第44話:修正不能な真実(アンストッパブル)
指先が、わずかに震えていた。
ジークヴァルト様が薪を割るために庭へ出ている、わずかな時間。
私は一人、リビングのソファで『空白の手帳』を開いていた。
めくった最後のページ。
そこに刻まれた「砂時計」の印は、朝よりも確実に、その中身を減らしていた。
砂の一粒一粒が、私たちの残された「時間」そのものであるかのように、音もなく下へと落ちていく。
「……嘘、でしょ」
私は震える手でペンを握り、無理やり白紙に文字を刻もうとした。
『――砂時計の砂は、今この瞬間から逆流を始める。この世界は、永遠に美しく存在し続ける』
魂を削るように、紅いインクを絞り出す。
白紙の上に文字が踊り、一瞬だけ白銀の光が走った。
けれど。
「……あ……っ」
文字が、定着せずに消えていく。
まるで、乾いた砂の上に水を垂らしたように、書いたそばから意味を失い、霧散していく。
インクを吸い込まない。世界が、私の「記述」を拒絶している。
『――エラー。観測リソースの枯渇。物語の維持に必要な「外部電力」が遮断されています。
これ以上の修正は、世界崩壊の速度を加速させる原因となります』
システムの声さえも、今は掠れたノイズのように弱々しい。
分かっていた。
物語は、読まれることで命を維持する。
誰の目にも触れず、誰の記憶にも残らない「禁書」となったこの世界は、もう自らを支える熱量を失ってしまったのだ。
ふと、窓の外を見た。
「……え?」
喉の奥が引き攣った。
朝までキラキラと輝いていた美しい湖の、対岸が消えていた。
消えた、という表現は正しくない。
色が抜け、輪郭がぼやけ、まるで描きかけのデッサンのように線だけの世界に退行している。
森の緑は灰色の染みになり、その奥にあるはずの山々は、既に真っ白なキャンバスへと戻っていた。
「……嫌。そんなの、嫌よ」
私は窓に駆け寄り、狂ったようにペンを振り回した。
書き込め。戻せ。この幸せを、消させないで。
でも、ペン先からは虚しい掠れた音しか響かない。
「エルセ」
背後から、低く、全てを見透かすような声がした。
「ひ……っ!」
振り返ると、ジークヴァルト様がドアのそばに立っていた。
手には薪ではなく、一輪の――半分だけ色が抜けて白くなった花を握っている。
「ジーク、ヴァルト……様。いつから、そこに……」
「お前がこの世界を必死に繋ぎ止めようとして、無様に絶望し始めた頃からだ」
ジークヴァルト様は、ゆっくりと私に歩み寄ってくる。
彼の足音が、色の抜けたフローリングに冷たく響く。
彼は私の手から、力なく握られていた手帳とペンを取り上げた。
「ジークヴァルト様、それは……! 見ないで、ください……!」
「なぜだ? お前が隠したところで、現実は変わらん。……見ろ。対岸の次は、この庭が消える。その次は、この家。そして最後には、私とお前だけが残る」
彼は手帳の砂時計を一瞥し、鼻で笑った。
そして、私の顎を強引に持ち上げ、黄金の瞳で私の魂を射抜く。
「……隠し事をしている時、お前の左の薬指がわずかに震える。私が気づかないとでも思ったか?」
「……ごめんなさい。私、怖くて……。貴方と一緒に、消えてしまうのが……」
「消える? フン、傲慢だな、エルセ」
ジークヴァルト様は、私を逃がさないように強く抱き寄せた。
その抱擁は、これまでよりもずっと深く、そしてどこか「終わりの予感」に酔いしれているようでもあった。
「いいか。世界が消えるのは、お前が観測者を切り捨て、私を選んだ結果だ。……ならば、その末路ごと愛でるのが、私の義務だろう」
「でも……! 世界がなくなったら、私たちがいた証さえ、どこにも残らないのですよ!? なかったことに、されてしまうのですよ!」
「それで構わん」
ジークヴァルト様は、私の涙を親指で乱暴に拭った。
「誰の記憶にも残らず、誰の歴史にも刻まれない。……私とお前だけが、真っ白な虚無の中で抱き合って消える。……これ以上の『独占』があるか?」
「……っ……」
彼の言葉に、私は戦慄し、そして同時に、どうしようもないほどの安堵を覚えてしまった。
この人は、本当に狂っている。
世界という器が壊れることさえ、私を独占するためのスパイスにしてしまう。
「怖がるな。世界が白紙に戻るなら、最期の一秒まで、私がお前を抱きしめて、熱を刻んでやる。……お前を消させはしない。世界が消えたあと、私が『最後の一頁』になって、お前を包み込んでやるからな」
ジークヴァルト様の唇が、私の唇を塞ぐ。
死の予感を孕んだ、甘く、窒息するような接吻。
その時。
バリバリバリッ!!
家の壁が、内側から引き裂かれるような轟音が響いた。
見れば、リビングの天井が剥がれ落ち、そこから「何も描かれていない真っ白な空間」が顔を出している。
砂時計の砂が、最後の数粒になった。
「……来たな」
ジークヴァルト様は私を抱きかかえたまま、不敵に笑って玄関のドアを見た。
ドアの隙間から、強烈な「無」の光が漏れ出している。
一歩外へ出れば、そこにはもう、大地すら存在しないのかもしれない。
「さあ、エルセ。最後の散歩に出かけよう。……世界が私に降参する瞬間を、特等席で見せてやる」
ジークヴァルト様が、迷いなくドアノブに手をかけた。
開かれた扉の先。
そこには、私たちが生きた証を全て飲み込もうとする、究極の「白」が待ち構えていた――。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
「世界が消えることさえ独占の手段にする」ジーク様……!
不気味なほどの純愛が、ついに世界の終わり(リソース切れ)に追いついてしまいました。
誰もいない二人きりの世界を選んだ代償。
それを「最高のエンドだ」と言い切るジーク様の狂気に、エルセ様もまた、抗えない安堵を抱いてしまいます。
「ジーク様の価値観が振り切れてて最高」「白紙に戻っていく世界が切なすぎる……」
と思っていただけたら、ぜひ評価【☆☆☆☆☆】やブックマークをお願いいたします!
皆様の応援こそが、消えゆく世界の砂を繋ぎ止める、最後の「命のインク」になります。
次回、第45話は「さあ、本当の戴冠式を始めよう(第3章・完)」。
白紙の世界に放り出された二人。
しかし、ジーク様は諦めてなどいませんでした。
「物語」が終わるなら、「現実」を奪い取ればいい。
次元を超えた、真の意味での「ざまぁ」と「ハッピーエンド」が今、刻まれます。
第3章、ついに完結! お楽しみに!




