、降りる方が怖い。未来の体重が少しでも崩れれば、二人とも落ちてしまうかもしれない。エミは、腕に力を込めながら、未来の呼吸に合わせて一段ずつ下りた。


 ようやくトラックまでたどり着いたころには、エミの背中にも汗がにじんでいた。


「じゃあ、すぐそこのドライブインに行くからね」


「はい、お願いします……」


 未来は助手席に座り、窓の外を見ていた。顔色は悪いが、意識ははっきりしているようだった。


「どこの部活なの? ひとりで走ってたってことは、自主練?」


「駅伝部です。自主練してました」


「こんな時間に?」


 未来は答えなかった。


 エミは、それ以上すぐには聞かなかった。

 聞きたいことはいくつもある。けれど、今は問い詰める時間ではない。


 トラックは、ふれあいドライブインの駐車場へ入っていった。




 一方、直樹は食事を終え、テキストと問題集に悪戦苦闘していた。


 今日は、ちょうど苦手な科目だった。暗記することも多い上に、記述問題も出る。問題文が何を答えさせようとしているのか、なかなか読み取れない。


 資格試験というものは、残酷だ。


 どれだけ努力しても、点数が足りなければ不合格になる。言い訳は答案用紙に書けない。眠かった、仕事が忙しかった、心が疲れていた。そういう事情は、自分の中では大きな理由でも、試験結果には何も反映されない。


「はあ」


 直樹は一つ息を吐き、窓の外を見た。


 駐車場に、エミのトラックが入ってきた。いつもより少し勢いがない。いや、勢いがないというより、慎重に停めている。


 ドアが開き、エミが車を降りる。小走りで店へ向かってくる。


 カランコロン。


「歌子さん、近くで高校生の子が両足をつっちゃったみたい。できれば、水分と食べやすいものをお願いします。あと、直樹君は……いた! ごめん、ちょっと手伝ってほしい」


「えっ、はい!」


 直樹は、慌てて席を立った。


 トラックから、申し訳なさそうな表情をした女子高校生が降りようとしていた。降りるだけでも痛いのだろう。片足を地面につけるたび、顔が歪む。


 直樹は、エミと反対側に回り、転ばないように支えた。


「ゆっくりで大丈夫です」


「すみません」


「謝らなくていいです。今は、こっちへ」


 未来は、二人に支えられながら店内へ入った。


 歌子さんは、すでにテーブル席を空けていた。冷たい水、濡らしたタオル、そして氷を入れた袋まで用意している。


「座って。靴、脱げる?」


 未来は頷いた。エミが靴を脱がせると、ふくらはぎがまだ硬く強張っているのが分かった。


「熱中症も怖いから、少しずつ水を飲んでね。一気に飲まないで」


 歌子さんが、優しいがはっきりした声で言う。


 未来は、両手でコップを持った。水を少しだけ口に含む。その瞬間、安心したのか、目に涙が浮かんだ。


「すみません。本当に、すみません」


「謝るのは後でいいのよ」


 歌子さんが言った。


「今は体を戻すことが先。名前は?」


「中原未来です」


「未来ちゃんね。いい名前」


 歌子さんはにっこり笑った。


「未来ちゃん、家の人か先生に連絡できる?」


 未来の手が止まった。


 スマホは持っているようだった。ジャージのポケットに入っている。けれど、それを取り出そうとはしない。


「連絡は……」


「できない?」


「自主練、内緒だったので」


 小さな声だった。


 エミは、未来の隣に座った。


「内緒で走ってたの?」


「はい」


「部活の練習だけじゃ足りなかった?」


 未来は、うつむいたまま頷いた。


「今年、最後なんです」


「最後?」


「駅伝の大会です。今のメンバーで走れるのは、今年が最後なんです」


 未来は、コップを握る手に力を込めた。


「大畠高校、今年は強いって言われてて。二十年ぶりに都大路を狙えるかもしれないって、町の人たちも言ってくれて。差し入れをくれる人もいるし、声をかけてくれる人もいるし、横断幕も作ってくれて」


 未来の声は、少しずつ震えていった。


「でも、勝てないんです。いつも二位なんです。強豪校に、最後で届かない。去年も、その前の記録会も、ロードレースも、あと少しで届かない」


「未来ちゃんは、何区を走るの?」


 直樹が聞いた。


「アンカーです」


 未来は答えた。


「いつも最後です。みんなが繋いできた襷を、私が受け取るんです。私が抜けば勝てる。私が遅れたら、全部終わる」


 その言葉は、十代の少女が背負うには、あまりにも重く聞こえた。


「親も長距離をやっていて。小さい頃から、走るのは得意でした。大学からも声をかけてもらっています。実業団の人からも、一度見に来ないかって言われました。でも、チームの子たちは、まだ進路が決まってない子もいるんです。足を痛めて、今年で走るのをやめる子もいる。体がもう限界で、卒業したら陸上から離れるって決めている子もいる」


 未来は唇を噛んだ。


「だから、私が連れていかなきゃいけないんです。都大路に。みんなで行ける最後のチャンスだから」


 店内の空気が、少し変わった。


 青春という言葉は、外から見ると甘い。

 笑顔、汗、仲間、夢。

 けれど、その中にいる本人にとっては、そんなに綺麗なものだけではないのかもしれない。


 直樹は、2ヶ月ほど前にドライブインに来た、ユミと学生たちを思い出していた。花火を囲み、笑い合っていたユミたち。あの夜、自分は少しだけ青春を羨ましく思った。けれど、ユミもまた、進路が決まらず、不安を抱えていた。


 若い時間は、眩しい。

 でも、眩しいものは、近くで見ると目が痛い。


「でも、今日みたいなことを続けたら、レース当日に走れなくなるよ」


 エミが言った。

 きつい言い方ではなかった。けれど、逃げ場のない言葉だった。


「分かってます」


「本当に?」


 未来は答えられなかった。


「私は運転するほうのトラックだから、駅伝とは違うけど」


 エミは、窓の外に停めた自分のトラックを見た。


「荷物って、早く届けることも大事。でも、それだけじゃだめなんだよ。安全に、壊さず、ちゃんと次の人に渡す。そこまでできて、初めて繋げたことになる」


 未来は、顔を上げた。


「襷も同じじゃないかな。速く走るだけじゃなくて、ちゃんと次に繋がる形で走る。アンカーなら、なおさらレース当日にそこに立ってないといけない。コースに立てなかったら、どれだけ速くても繋がらないよ」


 未来の目から、涙が一粒こぼれた。


「分かってるんです。でも、怖いんです」


 その声は、さっきまでよりも幼く聞こえた。


「みんなが私を見るんです。未来ならやってくれるって。未来なら最後に抜いてくれるって。先生も、町の人も、親も、チームのみんなも。期待してくれるのは嬉しいのに、怖いんです」


「怖いよね」


 歌子さんが言った。


 歌子さんは、キッチンから小さな土鍋を持って戻ってきた。湯気がふわりと立っている。


「お粥を作ったの。少しだけ塩を入れてあるから、食べられそうなら食べてみて。胃に優しいから」


「すみません。お金……」


「それも後でいいの」


 歌子さんは、小さな茶碗によそって、未来の前に置いた。


 未来は最初、ためらっていた。けれど、一口食べると、表情が少しだけ変わった。


「……おばあちゃんが作ってくれた味に似てます」


「そう。それは光栄ね」


 歌子さんは嬉しそうに笑った。


 未来は、もう一口食べた。

 その顔は、競技者ではなく、ただ疲れた高校生の顔だった。


「若い頃の強さと弱さって、あるよね」


 歌子さんが、ふと口にした。


「若いから無茶ができる。でも、若いから無茶だって気づけない。強いのに脆い。脆いのに、自分では壊れないと思ってる」


「戻りたいですか? 若い頃に」


 直樹が、思わず聞いた。


 歌子さんは少し考えて、笑った。


「ちょっとだけならね。でも、ずっと戻れって言われたら嫌かな」


「分かります」


 エミが即答した。


「え、エミさんもですか」


「うん。たまに、学生時代って楽しそうだったなあって思う。でも本当に戻れって言われたら、たぶん全力で逃げる」


 直樹も思わず笑った。


「僕も、戻ったら戻ったで、また同じように悩んでそうです」


「青春って、甘いだけじゃないんですね」


 未来がぽつりと言った。


「甘いところもあるけどね」


 歌子さんが言う。


「でも、しょっぱいし、苦いし、熱いし、たまに胃にもたれる」


「それ、食べ物みたいですね」


「人生だいたい食べ物で説明できるのよ」


 その言葉に、未来が少しだけ笑った。


 直樹は、自分の問題集を見た。結果がすべてではない、と言いたい時もある。けれど、試験は結果が出る。合格か、不合格か。何点足りなかったか。どこで間違えたか。そういう数字が、はっきり突きつけられる。


 未来のプレッシャーとは比べものにならないかもしれない。

 それでも、結果が出るものに向かう怖さだけは、少し分かる気がした。


「アスリートって、すごいですね」


 直樹は言った。


「自分の体をそこまで追い込めるのが、僕には分からないです」


「私にも分からない」


 エミが言った。


「でも、少し分かる気もする。仕事でも、あと少し無理すれば間に合うって時があるから。ここで引いたら迷惑がかかるって思う時がある。でも、その“あと少し”が危ないんだよね」


「ドクターストップを越えるくらいの気持ちがないと、届かない場所もあるのかもしれない」


 直樹が言う。


「でも、それは綺麗だけど危ない考えでもありますよね」


 歌子さんが静かに続けた。


「美談になる時もある。でも、取り返しがつかない時もある」


 四人とも黙った。


 未来は、お粥をゆっくり食べていた。

 一口ごとに、少しずつ呼吸が落ち着いていくようだった。


 そのときだった。


 カランコロン。


 ドライブインのチャイムが鳴った。


 入ってきたのは、四十代くらいの男女だった。続いて、スポーツウェア姿の男性二人、さらに女子高校生たちが数人、息を切らして入ってくる。


「未来!」


 最初に叫んだのは、母親らしき女性だった。


 未来の顔が、真っ白になった。


「お母さん……」


「どこにいたの! 心配したんだから!」


 母親は駆け寄ろうとして、未来の足元を見て、言葉を止めた。父親らしき男性も、監督らしき男性も、チームメイトたちも、未来を見つけて一斉に息を吐いた。


「すみません」


 未来は立ち上がろうとした。


 しかし、足に力が入らない。


 エミが支えようとしたが、それより先にチームメイトの一人が駆け寄った。


「未来、動かなくていい!」


「ごめんなさい」


 未来の声が震えた。


「ごめんなさい、ごめんなさい。私、勝手に走って。みんなに迷惑かけて。都大路、行きたいのに、私がこんなことして」


 その先は、言葉にならなかった。


 未来は、迎えに来たチームメイトたちの前で泣き崩れた。


 誰も、すぐには怒らなかった。

 監督も、父親も、母親も、チームメイトたちも、ただ未来を見ていた。


 やがて、一人のチームメイトが、未来を抱きしめた。


「ばか」


 それだけだった。


 すると、別の子も、その横から抱きついた。


「心配した」


「一人で走るなよ」


「アンカーだけで駅伝してるんじゃないんだから」


「私たちもいるじゃん」


 未来は、声を上げて泣いた。


 チームメイトたちは、未来を囲むようにして抱きしめていた。誰が誰を支えているのか、もう分からなかった。ただ、汗と涙とジャージの匂いが混ざった、小さな輪がそこにできていた。


 ドライブインにいる人たちは、その光景を黙って見ていた。


 歌子さんは、目元を指で押さえていた。

 直樹も、喉の奥が熱くなっていた。

 エミの頬には、涙が一筋伝っていた。


「今……私たち、すごいものを見てるよね」


 エミが、小さく呟いた。


 直樹は頷いた。


「はい」


 それ以上の言葉は出なかった。


 駅伝という競技を、直樹はテレビでしか見たことがない。けれど、今、目の前にあるものは、どんな中継映像よりも近かった。襷を渡す前から、人はこんなにも誰かに繋がれているのだと、初めて知った気がした。


 落ち着いてから、監督が深く頭を下げた。


「本当にありがとうございました。大畠周辺のお店を聞いて回っていたら、このあたりを走っているのを見たという方がいて。まさか、こちらにいるとは」


「足がつって動けなくなっていたので、連れてきただけです」


 エミは少し照れたように言った。


「でも、念のため病院には行った方がいいと思います。熱もこもっていたし」


「はい。すぐ連れて行きます」


 父親が頷いた。


 母親は、歌子さんの前に立った。


「あの、お粥やお水、それから助けていただいた分のお代を」


「今日はいいの」


 歌子さんは、きっぱり言った。


「でも」


「未来さんの出世払いということにします」


 歌子さんは、にっこり笑った。


「いつか大きくなって、ここへ元気な顔を見せに来てくれたら、それで十分」


 未来は、まだ涙で赤くなった目を上げた。


「ありがとうございます」


 そして、エミの方を向いた。


「お姉ちゃん、ありがとう」


 エミは、一瞬固まった。


「お、お姉ちゃん?」


「はい。助けてくれたから」


 未来は、恥ずかしそうに笑った。


「私、アンカーなのに、今日は誰かに繋いでもらいました」


 エミは何か言おうとして、言葉に詰まった。


「うん。次は、ちゃんとみんなに繋いでね」


「はい」


 未来は、チームメイトに支えられながら、店を出ていった。

 両親と監督、コーチも、何度も頭を下げながら後に続いた。


 カランコロン。


 チャイムの音が、いつもより少し長く響いた。


 店内に静けさが戻る。


 エミは、未来たちが出ていった玄関を見つめたまま、ぽつりと呟いた。


「お姉ちゃん……か」


「似合ってましたよ」


 直樹が言った。


「からかわないで」


「からかってません。本当に」


 エミはキャップのつばを少し下げた。


 その横顔は、照れているようにも、少し嬉しそうにも見えた。




 十一月。


 県大会の日、山口の空はよく晴れていた。


 陸上競技場には、各校の選手たちが集まっている。応援の声、アナウンス、スパイクの音。それらが混ざり合い、朝の空気の緊張感を一層高めていた。


 コースのどこかに、未来もいる。


 アンカーとして、最後の襷を待つために。


 競技場では、大畠高校の第一走者がスタートラインに立っていた。あの夜、ドライブインで未来を抱きしめたチームメイトの一人だった。


 観客席には、横断幕が揺れている。


 ――大畠高校駅伝部 都大路へ。


 号砲を待つ静けさが、ほんの一瞬だけ訪れた。


 未来は遠く離れた中継所で、空を見上げていた。

 あの金曜夜のドライブインの灯りを、ふと思い出す。お粥の味。エミの手。チームメイトの腕。泣きながら謝った自分。


 アンカーだけで駅伝をしているんじゃない。


 その言葉が、胸の奥で静かに響いた。


 青空に、号砲が鳴った。


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