第3話 愛は轟音と共に響く金曜夜
ロケ地巡りの学生たちと過ごした夜から、1ヶ月ほど経った。
結局、あれからエミさんと話す機会はなかった。でも、会釈を交わす程度にはなった。
お手洗いを通る際に、向こう側の玄関近くにある掲示板には、花火のあとに記念撮影した写真が飾られている。あの夜だけは、無いはずだった青春を感じた、尊い時間だった。
でも、見るたびに恥ずかしくもなる。 写真のエミさんは笑顔だった。相変わらず、目元はキャップで隠していたが。
今夜も問題集を開いていたが、目がかすんでいる。目薬をさした直後だった。
ブロオオオオン!! バリバリバリ!!
凄まじい轟音が、駐車場に響いた。いかついバイクのエンジン音だ。
ビクッとしたのは、直樹だけでなかった。エミも一瞬ギクッとしていたのが見えた。
暴走族だろうか? ドライブインに緊張が走る。
革ジャンの集団が、ぞろぞろと入ってくる。
「何もありませんように。何も起きませんように」 その光景を見ていた直樹が、静かに呟く。
ガランゴロン! 玄関のドアが勢いよく開き、チャイムが大きく揺れる。
「歌子!久しぶり!元気か? 今年もやってきたぞ!」
ヘルメットをとった男性をよく見てみると、白髪で年は割といってそうだ。だが、体は引き締まっていて、一方で、しっかりした腕をしている。
「あら!お久しぶり! もちろん元気よ。 今年も来れたんだね」
歌子さんは、旧友にでも会ったかのように嬉しそうだ。
「テッちゃんも元気かい?」
「もちろん! そろそろ釣りから帰ってくるところよ」
誰だろう、その人、テッちゃんって。
直樹は不思議に思っていたら、 エミがすかさず尋ねた。
「あのー、歌子さん。テッちゃんって誰ですか?」
「あー、そっか紹介してなかったわね。私の夫よ」
「へええ、知らなかった。」 革ジャンの集団は、いつも間にか、テーブル席に陣取っていた。
「歌子! とりあえずビール!」
「OK! ノンアルコールビール4つね!」
「えーっ!!」と言いながら、4人の男たちがズッコケている。
「なんか、毎年恒例の光景ね、それ」
歌子さんが、ジョッキを用意しながら、クスクス笑っている。 毎年、このような滑稽なやり取りをしているのかと、直樹までつられて笑いそうになる。
エミのほうを振り向くと、塩コーヒーのカップを持ちながら震えている。あれは絶対笑いをこらえている姿だ。
カランコロン。また、白髪の男性が入ってきた。
「おお! テッちゃん! 心の友よ。 今年もやってきたぞ。 元気だったか」
「おー、やっさんたちじゃねえか! もっちろん元気だよ」
「まさか、隠居して釣り三昧か? 歌子にばかり、店の仕事させちゃダメだぞ」
「なーに言ってんだい。今も現役よ。さすがに、夜の遅い時間帯からはリタイアしてるけど、昼から夕方までは、キッチンでバリバリ働いてるさ。今日は休んでるけどな。最近、金曜夜は、お客が少なくてな。」
エミが、ジョッキを運び終えた歌子さんに、再び質問している。
「あのー、今入ってきた人が、歌子さんの旦那さんですか?」
「そうよ。そういえば、エミちゃんと直樹さんには、まだ紹介してなかったわね。直樹さーん! 勉強中にごめんなさい。ちょっとこっちまで来てもらっていい?」
「あ、はーい」
「どうも、ふれあいドライブインの(もうひとりの)店主、テツロウと言います。鉄道の鉄に、太郎の郎と書きます。テッちゃんだとか、好きなように呼んでください。年下のお客さんからは、テツさんと呼ばれることが多いかな。」
「テツさん、初めまして。私、藤井エミと言います。金曜夜に塩コーヒー目当てで通っています。」
エミさんが腕をポンポンと叩く。
「あ、申し遅れました。河村直樹と申します。歌子さんには、いつも美味しい食事でお世話になっています。」
「あー、最近金曜夜に必ず現れるお客さんですね。歌子から聞いています。うちのドライブインは、お客さんがいる限り、真夜中までは開けていますから。 もし、今度昼から夕方に来る機会があれば、自慢の手料理ごちそうしますよ。今後もごひいきに」
そして、テツさんは、革ジャンの集団のテーブルのほうへ行った。
「で、やっさん。今年はどこから回ってきたんだ?」
「萩から下ってきて、秋吉台を抜けて、防府、周南、柳井。明日は広島に入る予定だ。天気が良ければ、しまなみの方まで行く」
「相変わらず元気だねえ」
「元気じゃないから走るんだよ」
やっさんと呼ばれた男は、そう言って笑った。
笑い方は豪快だったが、その目元には、長い時間を走ってきた人だけが持つような深い皺が刻まれていた。直樹は、さっきまで暴走族かと身構えていた自分が少し恥ずかしくなった。
「それよりテッちゃんよ」
やっさんは、ノンアルコールビールのジョッキを片手に、テツさんの方へ身を乗り出した。
「そろそろ俺たちと一緒にバイク乗らないか? 後ろに乗るだけでもいいぞ。風を切る感覚、思い出すぞ」
「俺はサーフボードの方がいいな」
一瞬、沈黙が落ちた。
次の瞬間、革ジャンの男たちは一斉に笑い出した。
「出たよ!」
「テッちゃん、まだそれ言うか!」
「波もない夜の瀬戸内で何言ってんだよ!」
「いやいや、ここの海だって、風が合えば良い顔するんだぞ。ウインドサーフィンやSUPだって、できるし」
テツさんは胸を張った。
「お前らは道路ばっかり見てるから分からんのだ。海はな、毎日違うんだよ。おんなじ場所にいても、同じ顔をしてくれない」
その言葉を聞いて、直樹は少しだけ窓の外を見た。
夜の駐車場の向こうに、国道の光が通り過ぎる。さらにその向こうには、見えない海がある。第1話の夜には、その海をただ「暗い」としか感じなかった。けれど、テツさんの言葉を聞くと、闇の向こうにも何かが動いているような気がした。
「あの、歌子さん」
直樹は小さく声をかけた。
「テツさんって、サーファーだったんですか?」
「あら、気になる?」
歌子さんは嬉しそうに笑った。
「ほら、あそこ。掲示板の右上」
指さされた先を直樹が見ると、古い写真が一枚飾られていた。
少し色褪せた写真の中で、若い男性が海の上に立っている。赤いショートパンツを履き、日焼けした顔で、波に乗っている。今のテツさんよりもさらに細く、でも目だけは今と同じように、笑っているような、挑んでいるような光をしていた。
「あれ、テツさんですか?」
「そう。若い頃は、店より海にいる時間の方が長かったんじゃないかしら」
「歌子、余計なこと言うなよ」
遠くからテツさんが言った。
「言われたくなかったら、写真を外せばいいでしょう」
「いや、外すのは寂しい」
「ほらね」
歌子さんは肩をすくめた。
直樹は、また写真を見た。若いテツさんの後ろには、今と変わらないはずの瀬戸内の海が広がっている。三十年前の映画を追ってきたユミたちのことを思い出した。残っているものと、変わっていくもの。その両方が、ここには何気ない顔で置かれている。
「ところで」
やっさんが、直樹とエミの方へ顔を向けた。
「二人は、ここの常連かい?」
いきなり声をかけられて、直樹は背筋を伸ばした。
「あ、僕は……金曜の夜だけです。勉強させてもらっていて」
「私は、仕事帰りに。トラックで」
エミが答える。
「へえ。若いのに偉いな。勉強と仕事か」
「若いってほどでもないです」
直樹は反射的に言った。
「若いよ。俺たちから見れば、十分若い」
やっさんは笑ったあと、少しだけ表情をやわらげた。
「若いときは、自分が若いって分からないもんだけどな。俺もそうだった」
そこへ、歌子さんが料理を運んできた。
「はい、お待たせ。ノンアルビール追加分と、鯛茶漬け。あと、テツさん用に焼き魚ね」
「おお、これこれ!」
やっさんの声が一段高くなった。
「これが食いたくて来てるんだよ」
テーブルに置かれた鯛茶漬けは、直樹の想像していたものよりもずっと澄んでいた。茶碗の上に薄く切られた鯛が並び、そこへ熱い出汁が注がれている。湯気の中に、魚の香りと、少しだけ柑橘のような爽やかな香りが混じっていた。
「鯛で出汁を取ってるんだ」
やっさんが、直樹たちに向かって言った。
「酒の締めに最高なんだよ。今夜はノンアルだけどな」
「その前に、バイクで来てる人に酒なんか出せません」
歌子さんが即座に言う。
「分かってるよ。毎年言ってるだろ」
「毎年言われてるのよ」
また笑い声が起きた。
やっさんは箸を取った。最初の一口を口に入れた瞬間、ふっと黙った。
さっきまであれほど大きかった声が、急に止まった。革ジャンの男たちも、それを分かっていたように、誰も茶化さなかった。
やっさんは、二口、三口と静かに食べた。
それから、親指で目元をぬぐった。
「やっぱり、うまいな」
声が少し震えていた。
「うまいよ。歌子」
「ありがとう」
歌子さんは、いつもの明るい調子ではなく、静かに答えた。
直樹は、何かを見てはいけないような気がして、問題集の方へ視線を落とそうとした。けれど、落とせなかった。
人が食べながら泣くところを見るのは、初めてではないはずだ。ドラマや映画では何度も見たことがある。けれど、目の前で、革ジャンの男が鯛茶漬けを食べながら涙をこらえている姿は、何かとても生々しかった。
「すまんな」
やっさんが、直樹とエミに向かって言った。
「見苦しいところを見せた」
「いえ」
直樹は、それ以上言葉が出なかった。
エミも、コーヒーカップを持ったまま、黙っていた。
「ここにはな、昔、嫁さんと娘と来たことがあるんだ」
やっさんは、茶碗の中を見つめたまま言った。
「まだ大島大橋を渡るだけで、ちょっとした旅行みたいに感じてた頃だ。娘が小さくてな。魚は苦手だって言うくせに、ここの出汁だけは飲みたがった」
テツさんが、隣の椅子に腰を下ろした。
「覚えてるよ。小さい子だった。お茶漬けの出汁だけおかわりしたがって、歌子が小さい器に入れて出した」
「そうそう」
やっさんは笑った。
「それで、嫁さんに怒られてた。『ちゃんと具も食べなさい』って」
そこまで言って、また黙った。
歌子さんは、新しいお冷をそっと置いた。
直樹は、聞いていいのか迷った。
けれど、やっさんの方から続けた。
「二人とも、もういない。事故でな」
ドライブインの空気が、少しだけ重くなった。
「俺だけ残った。しばらく何もできなかった。バイクも売ろうと思った。音がうるさいだろ。昔はその音が好きだったのに、ある日から急に、全部うるさくなった」
やっさんは、ノンアルコールビールの泡を見つめた。
「でも、こいつらが年に一度だけ走ろうって言ってくれてな」
ほかの革ジャンの男たちが、少し照れたように視線を逸らした。
「俺たちも似たようなもんだよ」
一人が言った。
「災害で家族を亡くしたやつもいるし、病気で奥さんを見送ったやつもいる。仕事を失って、家族と離れたやつもいる。理由はバラバラだけど、気づいたら、みんな何かしら失ってた」
「妻子って言っても、失い方はいろいろだ」
別の男が続けた。
「死別だけじゃない。離れてしまった人もいる。戻れない人もいる。会えなくなった人もいる」
エミが、静かに聞き入っている。
直樹は、革ジャンの男たちを見た。
さっきまで爆音とともに現れた、少し怖い人たち。けれど今は、誰も大きな声を出していない。鯛茶漬けを食べ、ノンアルコールビールを飲みながら、それぞれが自分の中の誰かと向き合っているように見えた。
「年に一度、山口を回って、ここへ寄る」
やっさんが言った。
「それから広島に入って、瀬戸内を少しずつ走る。しまなみまで行く年もあるし、途中で天気が悪くなって引き返す年もある。予定通りに行かないのも、まあ旅だ」
「奥さんと娘さんも、一緒に走っているんですか」
エミが、ぽつりと聞いた。
やっさんは少し驚いた顔をして、それからゆっくり笑った。
「そうだな。そう思わないと、走れない日がある」
その答えに、エミは小さく頷いた。
「私はトラックなので、バイクとは違いますけど」
エミは言った。
「荷物を積んで走っているとき、たまに思うんです。今、自分が運んでいるのは物だけじゃないのかもって。誰かの仕事とか、晩ごはんとか、約束とか、そういうのも一緒に積んでいる気がする時があります」
「いいこと言うねえ」
テツさんが感心したように言う。
「いや、今のはちょっと、急に出ました」
エミは照れて、キャップのつばを少し下げた。
やっさんは、エミを見て言った。
「走る仕事をしてる人は、分かるんだろうな。道ってのは、ただ進むためだけにあるんじゃない。戻るためにもある。会いに行くためにもある。会えなくなった人を思い出すためにもある」
直樹は、その言葉を聞きながら、自分が毎週、山陽本線に乗ってここへ来る理由を考えた。
勉強のため。
夕食のため。
自習室が空いていないから。
そう説明することはできる。けれど、最近はそれだけではない気がしている。ドライブインの灯りを見つけると、胸の奥が少しだけ軽くなる。エミのトラックが停まっていると、なぜか安心する。掲示板に飾られた花火の写真を見ると、恥ずかしいのに、少し嬉しい。
自分も、何かを失った人たちのように、ここへ戻ってきているのかもしれない。
まだ失っていない何かを、失わないために。
「そういえば、やっさんたち」
歌子さんが、急にいつもの調子に戻した。
「今夜はどうするの? もう遅いし、バイク動かしたら近所迷惑よ。さっきので十分響いてたんだから」
「分かってるって」
やっさんが笑った。
「今夜は、月待ホテルに泊まる」
「そう」
歌子さんは、驚かなかった。
テツさんも、何も言わなかった。
「月待ホテル?」
直樹は、思わず小さくつぶやいた。
大畠駅の近くに、そんなホテルがあっただろうか。スマートフォンで検索した覚えも、駅から歩いた道中で看板を見た覚えもない。
エミも同じように首をかしげていた。
「聞いたことあります?」
「ないです」
直樹が小声で答える。
「でも、このあたり、海側の道は暗いから、見落としてるのかも」
「そうかもしれませんね」
二人は、それ以上深く聞かなかった。
歌子さんもテツさんも、あまりにも自然に受け止めていたからだ。
もしかすると、地元の人しか知らない小さな宿なのかもしれない。そう思うことにした。
「月待ホテルはな」
やっさんが、少し楽しそうに言った。
「必要な時にしか見えないんだよ」
「また始まった」
革ジャンの男の一人が笑う。
「やっさんは毎年それ言うんだから」
「本当だって。なあ、テッちゃん」
「さあな」
テツさんは、曖昧に笑った。
「見える人には見える。見えない人には見えない。それでいいんじゃないか」
直樹は、その言い方が妙に引っかかった。
けれど、考えすぎると資格試験の問題文より難しくなりそうだったので、そこで思考を止めた。
夜は少しずつ深くなっていた。
食事を終えた革ジャンの男たちは、ノンアルコールビールのジョッキを空にし、最後に温かいお茶を飲んだ。轟音とともにやってきた人たちが、今は湯呑みを両手で包むように持っている。その落差が、直樹には少しおかしかった。
「ところで、若い二人」
やっさんが、ふいに直樹とエミを呼んだ。
「ジュークボックスって知ってるか?」
「ジュークボックス、ですか」
直樹は記憶を探った。
「ボウリング場で見たことがあるような……いや、あれは飾りだったかもしれません」
「私は、名前だけは知ってます」
エミが言った。
「音楽を選んで、お金入れて流すやつですよね。たぶん」
「そうそう」
やっさんは満足そうに頷いた。
「昔はな、店に入って、コーヒー飲んで、誰かが選んだ曲を聞く時間があったんだ。自分で選んだ曲じゃないのに、その場にいる全員で聞く。あれが良かった」
「今はスマホで、自分の好きな曲だけ聞けますもんね」
直樹が言う。
「便利だけど、寂しい時もある」
やっさんは立ち上がった。
「ここには、まだあるんだよ」
カウンターの奥、観葉植物と古い観光パンフレットの棚の間に、木目調の箱が置かれていた。直樹は何度もこの店に来ていたのに、それがジュークボックスだと気づいていなかった。古い家具か、飾り棚だと思っていた。
やっさんは、ポケットから硬貨を取り出した。
「いつかレコードも触ってみたいです。最近、また人気が復活しているらしくて」
エミが言う。
「じゃあ、今度な。あ、でも歌子やテツがいるから大丈夫か。ここはまだ、そういうものが残ってる店だ」
やっさんは硬貨を入れ、ゆっくりと番号を押した。
機械の中で、かすかな音がした。
古い何かが動き出す音。
眠っていたものが、ゆっくり目を覚ますような音。
やがて、スピーカーから洋楽が流れ始めた。
やっさんが、少し照れたように言う。
「たしか『男が女を愛するとき』みたいなタイトルだったはずだ。なんか照れくさいな」
直樹には、正確な英語のタイトルまでは分からなかった。けれど、声の深さと、ゆっくりと染みてくるようなメロディは、初めて聞くのにどこか懐かしかった。
革ジャンの男たちは、誰も騒がなかった。
歌子さんはカウンターの内側で、手を止めていた。
テツさんは、やっさんの隣に立っていた。
エミは、キャップのつばの下で、静かに目を伏せていた。
愛という言葉は、直樹にはまだ少し大きすぎし、遠くにも感じる。
けれど、その曲を聞きながら、彼は思った。
愛は、必ずしも静かに始まるものではないのかもしれない。
轟音とともにやってきて、ノンアルコールビールで笑い、鯛茶漬けで泣き、見えないホテルへ向かう夜もある。
そして、誰かを失った人たちが、それでもまた道へ出るために、年に一度この店へ帰ってくる。
ドライブインの窓の外では、バイクが月明かりを受けて黙って並んでいた。
さっきまであれほど大きな音を立てていたのが嘘のように、静かだった。
曲が終わるまで、誰も席を立たなかった。
直樹も、エミも、ただ同じ音楽の中にいた。




