62.雲路
「ツェン。起きて」
事務所のデスクで眠りこける男をシルファが揺さぶる。
返事もしない男が、少女の体を強く抱きしめた。
「ちょっと・・・止めて・・・!!」
その腕を振りほどこうと少女が身を捩る。
赤眼の男が深く座り直した椅子が倒れる。
若干の沈黙の後に、ツェンに覆いかぶさるような姿勢でシルファが苦言を呈する。
「いい加減にして」
「何の話だ?」
口を開くと漂ってくる酒の臭いに堪え切れなくなった少女が続ける。
「バーズがいなくなってから三ヶ月経つのよ?」
「それが何だってンだ」
何一つ感情を示さない赤眼の男に、ブラウンの瞳をした少女が叫ぶ。
「貴方はそんな人じゃなかった!!出ていくからどいて!!」
「俺がどんな?どんな人間だって言うンだッ!!!?」
倒れながら笑う男が少女へと告げた。
「俺が誰か知ってるか!?」
「もう嫌!!」
騒ぎを聞きつけて事務所に入ってきたエルがその光景を見てツェンに飛び掛かる。
「ガキは出ていけ!!」
エルの腕を掴んだ赤眼の男が、背後にある窓にその体を叩きつけた。
強化ガラスを突き破り、金髪の少年が階下へ落ちていく。
舞い上がる書類の中、抱かれていた腕から逃れた少女が軽蔑の眼差しをツェンに向け、走り去っていった。
「シルファちゃんに何をしたの?」
玄関から入ってきたリネアがそう問いかける。
「何もォ、してねぇですよー」
椅子に座っている赤い眼をした返事の主に近づくと、女が鬼神のごとき表情でその胸倉を掴み上げ、己の額を赤眼の男に打ち付けた。
「ふざけてるなら、もうここから出て行け!」
襟元から手を離されたツェンが、デスクに並んでいる酒瓶を前に答える。
「そうスか。じゃあ後のことはァお願ぇしますよー」
その態度にリネアが激昂して叫ぶ。
「本当にふざけてんの!!」
「知らんっすよぉ。お前こそ出ていけばぁ」
頭の中で何かが弾けたリネアが、赤眼の男を軽蔑の眼差しで見つめながら言う。
「本気で言ってンのか?」
「あぁ、ホントっすよ。じゃあね、バイバイ」
「そうやって母さんも捨てたんだ」
そう言ったリネアが自身の頭に銃口を突き付ける。
「アンタが父親なんて恥ずかしいだけだよ。じゃあね、バイバイ」
引き金に手をかけた娘の銃を男が握りつぶした。
その行為にリネアがツェンの頬を引っ叩く。
「自分勝手なことばっか言ってないで、少しは人のことを考えなさいよ!!」
「結果がこれだ」
視線が宙を彷徨ったままの男が言う。
「俺にアイツ等は育てられない。だから出て行ってもらった」
「何の話?」
溜息をついたリネアに、間を置いてツェンが言葉を吐く。
「アイツ等はバーズが引き取ったんだ。俺にはもう目的がない」
言葉を止めた赤眼の男に黒眼の女が言う。
「続けて」
「もうねぇンだよ・・・」
「何が?」
机に手をかけた男の瞳が真紅に染まる。
「目的がっつってんだろ」
「だったら何でさっき私をとめた!!」
ツェンが手をかざす机に拳を叩きつけたリネアが叫ぶ。
「それは・・・お前が・・・死んだら・・・」
しどろもどろに告げる男にリネアが問い詰める。
「目的がないなら関係ないだろ!!玄関先で泣いてんだよ!シルファちゃんが!!」
ふっと、赤眼の男の体から何かが抜け落ちる。
「エルは?」
「どっかに走っていった。探してくれば」
その言葉に微かに笑みを浮かべた男が言う。
「効いたぜ。お前のパンチ」
そう言ったツェンが玄関を開けると、栗色の髪の少女が壁に凭れ掛かっていた。
「エルを探してくるから部屋で待っててくれ」
無言のまま男から眼を反らす少女にツェンが言う。
「さっきは悪かっ」
赤い目を腫らした少女の平手打ちが、その言葉を中断させる。
その脇を少女が通り抜けていった。




