第3話 隠れ家をさがして
まず、動くことから始めなければならなかった。
魚が戻ってくる前に、安全な隠れ家を見つけたい。決意はりっぱだ。問題は、わたしがまるで動けないことだった。手も足もヒレもない。前に進もうと念じても、体はその場でぷるんと揺れて、ぺたんと戻る。それだけ。
(どうやって動くの、これ)
試しに、体の前のほうをぐうっと伸ばしてみた。青い体が、にゅうと細く前へ突き出る。それから後ろを縮めて、前に寄せる。……ずり、と、ほんの少しだけ進んだ。
前を伸ばす。後ろを縮める。ずり。完全に、尺取り虫の動きだ。前世で庭の葉っぱを這っていた、あの子たちと同じ。まさか自分がやる日が来るなんて。
(貴族令嬢、尺取り虫になる。……日記には書けないな)
ぼやきながら、ずりずりと進む。
やっているうちに、ふと思った。この体、いったいどういう仕組みなんだろう。
骨も、関節も、内臓もない。あるのはぷるぷるの中身と、その真ん中の小さな核だけ。伸ばそうと思えば伸びるし、縮めようと思えば縮む。とがらせることも、膜を張ることもできる。決まった形が、まるでない。
前世のわたしの体は、こうはいかなかった。骨があって、曲がる方向も、届く長さも、ぜんぶ決まっていた。それにくらべて、この体の自由なこと。弱くて頼りないけれど、そのぶん、なんにでもなれる。
核が、たぶん本体なんだと思う。この小さな芯さえ無事なら、中身は水みたいにどんな形にもなれる。逆に言えば、わたしという存在は、この一粒の核にぜんぶ詰まっている。
(……なんだか、種みたいだな)
ふと、そんなことを思った。前世で手のひらにのせた、小さな野菜の種。あの一粒の中に、葉も、花も、実も、ぜんぶが眠っている。今のわたしの核も、それに似ている気がした。
変な連想だ。でも、そう思うと、この情けない体も、少しだけ愛おしく思えた。
*
ずりずりと進みながら、わたしはこの沼を、はじめてゆっくり眺めた。
淀んだ緑の水。腐りかけた水草。泥に沈んだ倒木。決してきれいな場所じゃない。それなのに、目をこらせば、そこかしこに命がひしめいていた。
群れで泳ぐ小魚。泥にもぐる虫。水草の陰でじっと獲物を待つ、あのヒルのような影。みんな、食べて、食べられて、必死に生きている。淀んで死んだように見える沼は、その実、命でぱんぱんに詰まっていた。
そして、その食う食われるの輪の、いちばん底に、わたしがいる。
スライム。この世界でいちばん弱い魔物。魚に食われ、ヒルに吸われ、虫にすら侮られる。魔物なんて名前がついているのが、いっそ申し訳ないくらいの、どん底の存在。
(……ま、知ってたけどね)
わかってはいた。それでも、あらためて突きつけられると、ため息のひとつも出る。ため息をつく肺も、ないんだけど。
ただ、ひとつだけ、わからないことがあった。
複製の力だ。
石を取り込んで、そっくり同じものを生み出す、あの力。命を削るとはいえ、無から物を作り出すなんて、どう考えても、最弱のスライムが持っていていい力じゃない。
(なんで、わたしにこんな力があるんだろう)
考えても、答えは出なかった。前世の知識をひっくり返しても、こんな力の説明はどこにもない。ただ、目覚めたときからこの体に備わっていた、としか言いようがない。
この力と、わたしがスライムになったこと。そして、あの沼の底で脈打つ、大きな気配。ぜんぶが、どこかで繋がっている気がした。けれど、その糸をたぐる術は、今のわたしには、まだない。
*
しばらく進むと、大きな倒木が目に入った。半分泥に沈んで、苔むした幹。その根元に、ちょうどわたしがすっぽり入れそうな、暗い洞が空いている。
(あそこ、よさそう)
魚は入ってこられない。上からの影にも見つかりにくい。隠れ家には、うってつけだ。
もっとも、先客がいないとは限らない。おそるおそる中をのぞくと、案の定、奥の暗がりで黒い影が、ぬら、と動いた。ヒルだ。さっき見たのより、ひとまわり小さい。
でも、今のわたしには、切り札がある。
体の中に忍ばせておいた石ころを、膜のとがりに乗せて、ぐいと突き出してみせた。石の切っ先を向けられたヒルは、しばらく迷うように身をくねらせていたが、やがて、するりと反対の穴から逃げていった。
(……助かった)
命を削らずにすんだ。あらかじめ作っておいた石が、こんなふうに役に立つなんて。作ったときは、あんなに「役立たず」だと思っていたのに。
石ころは、重しになる。武器になる。そして、ひとりぼっちの沼で、ちょっとした話し相手にもなる。返事はしないけど。
*
わたしは、ぷるぷる震える体を、そろそろと洞の中に滑りこませた。ひんやり湿った、苔の匂い。狭くて、暗い。けれど、上からも横からも守られている。
わたしの、はじめての、隠れ家。
体を丸めて――丸める体があるのかは怪しいけれど――洞の壁にそっと寄りかかると、ようやく、はりつめていた気持ちがほどけた。
生きてる。わたし、ちゃんと、生きてる。
石ころ一つで死にかけて、魚に追われて、ヒルに怯えて。情けない一日だった。それでも、移動を覚えて、隠れ家を見つけて、戦わずに切り抜ける方法まで知った。ほんの少しずつ、わたしは「できること」を増やしている。
いつか、あの沼の底に行く。なぜ死んだのかを思い出して、両親の形見を取り戻す。そのためには、まず生き延びて、力をつけて、この弱い体で、一段ずつ登っていくしかない。
焦らなくていい。種だって、蒔いてすぐには芽を出さない。土の中で、じっと時をためて、それから、そっと顔を出す。
(わたしも、今は、土の中の種)
そう思ったら、この暗くて狭い洞が、なんだか、あたたかい土の中みたいに思えてきた。
*
うとうとと、意識が沈みかけた、その時だった。
苔むした壁の、その向こう。倒木の、さらに奥のほうから。
どく、ん。
と、低く脈打つ音が、聞こえた気がした。
あの、沼の底の気配と同じ。もっと近くで。もっと、はっきりと。まるでこの倒木そのものが、どこか深いところで、大きな何かと繋がっているみたいに。
(……この倒木、もしかして)
せっかく見つけた安らぎの隠れ家が、いちばん近づいてはいけない場所の、すぐ隣だったなんて。そんなことは、まだ、思いつきもしないまま。わたしは暗い洞の奥を、じっと見つめていた。




